午後二時二十分 喫茶アテント店内
「絶対、話さねえ」
マキオが黙秘を決め込む。
「話せよ」
「知りたいですね」
僕とマスターが詰め寄る。
「嫌だ。周りに言いふらすか、笑いものにするか、どっちかだろ」
「馬鹿野郎、両方に決まってるだろ」
「絶対、話さねえ」
マキオはさっきよりも強い口調で言い放った。
なんの話かというと、ユキちゃんに告白した時のことを詳しく教えろと強要する僕に対し、マキオがそれを固く拒否したというだけの他愛もない話だ。
「僕はマキオの親友だ。知る権利がある」
きりっとした顔で僕は恥ずかしげもなく言ってやった。
「その言葉に何度騙されたと思ってるんだ」
しかめっ面で苦々しい声を出す。
「そんなことあったか?」
「とぼけてんじゃねえよ。いつもだ、いつも。おれが女の子に告白してふられた翌日、なぜだか皆がその時の状況をこと細かく知っているんだ」
アイスコーヒーをストローでくるくるとかき混ぜながら話すその語調は穏やかだったが、やがて話しながら怒りが甦ってきたのだろう、「お前にしか話してないのにな!」と般若のような形相でこちらを睨みつけてきた。
「不思議だな」
「不思議じゃねえよ。しいて言うなら、お前の口の軽さが不思議だよ」
呆れた声を出すマキオをよそに、僕はカウンターに両肘をつき、顔の前で手を組む。そして、斜め上あたりの何もない空間を見つめながら呟いた。
「僕はさ、ずっとマキオがふられる姿を目撃してきただろ。すごいって思ってるんだぜ、マキオのこと。何度ふられても、めげずにまた立ち上がる雑草みたいな強さに、尊敬すらしてる。だからさ、僕は伝道師としてそれを皆に伝える義務がある。マキオの武勇伝をもっと広めたいんだ」
「モトヒロ、言っておくが、おれはもう騙されない」
「今だ、マキオ。ほら、話すんだ」
「うるせえ」
「恥ずかしがるな。自分を解放しろ。さあ、話せ」
「うるせえっての」
僕にしては珍しく熱く語ってやったというのに、その甲斐もなくマキオは口を尖らせながらトイレへと立ってしまった。彼女ができたことでつまらなくなったな、あいつ。
マスターはいつの間にか店の奥に引っ込んでしまい、カウンター内にいなくなっていたため、暇を持て余してしまった僕は椅子を回転させて見慣れた店内をゆるりと一望してみた。
木造のレトロな店内と、橙色の照明は温かみがある。テーブル席は全部で三席しかなく、窓際と壁際に長方形のテーブルが一つずつ、そして店の中央に丸テーブルが一つ配置されていて、スーツ姿の男性客は壁際の席に一人で座っていた。
椅子が一回転したところで再びカウンターに肘をつき、店内を満たす静かな音楽に身を委ねた。時差ボケの影響で若干の眠気があり、目を閉じるとこのまま眠ってしまいそうだったが、トイレから戻ってきたマキオの「あー、すっきりした」という無遠慮な声に邪魔されてしまった。自宅か、ここは。
「でさ、おれはメールでユキちゃんを公園に呼びだしてさ」
「話すのかよ」
壁の時計は午後二時三十分を指す。
店内には相変わらず四人しかおらず、新たに客が来ることもなかった。いつも店内はこんな感じで、果たしてこの店の経営は成り立っているのか、疑問だ。
学生時代の母もこの店をよく利用していたらしく、それはすなわち、僕が生まれるずっと前から喫茶アテントがここに存在しているということである。何十年間も経営を続けるには収入が支出を上回っていなければ当然無理なはずだが、正直、繁盛しているとは思えない。一体、どんな手法で儲けを出しているのだろう。
それとも、多少の赤字を覚悟してでも、ここで店を経営し続けなければいけない理由でもあるのだろうか。
マスターの様子を観察してみるが、ただ穏やかな顔をしながら、慣れた手つきでグラスを磨くばかりだ。
そういえば、この喫茶店にまつわる、ある噂を耳にしたことがある。ほとんど都市伝説ともいえる信憑性の低いその噂の真相を、なんとなく知りたくなった。
「マスター、この店って妙な噂がありましたよね」
マスターは一瞬、グラスを磨く手を止めた後、口角を上げて微笑む。「そうですね」
「あ、おれ、知ってるぞ。この店で待ち合わせをしたカップルは幸せになるっていう、あれだろ?」
「お前、それを知ってて彼女をここに呼んだのか」
「もちろんだ」
嬉しそうにマキオが言う。にやけ顔が気持ち悪い。
「実際のところ、どうなんですか? その噂って」
マスターに問うてみると、なんだか渋い顔をして言い淀む。
「ただの噂でしかないですよ。店名の『Attente』はフランス語なんですが、日本語に訳すと『待つ』とか『期待』とかって意味なんです。そこから話に尾ひれがついて、そんな噂ができあがったんじゃないでしょうか」
「ふーん」
僕とマキオが同時に声を出して頷く。
「まあ、ここでよく待ち合わせをしていたカップルが結婚して、本当に幸せになった例もあるみたいですけどね」
ピカピカになったグラスにマスターの顔が映り込む。その表情がわずかに曇ったかのように見えたあと「逆に、幸せになれなかったカップルもいますからね。やはり、ただの噂なんですよ」と静かに語った。何十年も客商売をしていると、様々な人間模様を目にするのだろう。いろんな感情が綯い交ぜになった声には重みすら感じた。
「おれもユキちゃんと幸せになるぞ」
「まあ、がんばれ」
面倒臭いので適当にあしらったつもりなのだが、マキオは本当に応援されたのだと勘違いしたらしい。ガッツポーズをして「おれ、がんばる」とのたまった。
「ところで、ユキちゃんは可愛いのか?」
「当たり前だろ。可愛いに決まってる」
鼻の穴を膨らませて自信満々にそう答えるが、どうしても信じられなかった。
正直、僕はマキオの趣味に関してよく分からないところがある。人には俗に言う『理想のタイプ』というものがそれぞれあるはずで、普通なら好きになる相手は大体、同じようなタイプに偏ると思うのだが、今までマキオが告白した女の子を思い出してみると、なんというか、統一感がまるでないのだ。
控え目で大人しい子を好きになったと思えば、派手な格好をしたギャルを好きになったり、子持ちの未亡人を好きになったこともある。良く言えば相手を上辺だけで判断せず、女性の内面や本質をちゃんと見ているということだが、悪く言えば見境がない。
「今度好きになった子は何に似てるんだ? キリンか? カピバラか? チンパンジーか?」
「今までおれが好きになった子たちを馬鹿にするんじゃねえよ。動物ばっかりじゃねえか」
「事実だろ。お前のあだ名、飼育員だぞ」
「まじで?」
マキオは腕組みをして腑に落ちないといった感じで考え込む。やがて何かを諦めるように眉尻を下げ、困った表情をした。これまでに好きになった女の子たちの顔を思い浮かべて、否定ができなかったのだろう。
「でも、ユキちゃんは違うぞ。びっくりするくらい可愛いから期待して待ってろよ」
「待つけど、期待はしない」
きっぱりと言い放ってやった。
「ひでえ。なんだよ、モトヒロがこれまでに付き合った女の子たちだって……」
そう言ってマキオはまた考え込む。しばらく沈吟した後、「ちくしょう」とカウンターに突っ伏してしまった。
当然である。僕は面食いだ。
「まあ、この際、これまでの過程はいいじゃないか。ユキちゃんは可愛いんだろ?」
「もちろんだ」
慰めるような言葉をかけてやると一瞬にして機嫌が直り、顔を上げて笑った。この立ち直りの早さだけは尊敬に値する。悪く言えば単純なのだが。
「モトヒロくんは、彼女はいないのですか?」
僕のグラスにアイスコーヒーを注ぎながらマスターが言う。
「今はいないですね」
それを聞いたマキオが不満そうに非難めいた横やりを入れてくる。
「今は、って言い方がむかつく。いつでも彼女つくれるぜってアピールだろ、それ」
「まあな」
「否定しろよ、そこは」
マキオは目の前に差し出された皿からクッキーを一つ摘まむと、ぼりぼりと齧りはじめた。昔はクッキーが美味しいことで有名な店だったらしいが、マスターの手作りクッキーは何度食べても美味しくも不味くもなく、なんとも普通すぎてコメントしづらい味しかしない。無料なので文句は言えないが。
「モトヒロくんは、交際する女性とあまり長続きしないのですか?」
「そうですね」
その通りだった。今まで何人かの女の子と付き合ったのだが、どの子とも長続きせず、すぐに別れてしまうのだ。
「まだ引きずってるんだろ? あの子のこと」
指についたクッキーの粉をおしぼりで拭きながらマキオが呆れ口調で言う。僕は何も返事をしなかったが、マスターの「あの子というのは?」との質問に、答えなければいけない空気になってしまった。
「初恋の女の子のことです。待ち合わせをしていたんだけど、僕はそこへ行けなくて、想いを伝えることができなかった」
「仕方ないだろ。お前、交通事故に遭って入院してたんだから」
諭すようにマキオは言うが、そう簡単にはいかない。約束をすっぽかされたと思ったのか、初恋の女の子とはその後、連絡が取れなくなってしまったし、違う学区の子だったから学校で会うこともなく、結局現在も会えずじまいだ。
悔恨の根は意外と深い。
「モトヒロくん、今でもその女の子のことを?」
「どうでしょうね」僕は椅子の背もたれに身体を預け、天井を見上げた。「五年も前のことです」
「ませてるでしょ、こいつ。十二歳で告白しようとか考えてたんだぜ?」
嘲弄の顔を浮かべたマキオが僕の肩のあたりを強く指で突きながら茶化してくる。
「うるさいな、マキオには言われたくないね。お前、幼稚園の頃から告白しまくってたじゃねえか」
そう反論しつつ、左の拳でマキオの背中に渾身のフックを叩きこんでやった。「ぎゃ」と低い呻き声をあげて椅子から転げ落ちるマキオを見て気分は晴れ、満足する。
「それにしても事故で入院とは大変でしたね。大きな怪我をされたのですか?」
「いえ、僕はほんのかすり傷程度でしたよ。入院といっても、たった三日間でしたから」
とはいえ、正直あまり思い出したくはない。その時に負った傷の痛みとは違う、まるで胸の奥のほうに楔を何度も打ち込まれるような耐え難い苦痛に苛まれるからだ。僕はそれを振り払うみたいにして、無理矢理に語を継いだ。
「あの子と待ち合わせをしていたのはお洒落なカフェだったけど、もしも、その頃にこの店を知っていたら、そしてこの店で待ち合わせをしていたら、噂通りにうまくいったのかな?」
マスターは目を細め、温もりの伴う視線をこちらに向けると「ただの噂ですよ」と呟いた。