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午後二時四十分 喫茶アテント店内

「マスターって霊感があるらしいぜ」

「なんだそりゃ?」

 話題が尽きたのかマキオがおかしなことを言いはじめた。僕は掌をひらひらとさせて、提供された話題を却下した。

「本当だって、ねえマスター?」

「そうですよ」

 目の端に皺を寄せ、大らかに微笑みながら肯定する。それを見た僕とマキオは顔を見合わせ、言い出しっぺのマキオが「嘘くせえ」と噴き出した。

「本当ですよ」

 マスターはそう言った後、ふいに顔を強張らせる。今までに見たことがない真剣な表情だ。空気がぴんと張り詰めるのが分かった。

 マスターは、ある一点を凝視している。それはマキオの右肩あたりだ。

「マキオくん、右肩に」マスターの低い声に合わせて、僕がマキオの右肩に手をぽんっと置いた。

 絶叫が店内に響き渡る、となるはずだったのだが、マキオは小動物みたいなか細い悲鳴をあげて椅子から転げ落ちた。人間というのは真の恐怖に直面した時、あんな声を出すのだなと変に感心してしまった。

 マキオは腰を抜かしたらしく、床で蹲ったままだ。構ってほしいのかもしれないが、もう充分に笑ったので放っておくことにする。

「そういえば、マスターの奥さんってどんな人なんですか?」

「え」唐突な僕の質問に、マスターは不思議そうに目をしばたたかせる。

「私、結婚してるって話しましたっけ?」

「いえ、聞いたことはありませんけど、ほら」僕は自分の左手薬指を指差す。「結婚指輪、してますよね?」

「ああ」

 マスターは自分の左手薬指にはまっている銀色の指輪を見つめ、照れ臭そうな顔をした。

「私の奥さんは素晴らしい女性で、私なんかには勿体ないくらいですよ。優柔不断な私をいつも支えてくれるのが、決断力のある奥さんなんです」

「へえ、やっぱり結婚っていいものですか?」

「もちろんです。愛する人と一生を添い遂げることができるのですからね。幸せなことですよ」

 カウンターの下から、手がにゅっと出てきた。「おれも、ユキちゃんと一生、添い遂げるぞ」

「ふられちまえ」

 ふらふらと立ち上がったマキオはその言葉のショックで、また床に崩れ落ちた。

「雨、少し弱まってきましたね」

 マスターの言葉に促されるように窓の外へと視線を向ける。たしかに、さっきよりは弱まっているようだ。

 ふいに、窓ガラスを伝う雨が真っ赤に染まった。

 そう見えたが、実際には窓の外を赤い傘をさした人がただ通り過ぎただけだ。それなのに呼吸は中断され、心臓が飛び出しそうになった。

 僕は慌てて目を逸らし、ストローに口をつけてアイスコーヒーを飲み下す。苦い味が喉を通っていくのを感じても、これはコーヒーを飲んだことで感じる苦さなのだろうか、本当は心の奥底に黴みたいに蔓延る暗然としたものが喉元まで侵食してきているのではないか、と疑ってしまう。

「どうかしましたか?」

「いえ、なんでもないです」

 顔をしかめる僕を心配したマスターにそう返したものの、内心は穏やかではない。店内に流れる音楽と冷風を吐き出すクーラーの音に掻き消されながらも、わずかに聞こえてくる雨の音に耳を塞ぎたい気持ちだった。

 雨の日は辛い記憶を否応なく甦らせるから、嫌いだ。


「そうだ、憶えてるか? モトヒロ」

「なんだよ、いきなり」

 午後二時五十分になり、マキオが主語のない質問を投げかけてきた。

「おれたちが初めてこの店に入った時のことだよ」

「いつだっけ」

 曖昧な記憶しかないが、中学生の時だったように思う。

「おれも憶えてない」

「なんだそりゃ」

「私は憶えていますよ」

 マスターが軽く右手を挙げて言った。

「四年前の夏休みのことです。仏頂面をした少年と、大泣きしている少年が二人でこの店に入ってきました」

「あー」僕とマキオが同時に声を出す。「あの時か」

 あれはたしか、マキオが例のごとく告白に失敗した日だ。ただ、いつもと違ってマキオの心に負った傷が大きく、街中で人目もはばからず泣きだしたので、避難するためにたまたま目の前にあったこの店に入ったのだった。この店の前は学校への通学路なので毎日のように行き交っていたが、店に入ったのはこの時が最初だ。

「あれは、大変だった」

「いやあ」マキオが申し訳なさそうに頭を掻く。

「でも、私は二人の友情の深さを目の当たりにしましたよ。あれだけ泣いていたマキオくんが、モトヒロくんと話していくうちにどんどん笑顔を取り戻していきましたからね」

「でしょ? こいつはいいやつなんだ」

 マキオが僕の頭を抱えて頬ずりしてくるものだから、本気で引っぺがして突き飛ばした。そして椅子から転げ落ちたマキオに向かって「ただの腐れ縁だ」と吐き捨てた。

「そんなこと言って、いつもおれのことを考えてくれるんだぜ」

 カウンター下の見えない位置から、気色の悪い言葉だけが飛んでくる。

「お前は僕のために何かしてくれたことはないけどな」

 ぴしゃりと言ってやると、ようやく黙った。

「それにしてもよく憶えてましたね、そんな昔のこと」

「私はお客さんのことは忘れません。一度しか来たことのないお客さんでもしっかりと憶えていますよ」

 マスターの視線が一瞬、店内の一点を捉えた気がして、僕もそれを追うようにしてみる。その先にはあのスーツ姿の客がいた。以前、この店に来たことがある客なのかもしれない。

「あと十分でユキちゃんが来るぜ」

「来ないかもな」

「来るさ。ユキちゃんは時間にルーズな子じゃないんだ。よく遅刻した女の子が化粧に時間がかかるとかって言い訳するけどさ、その分を考慮して早く起きればいいと思わないか?」

「はあ」

「ユキちゃんはそれをちゃんと分かってる頭の良い子なんだ。だからきっと時間通りに来る」

「はあ」

 例のごとく適当に受け流す。そもそも、時間通りに来ないかもな、という意味ではなく、待ち合わせに来ないかもな、という意味を込めて言ったつもりだったのだが、まあいい。

「モトヒロ、お前、おれのユキちゃんを取るなよ?」

「お前も知ってるだろ、僕は面食いだ」

「それもそうだな」安堵した様子でマキオはアイスコーヒーを飲み干す。「ちょっと待て、それどういうことだ」

 何かに気づいたのか、マキオが突っ込みを入れてくる。ノリ突っ込みにしてはキレが悪いなと感じるほどにマキオの反応は遅かった。やはり彼女ができると駄目になるタイプなのだな、こいつは。

「ちくしょう、ユキちゃんの可愛さに度肝を抜かれればいい」

 ぶつくさとうるさいマキオを横目に、呆れを含んだ溜息を大袈裟に吐き出したあと、僕もアイスコーヒーを飲み干した。

 僕は大人げないな。

 本当は、羨ましいのだ。上手くいかなかった恋を乗り越えて、次へ進むことのできるマキオのことが、羨ましくて仕方がないのだ。

 過去の恋をいつまでも引きずっている僕は、あまりにも女々しい。


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