午後三時十分 喫茶アテント店内
あれだけ賑やかだった店内は静まり返り、柔らかな音楽だけが小さな空間をゆったりと満たしている。
モトヒロくんはミサキちゃんを駅まで送るため、先ほど店をあとにした。あの二人はどうやら遠距離恋愛をすることになったようだ。聞くつもりはなかったのだが、なにぶん狭い店のため、年寄りが気を遣って奥に引っ込んだところで話し声は聞こえてしまう。
おそらく、そんなことはモトヒロくんも承知のはずだ。彼は店を出て行く際、こちらを見て微笑んだ。いつもマキオくんと笑い合っている時でも、どこか冷たい印象のある少年だと思っていたが、その時に見せた笑顔は優しくて温かいものだったように思う。
雨はずいぶんと小降りになっており、窓の外を行く人たちの中には空を見上げたあと、傘を閉じる人もちらほらと見受けられる。
テーブル席へ目を向けると、スーツ姿の青年がぼんやりと外を眺めていた。テーブルのグラスにはすでにコーヒーは入っておらず、溶けて小さくなった氷が水の中に浮かんでいる。
「コーヒーのおかわり、いかがですか?」
テーブル席に近づき、声をかけた。青年は少し驚いた顔でこちらを見ると首を横に振り、うなだれるように俯いた。
「いえ、もう帰るので」
「そうですか」
「すいません、長居してしまって」
「いえいえ」
私は窓際に立ち、青年が見ていた街並みを同じように眺めてみる。
この窓から見える景色が私は好きだ。新しい風を運ぶ春や活気に満ちた夏。物憂げな秋やイルミネーションで煌めく冬も、何十年と見てきた景色のはずなのに、飽きることがない。
「待ち合わせですか?」
ゆっくり振り向いて、訊いてみた。
「ええ」青年は肯定したあと、悲しげに呟く。「来るはずなんてないのに」
「どうして、そう思うのです?」
青年は辛そうに顔を歪ませたかと思うとスーツの内ポケットへ手を入れ、そこから取り出したものをテーブルに置いた。
赤いベルトの腕時計だ。
女性用のものらしく、小さな文字盤が可愛らしい。しかし、文字盤を覆うガラスにはヒビが入っており、針は時を刻むことなく停止している。時刻は午前か午後かは分からないが、二時五十九分を指していた。
「それは?」
「彼女の腕時計です。俺がプレゼントしました」
青年は唇を噛み、拳を強く握った。後悔、自責、そんな苦しみに耐えていると、そう見える。
「五年前、あなたがここで待っていたのもその彼女ですか?」
「憶えてたんですね」
「ええ、一度でも店に来たお客さんのことは忘れません」
五年前の夏。嬉しそうな顔をした高校生の男の子が何時間も、ただひたすらに誰かを待っている姿を、まるで昨日のことのように思い出すことができる。
もう一度、窓へと視線を戻すと、空から降ってきた細い雨がガラスに筋を残した。そういえば、あの日もこんな雨の日だった。
「俺は忘れるつもりでした。ここで彼女を待っていたことも、彼女自身のことも」
青年は腕時計を手に取り、ゆっくりと握り締める。
「でも、忘れられるはずなんてなかった。どんな時でも、頭の片隅には彼女がいる。無理矢理に忘れようと、この時計を押し入れの奥深くに隠して忘れた気になっても、やっぱり駄目だった。挙げ句の果てには、五年前の待ち合わせ場所に彼女が来るかもしれないと、こうして馬鹿みたいに待っている」
青年は腕時計を握り締めた拳を額に当て、目をぎゅっと瞑る。
「来るはずなんてないのに。彼女は、園崎ユキは五年前に事故で死んだのに」
声が震えていた。私はそんな彼を見ているのが辛くて、思わず目を伏せる。
「あの時の事故ですか」
五年前、店の前で交通事故があった。
車道へと飛び出した小学生の男の子がトラックに轢かれそうになり、それを助けようとした女子高生が亡くなるという痛ましい事故だ。
小学生の男の子は間一髪のところで突き飛ばされ、かすり傷程度で済んだらしいが、女子高生のほうはトラックにはねられて即死だったと聞いた。
「今でも思うことがあります。彼女は俺なんかと付き合っていて、楽しかったのかなって。付き合ってほんの一か月くらいだったけど、彼女はあまり楽しそうじゃなかった。どこか、よそよそしかったし、俺に気を遣ってる感じがしていて」
訥々と話す青年は小さく息を吐く。「俺のこと、ちゃんと好きでいてくれたのかな」
想いというのは、時にうまく伝わらないものだ。たとえ目の前にあっても届かなかったり、両手に抱えていても零れ落ちてしまったりする。この青年の場合は気づかなかっただけなのかもしれない。
「あなたが思っている以上に、彼女の気持ちは深いと思いますよ」
「そうでしょうか」
「そうですよ。その証拠に、あなたが来るはずなんてないと言っていた方は、ちゃんと来ていますから」
「え?」
私はテーブルに近づき、残りの氷もすっかり溶けたグラスを手に取ると、グラスの水滴で濡れたテーブルを布巾でさっと拭く。
「さっきの少年たちとも少し話しましたが、私には霊感があるんです」
「まさか」青年は苦笑いを浮かべる。
「あなたの向かいの椅子に、白いワンピースを着た長い黒髪の女性が微笑んで座っています。よそよそしかったり、あなたに気を遣っているようにはとても見えませんよ」
向かいの席を見つめる青年の瞳には、きっと木製の椅子しか映っていないのだろう。だから私は付け加える。
「彼女、ずっと気にしていることがあるみたいですよ。『夢はまだ諦めていませんか? 小説はまだ書いていますか?』と、そうあなたに問い掛けています」
それだけ伝えて、私はカウンター内へと戻る。シンクでグラスを洗いはじめると、青年は嗚咽を洩らしはじめた。私の言葉を信じてくれたのか、それとも彼女の気配を敏感に感じとったのか、どちらなのか判然としないけれど、ただ、様々な想いを吐き出すようにして、泣いていた。
会計の際、泣き腫らしてはいたが、どこかすっきりとした顔の青年が思い出したように訊ねる。
「そういえば、五年前は奥さんと一緒にこの店を経営してたはずですが、どうされたんですか?」
私は平静を装っていたものの、わずかな表情の変化を読み取った青年が「すいません、余計なことを聞いてしまって」と申し訳なさそうに目を伏せる。
「いえ、いいんです。別に死別したとか、離婚したというわけではありませんから」
「そうなんですか」
青年はほっとした様子で柔らかな笑みを浮かべると、千円札をこちらに手渡した。
「ただ、ちょっと病気になってしまって、妻はここ四年ほど店には出ていません」
「病気、ですか」
「ええ」私は勢いよく開いたレジからお釣りの小銭を取り出し、青年に渡した。
「奥さんの病気、早く良くなるといいですね」
「妻は強い女性ですからね。きっと、すぐに良くなりますよ」
達観した口調だったことで安心した青年は顔を綻ばせ、何かを確かめるようにゆっくりと二回頷いた。
「女性って、強いんですね」
「そりゃもう、いつも驚かされます。男なんてちっぽけだな、なんて思い知らされますよ。結婚すると特にね」
「カカア天下なんですか?」
「少しだけ」
そう言って柔らかく顔を歪めたあと、二人のささやかな哄笑が店内に低く響いた。
青年と一緒に外へ出ると雨はすっかり上がっており、雲の隙間から射し込む太陽の光が、まるで煌めく梯子みたいに地上へと向かって伸びていた。
その幻想的な光景に触発されたのか、青年がぽつりと零す。
「俺、学生の頃からの夢があったんです」
「小説家、ですか?」
「はい」照れ臭そうに頷く。「でも彼女を失い、無為に時を過ごすうちに夢を叶えるために頑張ろうなんて気力も失っていました。ただ毎日をなんとなく生きているだけで」
小さな子供が二人、私たちの隣を横切り駆け抜けていく。その背中を見ながら青年は強い決意を含んだ語調で言う。
「彼女は生前、俺の夢を応援してくれていました。それはきっと今でも変わらないはずです。だから俺、もう一度頑張ってみようと思います」
未来を真っ直ぐに見据える目には無垢な輝きを宿しているように見えた。それは夢や目標に向かって生きる人間特有の、ひたむきさや勇気を兼ね備えた強靭な輝きだ。
青年は名刺入れから取り出した名刺を私に手渡した。勤めている会社の名刺のようで、名前は『速水マサヒコ』とあった。
「いつか小説家になって、またこの店に来ます。その時まで、俺のこと忘れないでくださいね」
「名刺を頂かなくても、私はお客さんのことは忘れませんよ」
「そうでしたね」
顔をくしゃっと崩して笑うマサヒコさんに、私は深く頭を下げる。
「またのご来店を楽しみにしています」
そんな私に軽くお辞儀を返して、まだ雨の匂いが残る歩道へとマサヒコさんは歩き出した。寄り添うようにして並んで歩く少女が彼の手に自らの手を伸ばし、微笑む。
その幸せそうな表情が眩しい。小さくなっていく二人の姿を細めた目で見送っていると、やがて少女は淡い光の粒のようになって消えていった。
彼女は待っていたのだろう。彼が待ち合わせ場所に現われるのを、五年間もの間、ずっと待ちつづけていたのだろう。そして今日、愛しい人との再会を果たした彼女の魂はようやく救われたのだ。
私はなんだか温かい気持ちになり、店の前に置かれた看板をぽんっと軽く叩いた。
この店名の書かれた木製の看板は、妻の手作りだ。
店がオープンした日のことを、今でも鮮明に憶えている。
オープン前日になってもいい店名が浮かばず、まだ店名の書かれていない看板を見つめながらオープン日を延期しようかとまで考えていた時、妻がペンキで『Attente』と素早く書いた。
「この店を待ち合わせ場所として使ってもらえるように、ね」
そう言って笑う妻の中では、すでに店名は決まっていたのかもしれない。
小さな店だったが、妻手作りのクッキーが評判になったことで店の経営も軌道に乗ってきたし、なにより妻と二人で喫茶店の切り盛りをすることが生きがいとも思えるほどに楽しかった。私たち夫婦は残念ながら子供を授からなかったので、この店が子供のようなものだと言っても過言ではない。
「グラスはね、丁寧に心を込めて磨くんだよ」
食器やグラスの洗い方が雑な私に、妻はそう教え諭す。不器用な私は何度もグラスを落として割ってしまったけれど、それを見た妻は怒るでも呆れるでもなく、優しく微笑んでくれる。
そんなささやかな幸せを噛みしめながら、いつまでも二人でこの店に立ちつづけるのだと、そう思っていた。
五年前。店の前で起きた、あの事故の少しあとくらいだろうか。妻に異変が起こりはじめた。最初は、少し物忘れが激しくなった程度のものだったのだが、やがて、食事をしたことを忘れ、家までの帰り道を忘れるようになった。
さすがに不穏なものを感じ、妻を病院へ連れて行ったところ、診断の結果『若年性アルツハイマー病』であることを医師から告げられる。命に関わる病気ではないと楽観視していた私ではあったが、病院から家に帰り、自宅で服の着替え方が分からなくて困っている妻を見て、私は無意識に涙を流してしまっていた。
どうして妻がこんな目に遭わなければいけないのか。
どこにもぶつけられない憤りや恨みごとは、私の心を鋭利な刃物で削ぎ落すようにして疲弊させていった。
そんな私とは対照的に、妻は「病気なんかに負けてはいられない」と気丈に振る舞う。その健気な姿が落ちこむ私を奮起させる起爆剤となった。
夫である私が妻を支えないでどうするんだ!
弱気な自分に喝を入れ、夫婦二人三脚で病気と向き合う決意を固めたのだ。
自宅で療養しながら体調のいい日は店に立つ。妻はそんな生活をしばらくつづけていた。
大丈夫だ。きっと何事もなく、これまでのように穏やかな毎日を過ごしていける。
そう信じていた矢先のことだ。妻が突然、何かを喚き散らしながら店で暴れ、客に怪我をさせてしまった。顔馴染みの客だったので大事にはならなかったものの、店をつづけられる状況ではなくなり、休業せざるをえなかった。
若年性アルツハイマー病は、完治が望めない病気だ。投薬治療や行動療法により症状を遅らせることはできるが、症状が進行して重度となってしまえば、自宅で面倒を見ることは難しくなる。
医者から言われていたその言葉が重く圧し掛かっていた。
周りからは専門の施設に預けたほうがいいと言われたが、私は聞き入れなかった。妻を支えていくと決めたのだ。ずっと傍にいると誓ったのだ。
しかし、ある日の夜、妻はこう言った。
「頭の中で、あなたの存在が希薄になっていくのが怖い。あなたのことを忘れてしまった自分の姿を見てほしくない」
どんな時でも明るく強い妻も、その時ばかりは涙をぽろぽろと零し、自ら施設に入ることを望んだ。
髪の毛を掻き毟りたくなるような苦渋の決断を迫られたが、妻がそれを望むのならそうしようと思う反面、そうすることしかできない自分自身が情けなかった。
妻が施設で暮らすようになってからほどなくして、私は一人で店を再開した。クッキー目当てに来店する客のために妻がクッキーのレシピを書き残してくれたのだが、レシピ通りに作っても妻の作ったものとは程遠いクッキーしか焼けなかったため、おかげで客足はずいぶん遠のいてしまった。その相談も兼ねていつものように施設へ向かうと、色とりどりの花が咲いた美しい庭に妻はいた。
地表を薙ぐような風が通り抜け、庭一面を埋め尽くす花たちが一斉にお辞儀をしたように見えた。
風が収まるのを待ってから妻のもとへと歩み寄る。今日はどんな話をしようか。そうだ、最近よく店に来るようになった二人組の少年の話をしよう。嬉しそうに話を聞く妻の顔が目に浮かぶ。
車椅子に座り、虚ろな瞳で遠くをぼんやり眺める妻に話しかけると、妻は幼い子供のようにきょとんとした顔をする。
「おじさん、だあれ?」
妻の記憶から私が消えたのだと理解するのに、さほど時間はかからなかった。
先ほどの風が妻の記憶を持ち去ったのではないかと、咄嗟に風の行方を追ってみたが、そこには雲ひとつない空がただ虚しく広がるばかりだった。
何十年間も二人で築いてきた数えきれない思い出のすべてが、まるで蒲公英の綿毛が風に攫われるようにあっさりと失われたのだ。
若い女の子たちの嬌声があがる。
その声に弾かれるようにして顔を上げると、晴れやかな青空が広がりそこには大きな虹が架かっていた。
思わず溜息が漏れるほどに美しい。
あの希望の架け橋を、みんな見ているだろうか。
仲睦まじく明るい表情で笑い合うマキオくんとトモコさん。駅前で別れを惜しむモトヒロくんとミサキちゃん。再び夢へと歩き出したマサヒコさんと、それを遠くから見守るユキさん。
みんなが虹を見て笑顔になったり、感嘆の声をあげたりしている姿を想像して、思わず笑みが浮かぶ。
喫茶アテントで待ち合わせをしたカップルは幸せになる。
その噂を一番信じているのは、実は私だ。
それは、私自身がこの店で人を待っているからにほかならない。
いつか記憶を取り戻した妻がこの店に戻ってくる。
馬鹿馬鹿しいと思われるかもしれないが、この店を誰よりも愛していた妻のことだから、ひょっこりと帰ってくる気がしてならないのだ。少なくとも私はそう信じている。
私は看板を抱え、ドアに掛けられた『Open』のプレートを裏返し『Close』とする。
少し早いが、今日はもう店を閉めよう。
妻に会うために施設へ行こうと、そう思ったからだ。
妻はすでに自身のことすら分からなくなっているが、私は妻の手を握り、こう話しかけるつもりだ
君が失った二人の思い出は私の頭の中にある。君への想いは未来永劫変わらない。君の愛したこの店は私が守っていく。
だから私はいつまでも、喫茶アテントにて君を待つ。