午後二時 喫茶アテント店内
「おれ、彼女ができたんだ」
恋に恋する少女のように瞳を輝かせて、マキオが言った。
「そうか」
僕が抑揚のない声で返事をすると、すぐさま「モトヒロ、お前さては信じてないだろ」と、言葉をぶつけてくる。
「ストーカーは犯罪だぞ、マキオ」
「ふざけんな」
おしぼりをこちらに投げつけ憤慨するマキオの姿に、カウンターの向こうにいる口髭を生やしたマスターが穏やかに笑っている。
ここは喫茶店『アテント』だ。こぢんまりとした店だが、高校二年生になる僕と、友人であるマキオの溜まり場となっている。
べつに、とびきり美味しいコーヒーを淹れてくれるとか、可愛いウェイトレスの女の子がいるわけでもない。こんな言い方をしたらマスターに失礼だと思うが、あまり客が来ないので落ち着くということだけが溜まり場にしている理由だ。
「モトヒロはもてるから、初めて彼女ができたおれの気持ちなんて分からないんだ」
マキオはなにやらぶつぶつと呟きながら、ストローの袋を手で弄びはじめた。完全にいじけてしまっている。
「冗談だよ、マキオ」大袈裟にマキオの肩を叩く。
「で、どんな子なんだ?」
その質問を待っていたとでも言わんばかりにマキオは顔を上げ、嬉しそうに頬を緩める。
「こうさ、長い黒髪が綺麗でさ、肌は透き通るように白いんだよ」
なんだかよく分からないジェスチャーを交えて、興奮気味にそう説明する。
「名前は?」
「ユキちゃんだ」
満足気に彼女の名前を口にするマキオを横目に見た時、テーブル席に座る男性がこちらを注視していることに気づく。スーツを着た二十代前半くらいの若い男性だ。ついさっきこの店にやってきた客だが、あまり見かけない顔なので、常連ではないと思う。ちなみに店内にいる客は、その男性と僕たちだけだった。
「おい、聞いてるか?」
「ああ、なんだっけ?」
「だからさ、ユキちゃんはおれより一つ年上なんだよ」
「三年生なのか」
マキオの言葉に適当な相槌をうちながら、僕はもう一度、男性のほうに視線を向けてみたが、もうこちらを見てはいない。なんとなく、男性の表情にただならぬものを感じたのだが、気のせいだったようだ。
「年上の女性を射止めるとは、やりますねマキオくん」マスターがグラスを拭きながら話に加わる。「年上と付き合うと、いい勉強になりますよ」
「マスターも、年上の女性と付き合ったことがあるの?」興味津々といった様子でカウンターから身を乗り出し、マキオが訊ねる。
「もちろんです」
「へえー」
僕とマキオは同時に意外そうな声を出したが、マスターの年齢は五十代くらいで、僕たちとは比較にならないくらいの人生経験を積んでいるわけだ。だから、よくよく考えれば意外でもなんでもない。
「ところで、マキオはその年上の彼女になんて呼ばれてるんだ?」
僕が何の気なしに軽く話をふると、マキオは照れ臭そうに頭を掻きながら言い放つ。
「まーくんだ」
僕とマスターが同時に噴き出す。
「なにが可笑しいんだよ!」
抗議に近い声を上げるマキオをよそに、僕はカウンターの椅子から転げ落ちんばかりに腹を抱えて笑う。マスターは後ろを向いていたが、肩を小刻みに震わせており、笑いを堪えているのは明白であった。
「モトヒロ、久しぶりに会ったっていうのに、親友の恋路を馬鹿にするなんて、酷すぎないか」
「まあ、落ちつけ、まーくん」
「てめえ!」
マキオをからかうのは、相変わらず面白い。マキオが言う通り久しぶりだからなおさらだ。
僕は夏休みの間、ずっと海外にいた。父親が仕事で海外に単身赴任しているため、夏休みの間だけ母と二人で父親のもとへと遊びに行っていたのだ。
夏休み最終日となる今日、帰国した僕はこうしてマキオと会っているわけである。
「彼女とは、いつから付き合い始めたんだ?」
「夏休みに入ってすぐだ。モトヒロが海外に発ってから三日後くらいだな」
さっきまで怒っていたのに、急に幸せを噛みしめるように話しだす。心の底から嬉しそうだ。なんだかんだとマキオをからかったものの、内心では僕も喜んでいる。マキオは馬鹿だが、いい奴だからだ。幼稚園からの腐れ縁で、その頃から気になった女の子に告白しては振られるという一連の流れを見続けてきた僕からすれば、ようやく実ったマキオの恋を応援しないわけがない。もちろん、そんなことはとても口に出しては言えないが。
「まあ、お祝いにコーヒーを奢ってやるから好きなだけ飲め。マスター、マキオにコーヒーおかわりで」
「おかわりは無料じゃねえか」
そう言いながらも、マキオはグラスの底にわずかに残るアイスコーヒーを飲み干すためにストローで吸い上げる。ずるずるっとストローが激しい音を立てた。
「マキオくんの彼女、会ってみたいですね」
空になったマキオのグラスにコーヒーを注ぎながらマスターが言うので、僕もそれに乗っかる。
「そうだよマキオ。ユキちゃんを紹介しろよ」
カウンター席の端に置いてあるガラスの小瓶から取り出したポーションタイプのガムシロップをマキオの前に二つ投げた。マキオは甘党だ。
「実は」ガムシロップを手の中で転がしながら、なにやら焦らすように間を置く。
「今日、ユキちゃんを呼んであるんだ。三時にこの店で待ち合わせしてある」
「そうなのか」
僕は無意識に店内の壁に掛けられているアナログ時計を見やった。針は午後二時十分を示している。あと一時間ほどか。
そのまま店の窓へと視線を滑らせ、水滴の浮かぶ窓ガラス越しに外を眺めると、車道を挟んだ向こう側の歩道に色とりどりの傘がいくつもの花を咲かせているのが見えた。
街は雨に濡れている。