睡眠学習
今まさに産声を上げる寸前だった泰地にゃんは、その音ではっと我に返る。
というか厳密には驚いた弥月が、俺を頭ごとベッドにぶん投げてささっといずまいを正してごまかした。
のしのし、とゆっくり入ってきた乱入者静凪は、不思議そうな顔でジロジロ俺たちを見ながら、
「あれ? いま……プロレスしてなかった?」
「し、してない、してないよ?」
弥月が必死に知らん顔を作ってフルフルと首を振る。
言う通り断じてプロレスはしてないが、最終的にヘッドロックからの首投げが華麗に決まったようにも見える。
にしても今の抱きしめられてのナデナデはとんでもない破壊力だったぜ。思わず弥月ママに絶対服従を誓うところだった。
次は邪魔の入らないところでお願いして……じゃなくて、俺はキリっと顔を作ると一度立ち上がって、床に座り直す。
「助かったぜ静凪。もうちょっとで俺もダメになるところだった」
「なにが? もうだいぶ前からダメな人になってるでしょ」
うーん辛辣。でもこれでこそ現実に戻ってきたって感じがするぜ。
静凪は手にしたゲーム機本体と、ごちゃごちゃと持っているコードを引きずりながら、
「泰地、ゲームやろ」
「ん? しょうがないなぁ~全く」
まさに渡りに船とばかりに勉強から逃げようとすると、すぐさま弥月が横から遮ってくる。
「いまテスト勉強中だからダメ」
「勉強……? してないじゃん」
静凪は部屋を見回して言う。確かに勉強はしてない。
かといって赤ちゃんプレイをしていたとは言えない。
「今からするの。だからダーメ!」
しかし弥月は強い口調でそう押し切った。
すると静凪は苦いものでも口にしたような顔で弥月に向かってべ~っとやると、俺のそばに座ってギュッと腕を抱きしめながらこそっと耳打ちしてくる。
「さいきん弥月ちゃんこわ~い。なんかお母さんみたい」
弥月まさかの真奈美化。
何年か後、弥月もああなってしまう……とは考えたくない。
俺と付き合いだしてから、徐々に弥月の静凪に対する態度も変化してきているのだ。
もはや以前のようにナメられて言いなり、ということもなくなったらしい。
「それに比べて泰地はやさしいねぇ」
「離れろ暑苦しい」
「あててんのよ」
「当たってないんだが?」
静凪は必死にむぎゅむぎゅと胸を腕に押し付けてくるが感触が残念すぎる。
勝手にやるのは構わないんだが、弥月様からギラギラした視線が飛んでくるので控えていただきたいところだ。
「んむぅ~そうやって二人してぇ。どうやら怒りのしずにゃんを目覚めさせたいようだな」
「しずにゃんじゃないよもう、いいから出てけ」
「そうやって泰地もみすてるんだ、このはくじょうもの」
「見捨てるも何も拾った覚えはない」
しつこくまとわりつく静凪をいい加減引き剥がそうとすると、突然ぐっと顔を寄せてきた静凪が耳元にささやきかけてきた。
「……泰地にゃん」
そう言って、にやっと不敵な笑みを浮かべる静凪。
おとなしく言うこと聞かないと泰地にゃんすんぞと言わんばかりである。
もうほんと、ここまで引っ張るとはなんて悪い子なんでしょうこの子は。
とにかくごまかせ、全力でごまかすんだ。
「ん~よしよし、しずにゃんいい子だぞ~」
「うにゅ~」
わしゃわしゃと頭を撫で回してやると、すっかり野生に帰ったしずにゃんが変な声を上げながら胸元に顔をうずめてくる。
その一方で、「何してんの?」とでも言わんばかりの弥月のジト目が突き刺さる。
しかしこれはもとを辿れば泰地にゃんさせてあげるとか言い出した弥月のせいであって……。
「ん~ちゅっちゅっ」
「あっ、バ、バカやめろ!」
静凪は喉を鳴らしながら顎を持ち上げて、しきりに俺のほっぺたに口づけてくる。
しずにゃんをあまり甘やかすと見境がなくなってくるので危険なのだ。
そのまま馬乗りになろうと体重をかけてくる静凪を、見かねた弥月が背後から引き止める。
最終的に首根っこをひっつかまれて、まさにつまみ出された猫のようになっていた。
「静凪ちゃんも! そろそろ学校でテストなんじゃないの?」
「うん」
「勉強しなくていいの?」
「うん」
「いやダメだろ」
なにをコクコクと頷いてやがるか。
「わかった。じゃあ静凪もいっしょに勉強する」
そう言うと静凪は自分の部屋に取って返して、すぐに英語の教科書と問題集を持って戻ってきた。
どん、と机の上に教科書類を置いて、一丁前に正座をしてめくりだす。
「ん~テスト範囲は~……」
「うわ何これ超簡単じゃん。こんなのやってんのかよウケる~」
「簡単なのは当たり前でしょ」
冗談半分で言ったのになぜか弥月さん半ギレである。こと勉強に関しては手厳しいお方なのだ。
すると今度は静凪が問題集を開いて、俺に見せてくる。
「じゃあこれは?」
「ん? ん~……」
正しい語順に直せ? 一つだけ不要な単語がある? なんで不要なの混ぜちゃうかなあドジっ子かな?
う~ん……まあ、あれだ。簡単すぎて逆にわからないみたいなところあるよね。
「えっ、泰地まさか……」
隣で覗き込んだ弥月がドン引きである。
こういうときも「わからないの? しょうがないでちゅね~」ってやってくれればいいのに。
どうやらしょうがないで済ませたらガチであかんやつらしい。
「や、やだなぁ、ギャグに決まってるじゃないか。俺がやってもしょうがないし……。ほら静凪」
静凪に突き返すと、静凪は教科書と問題集をパラパラ……とめくっていく。
そしてものの十分もしないうちに、
「ふぁーあ……。なんか眠くなってきた……」
「それ普通にダメなやつだろ」
「おやすみぃ……」
「やめろ、ここで寝るな」
止めるのも聞かず、静凪は俺の膝上にもたれかかってくる。
かと思ったらすぐさま規則正しい寝息が聞こえてきた。驚異の入眠速度。
身動きが取れなくなり弱っていると、弥月がじっとこちらを睨んでいるのに気づいた。
「……な、何か?」
「手!」
指さされて手元を見る。
すると、なぜか俺の手が勝手に静凪の尻を揉んでいた。
「はっ、なんだこれは」
「……何やってるわけ?」
「い、いや手が勝手に……」
我ながら驚きである。
なんというかちょうどいいところにあったから、ぷにぷにするおもちゃみたいな感覚で触っていただけで他意はない。
それなのに弥月はまるでこの変態を見る目である。
「いつも……そんなことやってるわけ?」
「い、いや違うんだよこれはマジで」
これでは俺がまるで息をするようにセクハラしているみたいではないか。
俺はあくまで毅然とした表情で静凪を担ぎあげると、そのままベッドの上に転がす。
「まあ大丈夫だろ、コイツは多分……」
クソガキの分際で表面上成績はよいのだ。
今のように教科書や問題集をパラパラめくって、途中で眠くなって寝る。しかし起きるとあら不思議、その内容がすっかり頭に入っているのだという。
睡眠学習……とはまた違うよくわからない謎の特技を持っている。ゆえに学校では天才扱いされているというが納得がいかない。
「本当? 本当に大丈夫なの?」
「たぶん……本当」
前にも弥月にはその話をしたことがあるが、やはり半信半疑である。
でも本当にコイツが勉強してるの見たことないんだよなぁ。
「じゃあおやすみ」
「泰地はダメでしょ、勉強」
ノリで静凪のマネをしようとしたところをふんづかまえられる。
これはもはや逃げられないと覚悟を決めると、弥月は急に顔を赤らめだして上目遣いになって、
「その……忘れてないでしょ? ご褒美……」
か、かわいい……。
これだけうるさく言う裏で、どうしても俺にご褒美をあげたいようだが……これにはさすがの俺もお勉強不可避である。
思わずゴクリとつばを飲みこんだ俺は、「は、ハイ……」と若干裏声気味に返事をした。