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午後二時十分 交差点

 

 わたしは迷っていた。

 傘に落ちては弾ける不規則な雨の音を聞きながら、横断歩道を前にして逡巡していた。歩行者用信号機の赤いランプが雨に煙って滲んでいる。

 待ち合わせの時間は、午後三時だ。

 反射的に左腕を持ち上げて手首へと視線を落とすが、そこにあるはずの腕時計がなかった。大切な腕時計だ。彼と会う時には必ず左手首に巻いていくことを心掛けていたのだが、おそらく家に忘れてきてしまったのだろう。取りに帰ろうかとも思ったが、やめた。

 水を激しく跳ね上げて通り過ぎる真っ赤な車を目で追いながら、頭の中で彼の言葉を反芻してみる。

「喫茶アテントで待ち合わせしよう」と、そう言っていた。

 その喫茶店には行ったことがないけれど、学校でちょっとした噂になっているのを耳にしたことがある。なんでも、その喫茶店で待ち合わせをしたカップルは、幸せになれるとかなんとか。

 わたしは迷信やジンクスなんてものはあまり信じない性質なのだが、屈託のない彼の顔を見ていたら、信じてみるのも面白いと思った。いや、信じたいと思ったというのが正しいのかもしれない。

「まーくん」

 彼の名前を口にすると、心が安らぐ。隣で同じように赤信号に足止めをくらっているサラリーマンに、わたしの呟きが聞こえてしまったかもしれないと横目で確認してみたが、雨の音に掻き消されて聞こえなかったのか、特に気にしていない様子だった。

 大型トラックが轟音とともに走り去り、余韻のような風だけを残していく。その風がわたしの長い黒髪を揺らして、首筋をくすぐった。

 いつもより赤信号が長い。もちろん、そんなことはないはずだが、信号待ちの時間がこんなにももどかしく感じるのは、すぐにでも彼に会いたいという気持ちの表れなのだろう。

 それでも、やはりわたしは迷っていた。

 待ち合わせをした喫茶店に行くことは、彼と会えなくなることを意味している。なぜなら今日、彼に会って、別れを告げるつもりだからだ。

 傘の柄をぎゅっと握り、軽く下唇を噛む。

 彼のことを嫌いになったわけではない。だからこそ、辛かった。大好きな彼の将来を考えると、わたしは彼の近くにいてはいけないのだ。

 信号が青色に変わり、信号待ちをしていた三人ほどの歩行者が一斉に歩き出した。わたしはその場から動かず、歩いていく見ず知らずの人たちの後姿を眺めやる。それぞれが目的地へと向かって進んでいくのに、わたしは何をやっているのか。臆病で優柔不断な自分に辟易する。

 そんなわたしの気持ちなんてお構いなしに、青信号は点滅しはじめ、再び赤になってしまった。

 絶え間なく波紋が浮かんでは消えていく水溜まりを車が乱暴に踏みつけていく。それでも何事もなかったかのように再び波紋を浮かべはじめる水溜まりをぼんやりと眺めながら追憶に耽った。

 いつだったか、デート中に入った瀟洒なカフェで彼が言った。男の子のくせに大きなパフェに瞳をキラキラさせながら「おれには、夢があるんだ」と。

 努力していることを知られるのが気恥ずかしいからか、それとも目標が途方もなく大きかったからか、一番の親友にすら夢のことは話していないらしい。今まで誰にも打ち明けなかったという自分の夢を、わたしにだけ話してくれたことが、なんだか彼にとっての特別な存在になれたようで嬉しかった。

 ようやく誰かに話せたことでほっとしたのか、熱い想いが溢れて止まらないといった様子でひたすら一生懸命に夢を語る彼を見て、わたしはその夢を応援しようと、本気でそう思っていた。

 しかし、三日ほど前に彼が何の気なしに言った言葉が、わたしを苦悩させる原因となる。

「おれ、夢よりも君と一緒に楽しく過ごすほうを選ぶよ」

 彼はきっと、わたしを喜ばせようとしたのだと思う。よく「わたしと仕事、どっちが大事なのよ」なんてことを訊く女性がいるが、わたしはそんな愚かな質問はしない。それなのに、仕事や夢よりも大切に想われることが女性にとっての幸せなのだと彼は勘違いして、そう言ったのだろう。

 そんな彼の気持ちを真正面から受け止めてしまったわたしには、それが重く感じられた。会える時間が少なくなってもいいから、彼には自分の夢を追い、叶えてほしかった。

 もちろん、彼にもそう話したのだが、もはや夢なんて彼の頭の中には無いのか、それともよほど頑固なのか、考えを変えてくれそうにはなかったのである。

 だから、彼と別れることを決意したのだ。

 待ち合わせをしたカップルが幸せになる喫茶店で別れ話をするなんて、皮肉なものだ。集客に一役買っていそうなジンクスに泥を塗り台無しにしてしまうようで、その店には申し訳ないなという気持ちもある。

 溜息を一つ落として、遠くの空に視線を向けてみた。

 空を覆う重く分厚い雲が太陽を隠しているとはいえ、今は真夏だ。じめっとしていて、むせかえるほどに暑い。涼しげな白いワンピースを着ていても、じっとりと汗ばんでいた。

 それなのに、身体は冷たく感じる。別れたくないのに別れ話をしようとしている自分自身に、身体が拒否反応を示しているかのようだ。

 次、信号が青に変わったら、喫茶店に向かおう。

 そう決めた。

 それなのに、青色に変わった信号をただ見つめるばかりで、わたしの足は地面に根が張ったみたいに動かなかった。

 車の中で信号待ちをしている人たちは、一向に信号を渡ろうとしないわたしを訝しげに見ているのだろう。そう思い、二列に並んで停車している軽自動車やタクシーをちらりと流し見たが、こちらになんかなんの興味も関心もない様子で、誰も気にしてはいなかった。

 信号が赤に変わって車の群れが目の前を通り過ぎていく。そのエンジン音が意気地のないわたしに向けられた野次や罵倒に聞こえた気がして、思わずがっくりと肩を落としてしまった。

 わたしは弱虫だ。

 それは今にはじまったことではない。思えば、彼と付き合うことになった経緯だって、奇跡に近い。勇気がなくて、ずっと彼のことを遠くから見ていることしかできなかったわたしに、彼は「好きです」と告白してくれた。彼はわたしよりも一つ年下だったので、お姉さんぶりたかったわたしは感情を押し殺して「いいよ」と素っ気なく答えたのだが、心の底では飛び上がりたいほど嬉しかった。実際、帰宅後の部屋で一人になったわたしは、本当に飛び上がって喜んでしまったのだから。

 雨脚は以前弱まらず、アスファルトに跳ねた細かな雨粒が足やワンピースの裾をうっすらと濡らしていて冷たい。

 ほんの数分しか経っていないはずなのに、なんだかもう、ずっとここでこうしている気がする。

 すうっと息をゆっくり吸い込んで、彼の顔を思い浮かべてみた。

 わたしは彼の笑顔が好きだ。笑うと、くしゃっとなるその顔が愛おしい。本当に楽しそうに笑うものだから、いつしかこっちまで楽しい気分になってしまう。そうやって周りを明るくする、太陽のような人なのだ。

 気づけば口角が緩やかに上がっており、わたしはうっすらと笑みを浮かべている。思い出し笑いをしているところなんて他人に見られたら気味悪がられてしまいそうだったので、わたしは傘を傾けて顔を隠した。

 やはり彼は自分の夢を叶えるべきだ。彼には人を楽しませる才能がある。わたしなんかが、彼を縛りつけていてはいけないのだ。

 行こう。

 顔を上げると同時に信号が青へと切り替わる。足を動かすと、鉛みたいだった足がようやく一歩を踏み出した。


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