苦手な空気
晩飯が終わって風呂にも入った俺は、再び自室の机の前でエロ本と向かい合っていた。
お前それ以外なんかないんかい、と言われようが今の俺にとっては最優先事項である。
舞依から「今日はいい練習だった。泰地のほうはどうだ?」とメッセージが来ていたので「とても充実した時間を過ごしたよ」と返信すると、「ほう、一体何をしていたんだ」と絡む気満点でこられたので「すまんが今忙しいのであとにしてくれ」と丁重に断った。
「さて……」
静凪はリビングで眠りこけているのをついさっき確認した。真奈美はオヤジに付き合って下で飲んでいる。
時は来た……と満を持して本をめくろうとすると、コンコンとノックの音がしてガチャ、と背後で扉が開いた。
「ど、どしたの? 大丈夫?」
椅子から転げ落ちそうになっていた俺を、弥月が怪訝そうな顔で見下ろしてくる。
俺が胸に抱えているのは、「ビッチな幼なじみに××されちゃいました」というタイトルの、借りたのは一冊だけとは言ってないとんでもない叙述トリックである。
「お、お前それノックの意味ないからな? そんなに俺のナニ現場を目撃したいか?」
「……ナ、ナニ?」
あまりよくわかってなさそうな弥月を尻目に、俺はこっそり本を机の引き出しに押し込む。
そしてこのタイミングで一体何しに来やがったと、親の仇ならぬ息子の仇を見る目でじろりと弥月の方へ視線を投げる。
「……何か用なわけ?」
「え、えっと……昼間の話、なんかうやむやになっちゃった気がしたから、ちゃんと謝ろうと思って……」
「昼間の話? ってなに?」
「だからその、舞依と一緒に騙そうとしたって……」
「ああその話? しつこいな、それはもういいって言ってんだろ」
そんなことで俺のエロ本タイムを邪魔すんじゃねえ。
ご希望ならネチネチしつこくいびってやってもいいが、こっちは今それどころじゃねえんだよ。
さらりとそう言ってやると、弥月はこわばらせていた体をふっと緩めて、
「よかったぁ、ずっと気になってて……」
「はいはい、よかったね」
わかったらさっさと帰れという空気を全面に出していくが、弥月は一向に出ていく気配がない。
もう終わりだと言っているのに、体をもじもじとさせてご機嫌を伺うような上目遣いで、
「あの……その、もしかして……き、嫌いになった?」
「あぁ?」
「え、えっと、口ではそう言ってるけど実は怒ってるとか……」
「俺がそんなケツの穴の小さい男に見えるか? こう見えてケツの穴ガバガバだからな」
「あっ、あのね、ホントのホントは、別に騙そうとしてたわけじゃなくて……」
「はいはい嫌いじゃない、嫌いじゃないですよ~。これでいいですか~?」
なんかもういろいろめんどくさくなってきた。
というかコイツのこのおどおどした態度が現在進行系でイラついてきた。
そういう陰気臭い感じが苦手だったからもっとノリよくしろって散々言ってきたのに。
まあそしたらいつの間にか結構ウザイ感じになってしまったんだが、それでもこっちよりはだいぶマシだ。
この前の件のせいか知らんが、完全に退化してしまった。これは育成失敗。
それでもまだ納得いかないのか知らんが、弥月は何もないカーペットの上にぺたんと座り込んで、じっとテーブルの足のあたりを見つめたまま微動だにしない。
どこ見てんだこいつ……しかも何もしゃべらないのでやりづらいことこの上ない。
弥月の部屋着は首周りが深めに開いていて、ワンピースの形状をした微妙にエロいやつである。
思わず胸元とすらりと伸びた生足に目がいきそうになるが、あえて見ないように体を別の方へ向ける。
それでも弥月は風呂に入った後なのか、妙にいい匂いが漂ってきてなんだか落ち着かない。
「……あ~あ、ゲームでもやろ」
さすがにエロ本読むから帰れとは言えず、仕方ないので無視してゲームすることにした。というかお互い無言でずっと無音だとキツイ。
しかしゲームを始めたら始めたで、今度は何も言わないまま一緒にテレビの画面を見ている。
なんだこれやりづらい、メチャクチャやりづらい。ていうかこの人は一体何をしている人なわけ? 見学者? 体調不良の人?
扱いに困った俺はいつものノリで、
「あ、あぁそうだ、今日数学の宿題出たんだけど、わかんないからやって」
「うんいいよ、やってあげるね」
なぜかぱあっと笑顔になった弥月は、さっと立ち上がって率先して俺の勉強机に向かう。
そしてカバンから出したテキストをパラパラとめくって見せる。
「どこ? この丸ついているとこ?」
「……やっぱいい」
「え? なんで?」
「そ、そういうのはやっぱ、自分でやらないとね……」
と俺はとてもまっとうなことを言ったにもかかわらず、どうしてそんな不満そうな顔をされるのか。
こっちもこっちで、「ちょっとは自分でやりなさいよ」って言われないと不安になる。なんかちょっと怖い。
弥月はとぼとぼと元の位置に腰を下ろすと、体育座りでぼーっとゲームを見学する係に戻ってしまった。
「……あー、なんかコレもう飽きたな~」
結局無言の圧力に耐えきれず俺はゲームを止めた。関係ないが北風と太陽みたいな話を思い出した。
ここまで来ると新手の嫌がらせである。なんだこれはおかしい、俺達はクールでドライでハードボイルドな関係のはずだろ?
この雰囲気苦手なんだよ、本当……はっ、まさかこいつ、俺の弱点に気づいてわざとこんなマネを……。
「あの、すいませんでした」
とりあえず先に謝っておこう。もしかして前にやらかしたアレやコレがバレたのかもしれない。
思い当たるフシが色々ありすぎて怖い。
「えっ……何?」
「いや? 別になんでも」
なんだよ違うのかよ。
違うってなるとそれはそれで本格的に困るんだが。
「あ、あのさぁ、なんかしゃべろうよ、ね?」
そしてついに自ら歩み寄る姿勢を見せてしまう。
そう言われて弥月はなにか考えていたふうだったが、ややあっておもむろに口を開いた。
「しずにゃん……」
ぶふっ、と思わず吹き出しそうになる。
さてはさっき立ち聞きしてたなこいつ……もうこうなったら開き直るしかない。
「そうだよしずにゃんだよ、超かわいいだろ」
「……二人だと、いつもああいう感じなんだ?」
「いや、いっつもではないけど……」
言葉を濁す俺の顔を、弥月はじっと見つめてくる。
これは俺がシスコンのロリコンだと誤解されているかもしれない。
「いいなぁ……」
「はあ? 静凪がなにか変なこと言ったかも知れんが、そういうのはないからな? マジで。あいつが無理やり甘えようとしてくるから、仕方なく……」
と一応念を押す。すると弥月は特に何も相槌すらせずに、すっと立ち上がった。
そのままフラフラとドアのほうに歩いていくので、お帰りかな? と道をゆずるように座る位置をずらす。
だが俺の背後でぴたりと気配が止まったかと思うと、次の瞬間むにゅりと背中に柔らかい感触が当たり、同時にギリギリギリと首を締めつける猛烈な圧迫感が襲ってきた。




