深雪にゃん
すると素早く猫のように跳ね起きた弥月は、ささっと俺から距離をとって正座をした。
ややあってゆっくりドアが開くと、ひょっこりと顔をのぞかせたのはこちらもパジャマらしき格好をした深雪さんだった。
「わ、めっずらし~。二人で弥月の部屋にいるなんて」
ニコニコ顔の深雪さんに対し、警戒心マックスな弥月が、
「な、何の用?」
「別に用っていうか……弥月じゃなくて、泰地くんに用があって」
「え? 俺?」
深雪さんはするっと部屋の中に身を滑らせると、後ろ手でドアを閉める。
そしてまっすぐ俺のそばまで近づいてきて膝をつくと、耳元でささやくように口を開いた。
「泰地くん、ちゃんとつけないとダメだからね?」
ぶふっと吹き出しそうになるのをなんとかこらえる。いきなり何を言い出すかと思えば……。
何の話? とばかりに弥月が俺の顔を見てくるが、何の話をしてるんでしょうかねえ……。
俺がなんとも言わないうちに、深雪さんは一人で勝手に続ける。
「私としては、そういうのはまだ早いかなって気もするけど……でもいずれ泰地くんには覚悟してもらわないといけないからね。たとえお義母さんが投資で大損しても僕が支えていきますみたいな」
「なんですかそれ、いくら飛ばしたんですか」
「大丈夫大丈夫、想定の範囲内だから。損切りって大事よね」
もしかしてヤベーやつじゃねえのかこの人……。
しかしよくよく見ると、深雪さんもなんだか口調がふわふわしているというか、若干顔が赤いような。
まさかこれは……。
「深雪さんもしかして、酔ってます?」
「酔ってないで~す」
酔っ払いはみんなそう言う。
だがふるふると首を振る仕草がかわいいのでOK。
「ちょっとお母さん、いつの間にお酒……」
「弥月にゃん……」
深雪さんが弥月を遮るように、急にぼそっと言った。
その目線はじっと弥月の頭に向いている。本人気づいていないのか、弥月は猫耳をつけっぱなしなのだった。
たださすがにここで気づいたらしく、弥月ははっと頭を両手で抑えたかと思うと、たちまちかあああっと顔をゆでダコのように赤くして、
「お、お母さん、き、聞いてたでしょっ!?」
「んー? 聞いてたっていうか、聞こえてきたから。いっつも二人でそんなことしてるんだ~って」
「ち、違ういっつもじゃない!」
「へ~じゃたまにしてるんだ? いいなぁ楽しそう」
んふふ、と笑われて、弥月は黙り込んでしまう。今更猫耳を外してもすでに後の祭り。
だから言わんこっちゃない。俺のせいではないのだが、なんだかこっちまで恥ずかしくなってきた。
「ちょっと貸して」
すると何を思ったか深雪さんは、弥月の手から猫耳バンドを取り上げた。
そしておもむろに自分の頭部に装着した。
……装着した、だと?
「泰地くんほら、深雪にゃんだぞ~」
そして俺に向かって手をこまねきながら、この会心の笑顔である。
こんなもん普通のおばさんがやったらうわキッツ……となるのだが、深雪さんとなると話は別だ。
ふ~ん、深雪にゃんね……。で、プレイにはいくら払えばいいのかな?
「泰地く~ん、ごろごろ」
「えっ、あっ、ちょっと……」
「深雪にゃん一人で寂しいの~。にゃでにゃでして?」
深雪にゃんは聞いたことのないような猫撫で声を出しながら、頭をすりすりと俺の肩に擦り寄せてくる。
この堂に入ったにゃんにゃん具合は……酔っているとは言え、これが初犯ではないのではと疑ってしまう。
にしても無料でおさわりオッケーとはサービス精神旺盛である。
しかしそうは問屋が卸さないのが隣のこの御仁。弥月が凄まじい剣幕で深雪さんを引き剥がしにかかる。
「ちょ、ちょっとお母さんなにしてんのっ! やっぱり酔っぱらってるでしょ絶対!」
「だって最近調子いいし、いいじゃんちょっとぐらい~」
「ほんとにちょっとなの? 飲むのは勝手だけど、人に迷惑かけるのはやめてください!」
「え~迷惑かなぁ? 泰地くん?」
「滅相もございません」
「ちょっと泰地も!」
なかなか離れようとしない深雪さんに業を煮やしたのか、負けじと弥月も空いている方の俺の腕をとって抱え込んでしまう。
当ててんのよ言わんばかりに腕が柔らかい感触に包まれ、これは母娘丼不可避……などと言っている場合ではなくいろいろヤバイ。
弥月だけでもしんどいのに、二人同時に手に負えるはずがない。
「お母さんはダメ! これあたしのだから!」
「いいじゃないちょっとぐらい。ゆくゆくは私のものにもなるんだしぃ」
俺の体はあくまで俺のものだと思うのだが、ちょっと何言ってるかわからないです状態。
両側から腕を引っ張られ、胸押し付けられたりほっぺたですりすりされたりと、気がつけば強制ハーレムプレイである。
「もう、こっそり部屋に泰地くん連れ込んだりして……いけない子。そういうのって普通逆じゃない? 泰地くんのほうがよっぽど紳士だね」
「ち、違う、別にこっそりとかそういうんじゃなくて……。それにこの人は紳士じゃなくてただの度胸なしだから! そのくせ妹には容赦なく手を出すっていう!」
俺を挟んで言い合いするのはやめていただきたい。
ていうか誰がヘタレのシスコン変態紳士やねん。
深雪さんも一瞬「えっ……」みたいな顔したけどこれは後できちんと弁解が必要である。
「それに最近、自分で下着買ってきたりして……やらしいんだから」
「ちょっ、なんでそれ……い、いいから、もう出てってったら!」
「はいはいわかりましたよ」
やっと満足したのか、深雪さんは猫耳を取り外してそのまま弥月の頭に取り付けると、手を振りながら出ていった。
ドアが閉まるなり弥月はさっと猫耳を取り外してベッドの上に放り投げると、む~と俺のことをじっと睨んできた。
なぜか俺が八つ当たりされそうな流れ。
「な、何? 弥月にゃんは……罰はもう終わりかな?」
「終わり」
そしてこのつーんとした表情である。
どうやら弥月にゃんはすっかり弥月様に戻ってしまったようだ。
「ところで勉強、ちゃんとしてるんでしょうね?」
「それはもちろん……」
してません。
とまでは言わなかったが、そこはさすが以心伝心である。
「学校で勉強が嫌って言うなら家でするから。明日から、逃げないよ―に」
弥月は至近距離でむすっとした顔をしながら、そう釘をさしてきた。
まあべつに構わないんだけども、なんていうかスパルタなんだよなぁ教え方が。
そしてその翌朝。
腰がイタイイタイ病の真奈美に無理やりゴミ捨てに行かされた俺は、その帰りにちょうど家の庭先に出ていた深雪さんと行き合う。
そこで挨拶がてら俺が、「昨日の深雪にゃん超かわいかったですよ」と言うと、深雪さんの顔が明らかにぴしっとひきつった。
「ナニソレ? 知らない」
突然の記憶喪失である。
そそくさとそのまま家の中に逃げこもうとする背中にさらに、
「やっぱ一人だと寂しいんですね」
と追い打ちをかけると、深雪さんはビクっと肩をすくめて立ち止まった。
そしてギギギ……と首を回してこちらを振り返って、
「な、何のことかな? それは」
「いや昨日言ってたじゃないですか」
「シラナイ」
と言いつつも思いっきり目が泳いでいる。
面白いのでもっと問い詰めてみようかと様子をうかがっていると、ついに観念したように深雪さんは口を尖らせた。
「いいもん、泰地くんがいじめるって真奈美さんに言うから」
そう言うと深雪さんはぷいっとそっぽを向いて、家の中に入っていってしまった。
うーん、なかなかどうして難しいお年頃のようだ。




