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午後二時三十分 公園


 地面を叩く雨の音に囃したてられ、わたしは公園内を歩いていた。この大きな公園の中を通っていくことで、喫茶店までの近道ができるのだ。とはいえ、その足取りは重い。

 どう別れを切り出そうか。

 脳内を占めるのはそればかりだ。

 しかし、いくら思案に没頭しても適切な言葉が思いつかず、このままでは心の準備ができていない状態で喫茶店に着いてしまう。そんな焦りから、歩みはさらに遅くなっていった。なんの解決にもならない、子供じみた牛歩戦術に我ながら情けない気持ちになる。

 公園内に備え付けられたポール時計を見上げると、時刻は午後二時三十分ちょうどだった。ここから『喫茶アテント』までは目と鼻の先なので、たとえこのままの速度で歩いていったとしても、かなり早めに到着するだろう。

 少しだけ時間をつぶすため、屋根の付いたベンチへと移動すると、傘を閉じて腰掛けた。木造のベンチは湿気のせいか、なんだか冷たく感じる。わたしは重い塊のような溜息を吐き落としてから公園内を流し見てみた。

 天気が天気だけに、いつもなら賑やかな公園内には、やはり誰もいない。雨ざらしの遊具と、雨粒に揺れる青々とした木々だけが寂しそうにしていた。

 この公園は、思い出の公園だ。

 彼に告白されたのが、この公園の今まさにわたしが座っているベンチの前だったのである。

 ほんの一か月ほど前のことだ。学校が夏休みに突入し、浮かれ気分でいたわたしの携帯電話に一通のメールが着信した。内容は簡単なものだった。

『園崎ユキさん。もし時間があれば、今からキノコ公園の遊具広場にあるベンチの前まで来て下さい』

 その一文のあとに、彼の名前が添えられていた。ちなみに『キノコ公園』というのはこの公園のことだが正式名称ではない。名前の由来には諸説あり、一つは正式な名称である『木下こども公園』を略したという説と、キノコをモチーフにした大きな遊具があるからという説がある。どちらの説が正しいのかも、誰が名付けたのかも知らないが、この辺りの住人には『キノコ公園』の呼び方が定着していた。

 そんなキノコ公園に、ほのかな期待を抱きつつ赴いたところ、いつもとは雰囲気の違う神妙な顔をした彼が立っていて、告白されたというわけだ。思い出すだけで、耳まで熱くなってしまうほどに恥ずかしい。

 彼の前では年上のお姉さんぶった振る舞いをしてしまうけれど、わたしは男の子と交際したことなんかなかったし、内心ではいつも胸がドキドキしていて、それを悟られまいと必死だった。

 交際期間はほんの一か月だ。それでも、喜びや幸せや楽しさが、ぎゅっと圧縮された、ものすごく濃厚な一か月だったように思う。

 本当に、いろんな事があった。

 初デートは動物園だった。「どこに行きたい?」と訊かれて、わたしは咄嗟に動物園と答えたのだ。彼が動物好きだとどこかで聞いたことがあったから、そう答えたのだと思う。

 わたしも動物は好きなほうだけど、彼は本当に楽しそうにしていて、そんな彼の笑顔を見ているだけで、わたしは満足だった。

 ぎこちなかったわたしと彼の距離が縮まったのも、そのデートがきっかけだ。その時はまだ、お互いに名字で呼び合っていたのだが、動物園からの帰り道、駅のホームで電車を待つ間にお互いの呼び方を決めたんだっけ。

「まーくん」

 そう呼びたいと言うと、彼は照れ臭そうに頭を掻いて笑った。

「ユキちゃん」

 彼はわたしのことをそう呼んだ。なんだかくすぐったい感じがして、わたしも思わず笑ってしまった。ずっと緊張していたわたしが初めて心から笑ったのがこの瞬間だ。ホームに射し込む夕陽が瞳に刺さるように眩しかったのを憶えている。

 膝のあたりに雫が一滴落ちて、スカートに染み込んだ。屋根のどこかが雨漏りしているのかと思ったが違った。

 わたしの涙だ。彼との思い出は無意識に涙を溢れさせていた。

 別れたくないよ。

 首をもたげて肩を震わせると、胸が苦しくて息ができなくなる。恋とはこんなにも辛いのかと、思い知らされた。こんなことなら、遠くから見ているだけのほうがよかった。恋煩いのほうが、まだましだ。大切なものを失わなくて済むのだから。

「お姉ちゃん、どうしたの?」

 ふいに声をかけられ、はっと顔を上げる。

 目の前には、傘をさした小学生くらいの女の子が心配そうに立っていた。わたしは慌てて涙を拭き、笑顔をつくる。

「大丈夫、なんでもないよ」

 そう言ったものの、声は震えたままだった。女の子は傘を閉じ、わたしの隣に座る。そして、公園の外を歩いていく相合傘をしたカップルをしばらく見つめていたかと思うと突然こちらへ向き直り、躊躇いがちに口を開いた。

「もしかして、失恋?」

「え」

 暇な小学生が興味本位で話しかけてきただけかと思ったが、彼女のアーモンド形の目は真っ直ぐわたしを見据えていて、真剣さが窺える。どこか、寂しそうにも見えた。

「失恋、直前かな」

 小学生相手に話しても仕方ない、と頭では分かっているのに、なぜだか馬鹿正直に答えていた。

「彼氏に、ふられそうなの?」

「ううん、逆。ふりそうなの」

 女の子は不思議そうに首を傾げる。

「嫌いになったの?」

「違うよ。大好きだもん、彼のこと」

 女の子の首はさらに傾いた。眉を八の字にして困惑している。

「よく分からないや」

 理解しようと努力したが、諦めたようだ。たしかに『好きな相手をふる』なんて、意味がよく分からない行為である。

「相手のためになるのなら、たとえ大好きでも別れなきゃいけない時があるのかもね。相手の未来をさ、考えちゃうんだよ」

「ふーん」伸ばした足を上下にぱたぱたとしたあと、女の子は小学生とは思えないほどに凛然とした様子でこう言った。

「じゃあ、自分の未来はどうなるの?」

「自分の?」

「うん。自分の未来や気持ちを蔑ろにして、一人で辛い思いをするのは寂しいし、そんなことをして相手は喜ぶのかなって。二人で頑張って、よりよい未来をつくっていくのが一番なんじゃないかなって、そう思ったの」

 最近の小学生は、ずいぶんとしっかりとした考えを持っているのだなと驚かされる。けれど、すぐに反論の言葉が頭をかすめた。いくら二人で頑張ったって、どうにもならないこともあるのだ、と。

それなのに、わたしは口を半開きにしたままで、なぜだかそれを口に出しては言えなかった。

 ふいに軽快な電子音が鳴る。携帯電話だ。自分の携帯電話の着信音ではない。隣の女の子が面倒臭そうにトートバッグから携帯電話を取り出して、ぱかっと開いた。『Misaki』とローマ字で書かれた銀色のストラップが揺れる。ミサキ。彼女の名前だろうか。

 メールの着信だったようで、食い入るように画面を見つめていたが、やがて溜息とともに携帯電話を閉じてしまった。

「友達から?」

「うん。ちょっと気になる男の子から」

「返信しないの?」

「いいんだ」

 口をへの字に曲げ、ちっともよくなさそうな雰囲気を醸し出している。

「そっちも失恋?」

「まだ始まってもない。ううん、始まらない」

「どうして?」

 わたしの問いに遠い目をしたかと思うと、おもむろに立ち上がって傘を開いた。傘についていた雫が舞う。

「あたしさ、今日、引越しするんだ。会えなくなる相手と恋愛したって辛いだけだし、相手に悲しい思いをさせるだけだもん」

 そう言って雨の中へ足を踏み出した。そして、なにかに気づいたような表情とともに振り返る。

「お姉ちゃんの言ってたこと、ちょっと分かったかも。『相手のためになるのなら』ってやつ」

「そっか、分かっちゃったか」

「うん。これはきついね」

 苦虫を噛み潰したような顔をして、少しおませな女の子はピンク色の傘をくるくると回転させながら去っていった。

 一人残されたわたしは、ノイズみたいな雨音の中、灰色の空を見上げる。

「自分の未来や気持ちを蔑ろにして、一人で辛い思いをするのは寂しい、か」

 あの女の子の言葉を口に出して、呪文みたいに唱えてみる。

 なんだか、『もっと自分に正直になれ』と背中を押されているようにも、『悲劇のヒロイン気取りで自己満足するな』と非難されているようにもとれる言葉だ。

 左手首に視線をやる。そこに時計はないのにまた無意識にそうしてしまった。さっきまでは何ともなかったのに、妙に左腕が軽く感じられる。けれど、それは心地の良い軽さではなく、何か物足りないといった心細い軽さであった。

 公園のポール時計で時刻を確認すると、午後二時四十分だ。

 今から腕時計を取りに帰っても、走れば間に合う。取りに帰る必要なんてないと思っていたのは、どうせ別れ話をするからという理由からだが、そんな考えは不思議と消えていた。

 素直になろう。

 そんな気持ちが湧き出る水の如く、胸の中を満たしていった。

 彼と別れたくない。でも、彼には夢を叶えてほしい。二兎追うものは一兎も得ず、なんて諺があるけれど、頑張れば二兎得ることだってきっとできるはずだ。強引かつ、なんの根拠もない自信ではあったが、わずかな勇気を生みだすには充分だった。

 さっき、あの女の子の言葉に反論できなかったのは、わたしが頑張ろうとしていなかったからなのだと、ようやく理解した。

 わたしは傘を開き、雨の中へ飛び出す。

 あの腕時計は彼がプレゼントしてくれた宝物だ。だから、ちゃんと腕時計を左腕に巻いて、彼に会いに行こう。

 雨脚は少しだけ弱まっていたのだが、傘を叩く音が小さくなっていたことにも気づかないくらいに心は弾み、踊っていた。


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