マラソン
「オラっ、起きろ!」
その翌朝未明。自室で惰眠を貪っていた俺は、超絶不機嫌な真奈美に叩き起こされた。
寝ぼけ眼の俺をにらみ据える形相は、さながら悪鬼のごとくである。ついに捨てられる日が来たかと思った。
「ご、ごめんなさい、これからは心を入れ替えて……」
「はあ? だから天宮って子が来てるんだって言ってるでしょ!」
「し、知らないですねぇそんな人は」
「泰地くんと約束したっつってんの! わざわざ学生証まで見せてきて! いいから出て話してこい!」
真奈美に追い立てられながら、慌てて玄関口へ降りていく。
なぜ奴がブチギレているかと言うと、時刻はまだ朝七時にもなっていない。
普段ならぼちぼち起き始める頃合いだが、今日は休みなわけで誰一人として起きていなかった。
あの後真奈美はオヤジと遅くまで飲んでいたっぽく、ろくに寝ていない所を起こされたのが原因だろう。
とまあ、そんな経緯もつゆ知らず。
俺が出ていった玄関先では、ジャージに身を包んだ舞依が待ち構えていた。
舞依は俺の顔を見るなり、
「おはよう泰地。なぜメールの返信をくれないんだ。電話をしても出ないし」
「いやぁ、電波が悪いんじゃないかな」
「でもメッセージは見たんだろう? 既読になっていたぞ」
「やっぱ電波がね」
俺はしきりに電波というワードを連発しなんとか乗り切る。
というのは昨晩、
『明日の朝マラソンしよう! 七時前に迎えに行くぞ』
という怪文書ならぬ怪メールが送られてきたため、恐怖に怯えた俺は携帯の電源を落とした。
そしてガンスルーしたことを、ついさっき真奈美に叩き起こされるまで完全に忘れていた。
とりあえずこういうときは話をそらすに限る。
「ていうか、なんで俺の家知ってるわけ?」
「弥月の家は知っていたからな。その隣というのですぐわかった」
そもそもなぜに弥月の家を知っている?
いやまあ、ストーカーでもなんでもしたのかもしれんけど。
「そんなことより早く行こう。ほら、着替えて」
「だが断る」
俺ははっきりノーといえる男だ。
どうでもいいことはなあなあで流すが、自分が不利益を被る、危害が及ぶとなると全力で拒否する。
そもそも俺はマラソンをするという約束をした覚えはない。大体何が悲しくて休日の朝っぱらからマラソンしなくてはいけないのか。
きっぱり言い切ると、舞依はむっと口をとがらせて、
「それはないだろう、せっかく迎えに来たのに」
「ちょ、ちょっと静かに……」
ムダに声がでかい。
こっちは真奈美に何騒いでんだよゴラァされたらたまったもんではないというに。
「いやあのマジしんどいっす、朝から……眠いし」
「ちょっと走れば眠気なんてすぐ吹き飛ぶさ。空気も澄んでいるし、気持ちいいぞ」
そう言って舞依はその場で足踏みをして走るジェスチャーをしてみせる。
相変わらず暑苦しい……と思いきや、俺はあることに気づいた。
それサイズあってんのかと言わんばかりにキツそうなジャージの、ゆっさゆっさと揺れる胸元にである。
ふーん、エッチじゃん。ま、たまにはね、運動不足気味だし。
俺は一度部屋に取って返し着替えを済ませると、家の前で待っていた舞依に尋ねる。
「それでどこまで行くん?」
「私のいつものコースを行こうと思う」
いつもやってんのかよ……まあそんなこったろうと思ったけど。
とにかく私についてくればいい、と言って舞依は我先に走り出す。
慌ててついていくが、後ろを走っていたらおっぱい見えんやんという事実にすぐに気づく。
ならばと横に食いついていくと、
「おっ、やる気マンマンじゃないか。よし、徐々にペースを上げていくぞ」
いやいやすでに早いから。絶対コレすぐバテるペースだろ。
それでも頑張ってしばらくおっぱいとマラソンしたが、やはりキツいものはキツい。
ムダにハイペースをやったため、すぐさま疲労が限界に達した。
「ち、ちょっとあそこのコンビニで休憩しよう」
「ん? 休憩? まだ一時間も走ってないぞ」
「アホか、一時間も走り続けたら死ぬに決まってるだろ」
「何を言ってる、死ぬわけがないだろ」
もうこうやって真顔で返してくるのがあまりも噛み合わない。
だいたいどんだけ走る気でいやがるんだこの女は。
結局俺が泣きを入れてコンビニに立ち寄った。
しかし入ってすぐに、俺は金を……サイフを持ってきていないことに気づいた。
「ねえ舞依ちゃんジュース買って」
「な、何だ急に……。まったくしょうがないな」
「アイスも買って」
おねだりするとなんだかんだ言いつつも買ってくれた。
外に出て俺が飲んだり食ったりをしていると、自分では何も買わなかった舞依がじっとこちらを見ているので、手に持ったペットボトルを差し出す。
「飲む?」
「わ、私は別に……喉は渇いていない」
「そう? 遠慮しないで飲みなよ」
そもそも俺はびた一文出していないのだが、さも恩を着せるようにして手渡す。
舞依はしぶしぶ受け取るには受け取ったが、今度はじっと飲み口を見つめて固まっている。
「どしたの?」
「いや、こっ、これ……」
もしかして間接キスが、とか言い出すんじゃないだろうなそんなけしからんおっぱいの分際で。
そういうキャラじゃないだろうどう見ても。関節技が……とか言い出すならわかるけども。
だいぶ手間取った末、舞依は意を決したようにぐいっとペットボトルを一口あおると、ほら! と突き返してきた。
もしかして怒ってるのかな? そりゃまあこうやってタカられれば怒るか。
俺が残りを一気に飲み干すと、再度苦行の旅が始まる。舞依は相変わらずの張り切り具合。
しかしこちらも多少休んだからだいぶラクに……と思いきや、すぐさま体の異変に気づく。
何かお腹の辺りがちゃぷちゃぷと音を立てはじめて、ひどい激痛を生み出し始めたのだ。
「ああ、お腹がぁ……」
「ははは、だから言っただろう飲みすぎるなと。ちんたらしてると置いてくぞ」
どこだかよくわからん裏道で置き去りにされたらたまったもんではない。
俺は横っ腹を押さえつつ、痛みに耐えながらヒィヒィ言って舞依の後をくっついていった。
「ほら頑張れ頑張れ、もう少しだぞ~」
そしてフラフラになりながらも、なんとか自宅の前まで戻ってくる。
俺は路上にしゃがみこんで、がくりとその場にへたり込む。
「はぁ、はぁ……おぅえっ」
「はは、よく頑張ったな泰地。いい運動をしたな、楽しかった」
「はは、そ、そうだな……」
「これからは毎朝迎えに来るからな。平日は学校だからもっと早く……」
「そうか。舞依、別れてくれ」
「は?」
思わず衝動的に別れを切り出してしまった。
あまりにも自然な流れで口から出て自分でもびっくりだ。
「今なんて言った?」
だがさすがにそれで「うんわかった」という訳にはいかないようだ。
俺は膝をついたまま、潔く頭を下げる。
「無理です……もうつきあえません。別れてください」
「なっ、なぜだ! どうして急にそんな事を言う!」
急でもなんでもないんだよなあ……。
というかよく思い出してほしい。
俺はあくまで友達から、と言っただけだがそれがなぜか向こうは恋人のつもりでいる。
「それなら友達から、ということでも全然構わないが」
「いや友達としてもちょっと……」
よく考えたら変わらなくない?
ふざけて(意味深)とかやった俺がバカだったよ。
一度オッケー出しておいてどういうこと? と罵倒される覚悟はできている。
というかそれで終わりになるのなら儲けもの。
「ムム……」
やはり舞は口をへの字にして難しそうな顔をする。
ヤバイ、この疲労困憊の状態で鉄拳制裁されたら死んじゃうかも。
もう下座るしかない。殴る価値もないと思わせないと。
「申し訳ございません、どうか許して……」
「嫌だ、別れたくない」
「え?」
「なぜなら私は……本当に泰地のことが好きになってしまったようだからな」




