午後二時五十分 歩道
わたしは早足で舗装された広い通りを行く。規則正しく地面に敷き詰められている濡れたタイルが軽快に靴音を響かせていた。
どこかモノクロに見えた先ほどまでの街並みとは違い、等間隔で空へ伸びる街路樹も、建物に掲げられた様々な看板も、忙しなくワイパーを動かしながら走っていく車も、すべてが鮮やかに華やいで見えた。
水溜まりを思い切り踏みつけてしまい、跳ねた水がふくらはぎの辺りに飛び散るが、それすらも気にならないほどに浮かれていた。そんなわたしの左腕には、赤いベルトの小さな時計が静かに時を刻んでいる。
早く会いたい。彼に会いたい。
逸る気持ちが膨らむごとに、歩く速度も上がっていく気がする。なんなら、全力で走りだしたい気分だ。
わたしは決めていた。
今までは、年上だからってお姉さんぶっていたけれど、もうそんなことはしない。もっと自分らしく振舞わなければ本当の自分を彼に知ってもらえないし、彼のことだって知ることはできない。
嫌われないようにしようとか、そんなことばかりに気を張って付き合っていくのは、もうやめだ。
わたしだって本当は、我儘を言って彼を困らせたり、寂しい時には甘えたりしたいのだ。
今まで抑え込んできた想いが堰を切ったように溢れだしていく。悩んでいた自分が馬鹿みたいだと思えるくらいに、心が晴れ渡っていて爽快だ。
いっそ、あの空一面を覆うどんよりとした雨雲も消えてしまえばいい。そして、お待たせしましたと言わんばかりに太陽が顔を出したのなら、彼と一緒にどこかへ出かけよう。
待ち合わせが午後三時だから、その後となるとあまり遊ぶ時間はないけれど、手を繋ぎながらウィンドウショッピングでもして、夜になったらどこかで食事をしてから帰ろう。いつもなら彼に悪いからと気を遣って家まで送ってもらうことを断っていたが、今日は家までちゃんと送ってもらうつもりだ。
小さな写真館みたいな店のショーウィンドウに映り込む自分自身と目が合った。赤い傘をさしたわたしが自然と笑みを浮かべている。ばたばたとしたせいで髪が少し乱れていたから、ショーウィンドウを鏡代わりにして手櫛で髪を整えた。
鏡の中の自分を凝視していると、その背後を同じ年頃の女の子が通り過ぎていった。派手な格好をして、ばっちりとメイクをした、お洒落な子だ。その子と、自分を見比べてみる。
正直、わたしは地味だ。
着ている服もメイクも控え目である。彼は、こんなわたしのどこを好きになったのだろう。その疑問を友人にぶつけたことがあるのだが、友人曰く「あんたたち、似てるから惹かれあったんじゃない?」とのことだった。
そんなものだろうか。たしかに彼もあまり派手じゃなく、見た目は真面目そうな印象がある。性格は真逆のような気がするけれど。
気持ちを切り替えるように一つ息を吐き、口角を上げたり下げたりして笑顔の練習をしていたところ、写真館の中にいたおじいさんと視線がかち合ってしまった。ショーウィンドウの前でにやにやしているところを見られてしまって恥ずかしい気持ちになり、小さくお辞儀をすると逃げるようにして足早に立ち去った。
喫茶アテントが見えてきた。店の前に手作りと思われる木製の可愛い看板が立ててあるので遠くからでもすぐに分かる。『アテント』はアルファベットで『Attente』と書くらしい。英語というよりはフランス語っぽいが、どちらにせよその単語の意味は知らない。
『Open』と書かれたプレートが掛けられた店のドアが目前に迫り、さらに速度を上げようとした矢先、その弾む足はぴたっと止まる。
「明日、ミサキちゃんと待ち合わせなんだ」
喫茶店の前あたりで、ふいにそんな言葉が聞こえたからだ。
ミサキ、という名前には聞きおぼえがある。声のしたほうへ振り向くと、小学生と思しき二人組の少年が歩道の端でなにやら話し込んでいた。
「告白するのか?」
「うん」
最近の小学生はませているな。
そんな感想を抱いたことで思い出した。さっき公園で出会った、ちょっとおませな女の子の携帯電話にぶら下がっていたストラップに『ミサキ』と書いてあったのだ。
もしかしたら、あの女の子の話していた気になる男の子って、この子のことだろうか。思わずまじまじと見てしまったのは、小学生にしてはハンサムな顔立ちだったからだ。
「じゃあ、明日が勝負だな。がんばれよ」
友人と思われる活発そうな男の子が、力強く声援を送る。
明日。
たしか、あのミサキという女の子は『今日、引っ越すんだ』と言っていた。『会えなくなる相手と恋愛したって辛いだけだし、相手に悲しい思いをさせるだけ』とも。
去り際にミサキちゃんが見せた寂しげな表情の意味を理解し、他人事とはいえ胸が苦しくなった。
きっと、引っ越しをすることをあの男の子に伝えていないのだ。黙っていなくなることで、自分の想いも、あの男の子の想いも、うやむやにしてしまう気なんだ。
果たして、それでいいのだろうか。
他人が口を出す問題ではないのは分かっている。でも、本当にそれでいいのだろうか。お互いに好意を持っているのに、その気持ちを伝えられないままでいいのだろうか。
いいわけがない。
『自分の未来や気持ちを蔑ろにして、一人で辛い思いをするのは寂しい』と、そう言ったのはミサキちゃんなのだから、本人だってそれでいいわけがないことくらい分かっているはずだ。
「君!」
気づけばわたしは少年たちに近づき、ハンサムな男の子を指差していた。
「告白するなら、今日しなさい」
「え、なんで?」
突然、会話に乱入してきたわたしに驚き、目を丸くする。だが、お構いなしにわたしは語を継いだ。
「想いっていうのは、伝えたい時に伝えなきゃ駄目なの! 本当にミサキちゃんが好きなら、今すぐ告白しに行きなさい!」
説き伏せるように言うと、ハンサムな男の子は戸惑いながらもその言葉を真剣に受け止め、考えを巡らしはじめる。
これでいい。
わたしは背を向けた。これ以上のおせっかいは、わたしにはできない。あとは、この男の子次第だ。
「お姉さん、どうして、ミサキちゃんを知ってるの?」
活発そうな男の子が、もっともな質問をしてきたが「いいのよ、そんなことは」と誤魔化した。
喫茶アテントの入り口に立ち、重そうな木製のドアを見つめて深呼吸する。腕時計に目を落とすと、時刻は午後二時五十八分だ。遅刻をしないですんだことに、ほっとする。時間にルーズなのは嫌いだからだ。彼はもう来ているだろうか。いつも、待ち合わせの一時間前には来ているような人だから、きっと来ているはずだ。
足音がしてそちらに注意を向けると、さっきの男の子が走っていくのが見えた。
よかった。わたしのおせっかいがどんな結果になるかは知る由もないが、少なくともミサキちゃんとあの男の子が後悔する結果にはならないだろう。
傘もささず、車道を越えて反対側の歩道へ向かおうとしている男の子の後姿を眺めながら、わたしはドアノブに手を伸ばした。