影の支配者
「し、静凪ちゃん……」
俺の胸元に顔を埋めていた弥月が、ハっと首をもたげる。
顔色が変わるとはまさにこのことだ。傍目からもさーっと血の気が引いていくのがわかる。
かたや戸口に立った静凪は、勢いよく開け放ったわりにゆっくりと入室し、きっちりドアをしめる。
そしてややぼーっとした眠たそうな半目のまま、無言でのそのそとこちらに近づいてくる。
弥月は体勢が体勢だけに素早く動けず……というか驚きで体が固まっているのか、いぜんとして俺の背中に手を回して抱きついたままの姿勢である。
ぺたぺたとやってきた静凪が傍らで立ち止まり、「……で?」という妙に冷静な顔で見下ろしてくるので、こちらも負けじと神妙な顔つきで返す。
「違うんだ静凪、これは……弥月にゃんだ」
「ふ~ん……」
静凪はじとーっとした目つきで腕組みしながら、俺と弥月の顔を交互に見やる。
そんな顔されても俺自身そうとしか答えられないよくわからん状況なのだ。
固唾を飲んで様子を見守っていると、静凪はおもむろに床に膝をつき、がばっと弥月の下半身に食らいついた。
「き、きゃっ!? ち、ちょっと、し、静凪ちゃん!」
「ん~……うにゅ~、ふしゃあぁぁ~」
おっ、これは怒りのしずにゃん。
静凪は変な奇声を上げながら弥月の腰元にしがみつくと、なだらかに膨らんだ柔らかそうな尻にすりすりと頬ずりを始める。
するとようやく弥月が俺から体を離して抵抗を試みるが、怒りのしずにゃんの勢いは強く逆に仰向けに倒され馬乗りにされてしまう。
静凪は倒した弥月に抱きついて胸元に顔を埋めて……というやりたい放題のフルコース。
「だ、ダメだって、静凪ちゃん……」
「弥月ちゃん体あっつーい。コーフンしてたのぉ?」
たじろぐ弥月に対し、静凪はにやにやと耳元で囁くように言う。
どっかで見たようなこの光景、何か非常にイヤ~な予感が……。
と俺が止めるべきかどうか戸惑っているうちにも、弥月を押し倒して上になった静凪が、顔を近づけてちゅっちゅっと口づけを始めた。
首筋、ほっぺた、耳元。静凪の唇が触れるたびに、弥月の足がビクッビクッと動く。
かたや俺は目の前で突如繰り広げられる破廉恥行為に、あら~、あらら~と声も出ない。
「ちょ、ちょっと、ダメだって! ほ、ほら、泰地も見てるし」
「なんでずるい! 弥月ちゃんだってやってたくせに!」
静凪は一度顔をあげると、俺に向かって「いいでしょこれ~」と言わんばかりにドヤ顔をしてくる。
何これどうしよう。こんな時、どんな顔をすればいいか分らないの。
俺はついに耐えきれず、前回風呂場で見て見ぬふりをしたタブーに触れる。
「それは……何? あなたたちは何をしているの?」
「んふ、これ? いちゃいちゃ甘えごっこ。たまにするの」
なんて卑猥な響きなんでしょう。
ごっこをつければ何をしていいというものでもないと思うのだが……けしからんではすまんぞこれは。
静凪は「んにゅ~」と変な奇声を上げながら弥月の懐に潜り込み、頭を撫でてかわいがるようにせがむ。
「なでろなでろ~」
「は、はいはい、いいこいいこ~」
「ちがう。さっき弥月にゃんがやってもらってたみたいに」
「さっさと降りて」
「ん~? 弥月にゃんはどんな風に甘えてたんでちゅか~?」
「しっ、静凪ちゃん! お、怒るよいい加減に!」
「弥月ちゃんが怒ってもぜんぜん怖くな~い。ぷっぷくぷー」
完全に舐められきっている。
だが弥月が顔を真赤にしてジタバタと暴れだすと、静凪は乗り換えるように俺の方に飛びついてきた。
そして弥月にしたのと同じように、やたらめったらに唇を押し付けてくる。
「ほ~ら、ちゅっちゅっちゅ」
「わっ、ば、バカやめろ!」
「やったね、これで弥月ちゃんとも間接キス」
などとふざけたことを言いながら、静凪は体を預けるようにして俺の膝の上に乗ってくる。
はたから見たらこれ完全に入ってるよねの体勢。確実にバレるレベルで局部がつんつんと尻に当たってしまっている。
案の定すぐに静凪は目をじっと細めてきて、
「……固くなってるんですけど。見てて興奮してたの? へんたい。すけべ。えっち」
「この場合まったく反応がない方が変態なんだぞ」
「すけべ。えっち」
「すけべえっちならもっといろいろやってるぞ」
「ヘタレ」
という結論らしい。
真面目でまともな好青年がヘタレ扱いされるのはいかがなものか。
俺は渾身の力を込めて静凪の体重を跳ね返し、そのまま両脇を抱え上げてベッドの上に放り投げる。
「いい加減にしろこの淫獣めが。なんでひと目もはばからずフルパワーになってんだよ」
「だってそこにもっと恥ずかしい人がいるし」
静凪はそう言って弥月にゃんを指差す。
当人は顔を赤らめながら自分で自分の肩を抱くようにしてうつむいて、まるで事後のようなポーズをしている。
「お前らって、一体どういう関係……」
「うーん、ちょうどいいから今はっきりさせとくけど……わたしねえ、弥月ちゃんも泰地と同じくらい好きだから」
突然のバイ宣言に俺と弥月は思わず顔を見合わせる。
この反応からするに、弥月も初耳のようだが……。
「べつに二人が付き合うのは構わないけど、静凪ちゃんをのけものにするのはダメだよ? むふふ、二人とも静凪には逆らえないの。将来的に二人が付き合いだして結婚して……静凪はそれを裏で操る影の支配者になるのだ」
静凪はにやりと悪い顔でなにやらブツブツ言っている。いつの間にそんな危険思想を抱いてしまったのか。
いや、というかこいつは単純に自分が仲間はずれにされるのが嫌なだけの、ただの甘えたがりのクソガキなわけだ。
「じゃあお兄ちゃん大好きブラコンごっこもいい加減もう終わりだな」
「は? ごっこじゃないし! お兄ちゃん大好きな妹なんだよかわいいでしょ!? ヤンデレブラコン妹って超萌えじゃん!」
「どこにヤンデレ要素あんだよ、まったくしょうもない……お前、甘えられれば結局誰でもいいんだろうが」
「誰でもよくない! 静凪ちゃんそう簡単に懐かない! 泰地か弥月ちゃんの二択!」
なんでちょっとカタコトになってんだこいつ。
弥月もなんとか言ってやれよと水を向けるが、変な単語に過剰反応したのか一人で勝手に顔を赤くしながら、
「け、け、結婚って、そ、それはさすがに気が早すぎるっていうか……」
「ん~? と言いつつなんかにやけてない?」
静凪がベッド降りて、弥月の肩をうりうりとつつく。
何やら俺を無視して盛り上がっているようだが、今のはちょっと聞き流せない。
「おい君たち、勝手に話を進めないでくれないか。付き合うとかなんとかって……。弥月お前、この唐突なキャラ変……なんだかんだ言って、舞依が勝負だとか言ってたこと意識してるのか?」
「ち、違う、そういうんじゃない……。…………だって、泰地がもう流行りじゃないとかって……」
きっぱり否定しやがるくせに、どんどん声が小さくなって何を言ってるのか聞き取れない。
これやられるとイラっとするんだよ、言いたいことあるならはっきり言えと。
「なんにせよ、人の意見に流されてコロッコロ変えるのはどうかと思うけどな。そもそも俺、おどおどしてたりすぐ泣いたりするやつは嫌いだから」
「なにそれ、そんな昔の話……今はもう泣いたりしてないもん!」
弥月は急に声を張り上げて、キっと睨みつけてきた。おっと、「嫌い」は地雷ワードだったか。
にしてもこのひねくれ女は正直俺の手には負えない。本当何考えてるかわからんし……思わせぶりな態度をとってまた俺をからかおうとしている可能性だってある。
もう脳みそプリントアウトでもして見せてもらわないと安心できない。
「……やっぱり、忘れちゃったんだ」
「は? 何が? だからそういう思わせぶりなのもヤなんだけど」
「……あれは嫌これは嫌って、結局どうやったって文句言うくせに!」
そう声を荒げると、弥月は立ち上がって脇目もふらずに、だだっと部屋を出ていってしまった。
開けっ放しになったドアを見ながらあら? と首を傾げていると、隣で静凪がクソデカため息を吐いた。
「あーあ、なんでそうなるかなぁ。ここまでやってあげたのにダメとか、もうある種才能だよね」
「な、なんだよ……」
「はぁ~あ、てっしゅーてっしゅー」
静凪は気だるげに腰を上げると、同じようにさっさと出ていってしまった。




