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午後三時 喫茶アテント店内


 壁の時計が午後三時を示すと同時に店のドアが開かれ、ドアに取りつけられた小さな鈴が鳴る。

「ユキちゃん!」

 嬉しそうに片手を挙げたマキオにつられて、僕やマスター、あのスーツ姿の客までもが店の入り口に目を走らせた。

「まーくん!」

 ユキちゃんとやらが満面の笑顔で両手を広げて走り寄り、店の真ん中でマキオとハグをした。

 マキオの言う通り、長く美しい黒髪に透き通るような白い肌だったが、可愛いかどうかは正直なところ微妙だ。

 例えるなら、そう、トドに似ていた。

「モトヒロ、どうだ可愛いだろ。彼女の雪野トモコちゃんだ」

「あ、ああ」

 否定も肯定もできずに、思わず曖昧な返事をしてしまう。というか、『ユキちゃん』って名字からとった愛称だったのか。てっきり下の名前なのかと思っていた。

「可愛いだなんて照れるじゃない、まーくんったら」

「だって、本当のことだろう?」

 なんか、いちゃいちゃしはじめた。もう、勝手にしてくれ。

「ユキちゃん、こいつが親友のモトヒロだ」

「あら、噂には聞いてたけど、本当にイケメンなのね」

 トドちゃん、じゃなくてユキちゃんは長いつけ睫毛をばちんとさせてウィンクをする。

 助けを求めようとマスターにちらりと視線を送るが、マスターはスーツ姿の客のほうを向いて、こちらの惨状を見ないふりをしている。裏切り者がいた。

「とりあえず、なにか注文したら?」

 マスターも巻き込んでやろうと、そう提案する。

「そうだな、ユキちゃん、何か飲むかい?」

「何にしようかしら?」

「海水とかは?」

「海水ってなんだよ、モトヒロ」

「いや、気にするな」

 結局、ユキちゃんもアイスコーヒーを注文した。マスターはユキちゃんの容姿に関しては特に気にも留めていない様子だ。

 ユキちゃんを中心にして、三人並んでカウンターに座る。

「どうしたんだ、モトヒロ。なんだか変だぞ?」

「まさか、海棲哺乳類とは思わなくて」

「海棲哺乳類?」

「いや、何でもないんだ」

 我ながら失礼極まりない反応をしてしまったが、マキオもユキちゃんもそんなことには気づきもしないで、幸せそうにしている。なんにせよ、マキオが喜んでいるのならそれでいい。ユキちゃんも明るく快活な性格で、人柄は良さそうだ。


 ほどなくして、マキオとユキちゃんが椅子から立ち上がった。

「さてと、じゃあ、おれたちはこれからデートだから」

「まじかよ。親友を置いていくのか」

 全く感情を込めずに言った。もちろん本心ではないからだ。デートにでも海にでもさっさと行けばいい。

 ついでだから僕もそろそろ帰ろうかと思い、椅子から立ち上がりかけたのだが、それをマキオに制された。

「お前は、もう少しここにいろよ」

 言っている意味が分からない。

「なんでだよ」

「いいから、待ってろ」無理矢理に僕を座らせ、「おれだって、お前のために何かしてやることもあるんだ」と、揚々としてそんな言葉を吐き出す。

 ますます意味不明だ。

 マキオは手をひらひらと振り、板張りの床に軽い靴音を響かせながらユキちゃんとともに出ていく。それと入れ違いで、他の客が店内に入ってきた。マキオはその客の肩にぽんっと手を置き、「あとはよろしく」と呟く。マキオの知り合いだろうか。

 僕は椅子を回転させて、カウンターに向き直る。「マスター、アイスコーヒーおかわりで」

「じゃあ、あたしもアイスコーヒーで」

 隣で女性の声がした。さっき、マキオと入れ違いで入ってきた女性客だ。僕と同じ歳くらいだろうか。

 他の席も空いているのに、なぜわざわざ僕の隣に座ったのだろうと、訝しげなまなざしを向けてみた。

 肩くらいまで伸びた髪は、うっすらと茶色に染まっている。凛とした横顔に見覚えがあり、じっと見つめると、目が合った。

 見覚えがある理由はすぐに分かった。はっとする僕を見て、彼女が微笑む。ずいぶん大人になっているとはいえ、見間違えるわけもない。

 紛れもなく、僕の初恋の相手だ。

「ミサキちゃん、だよね」

「うん、久しぶり」

 なんだか不思議な空気に包まれる。マスターは何かを察して気を遣ってくれたのか、二人分のアイスコーヒーを僕たちの前に置くと、店の奥へと消えていった。

「どうして、ここに?」

 気まずい雰囲気を払拭したくて、とりあえず今一番の疑問を口にしてみた。

「モトヒロくんの友達の、マキオくんだっけ? マキオくんと彼女のトモコさんが夏休みの間、ずっとあたしのこと探してくれてたみたいで」

「え」

 それがどういうことなのか、想像もできなかった。

「今、あたしちょっと遠くに住んでてさ、探すのは大変だったと思う。それでも、こっちに住んでるあたしの友達とかに聞いて回ったらしくて、わざわざ会いに来てくれたんだよね」

「あいつ、何のために」

 ちっ、と舌打ちをする僕を見て、ミサキちゃんは微笑む。

「いい友達だよね。あたしに頭を下げてさ、モトヒロに会ってやってくれって。そう言ったんだよ?」

「馬鹿だな、あいつ」

 そう口では言ったものの、胸の奥には熱いものが込み上げてきていた。僕が海外に行っている間にマキオがそんなことをしていたなんて知りもしない。しかも、ユキちゃんまで手伝っていたとは。ユキちゃんを見てひどい反応をした自分を最低だと恥じた。

「でも、よく来てくれる気になったよね」

「あたし、会いたかったから。会って、モトヒロくんに謝らなきゃって思ってたから」

 ミサキちゃんはすこし辛そうに顔を歪め、ストローでアイスコーヒーを掻き混ぜる。

「謝るって、謝らなければいけないのは僕のほうだよ。五年前、待ち合わせの場所にいけなくて」

「それは違うよ」

 僕の瞳を真っ直ぐに見据えてミサキちゃんは強めの口調で言った。

「あたし、行かなかったんだ、待ち合わせの場所に」

「行かなかった?」

「うん。待ち合わせの日の前日に、あたし引っ越したから。モトヒロくんにさよならも言わずに、黙っていなくなったから、だから謝りたくて」

「そう、だったんだ」

 知らなかった。どのみち、待ち合わせの日に想いを伝えることはできなかったわけだ。だとすると、やはりあの時の判断は正しかったのかもしれない。もしかしたら、あの人は引っ越しのことを知っていたから僕にあんなことを言ったのだろうか。

 それなのに、僕は。

「モトヒロくん、これ」

 ミサキちゃんが携帯電話を取り出して見せた。キラリと銀色に光るストラップが揺れている。

「まだ、持ってたんだ」

「うん、ずいぶん汚れちゃったけどね」

『Misaki』と書かれたストラップは僕がプレゼントした物だ。ずっと使用してくれていたのだろう。彼女の言う通り、所々塗装は剥げ、傷がいくつもついている。

「初めて女の子にプレゼントしたのが、そのストラップだからよく憶えてるよ」

「本当かなあ? マキオくんに聞いたけど、モトヒロくんって女の子にもてるらしいから、信じられないよ」

 あの野郎。余計なことを。とはいえ、彼女は軽蔑するような表情を浮かべてはいない。マキオの言葉を鵜呑みにしているわけではないようだ。

「あたしね、ずーっと後悔してたんだ」ミサキちゃんは『ずっと』の部分に力を込めて言ったあと、特徴のあるアーモンド形の目を細くして白い歯を見せた。

「だけど、今日モトヒロくんと会えて、ちゃんと謝ることができて、ほっとした。もやもやしたものが吹っ切れた感じ」

 五年ぶりに会った初恋の女の子はすっかり大人びていたけれど、何年経っても笑顔というものは変わらないものなのだなということを実感する。思わず、安堵感を滲ませる彼女の顔を食い入るように見つめてしまった。

 そのまなざしに少し照れたのか、ミサキちゃんは壁の時計へと視線を逃がす。そして残念そうに眉尻を下げたかと思うと、おもむろに立ち上がった。

「そろそろ行かなきゃ」

「もう、帰るの?」

「うん。家、遠いからさ、早く帰らないと門限もあるし」

 そんなに遠い所からわざわざ会いに来てくれたのか。こんな遅い時間に来たということは、ほんの数十分しか会えないのを分かっていながら、忙しい中にわずかな時間を見つけて来てくれたのかもしれない。僕は財布からアイスコーヒーの代金を取り出そうとしているミサキちゃんの手を思わず掴んでいた。

「僕が出すからいいよ」

「でも」

 断りかけたが、それでは押し問答になるだけだと瞬時に悟ったのだろう。申し訳なさそうに「ありがとう」と頷くと、ミサキちゃんは財布をバッグにしまった。

「じゃあ、またね」

 ミサキちゃんはそう言ったものの、その場から動かずに俯いたままでいる。数秒間の沈黙を破ったのはミサキちゃんだった。

「あの、さ」

「うん」

「手」

 そう言われてようやく気づいた。僕は彼女の手を掴んだままだったのだ。

「あ、ごめん」

 慌てて謝るが、その言葉とは裏腹に僕は手を離さない。離したくない。せっかく会えたのに、このままではいけない。そう思ったのは、以前、こう言われたことがあるからだ。

『想いっていうのは、伝えたい時に伝えなきゃ駄目なの!』

 見ず知らずの僕のために必死でそう訴える女性のことを思い浮かべて、また胸が痛くなった。

「モトヒロくん?」

 不思議そうな顔をするミサキちゃんの瞳の中に僕がいる。ひたむきに彼女のことだけを想う僕の顔はいつになく真剣なもので、きっとあの日以来、僕はこんな表情をしなかったと思う。

 五年越しになってしまったけれど、あの日に言えなかったことを伝えるため、僕は口を開く。

「僕は、ミサキちゃんが好きだ」


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