another side1
赤光が西の空より降り注ぐ夕暮れ時、漆黒に塗られた四頭立ての馬車が辺境伯領にある城下町の閣下通りを南下する。
馬車には一人の男性が乗っていた。
年の頃は二十代後半。身分が高いか、裕福な身の上なのだろう。絹製の背広は男らしい体格の良さを際立たせるように誂えられている。
この地方では珍しい赤みの強い茶髪は肩口まで伸ばされ、黒いリボンを用いて後ろで一括りにされている。
男性の名はアーロン。辺境伯の甥にあたり、子爵の身分に在りながら騎士としても叙任されている。
アーロンは辺境伯の領地運営を手伝う子爵として、又、伯父に忠誠を誓った騎士として密命を帯び、とある人物に会いに行く途中であった。
車窓の向こうを眺めれば、閣下通りに軒を連ねた建物が流れていく。羽振りの良い商会が拠点としているだけあって、景観を損ねないよう建物の大本は変わらないながらに細部はどの建築も凝っている。
(今回の摘発で一体、この中のいくつが追い出されることやら)
アーロンの茶色とも黄色、緑とも判別尽かない瞳が流れ去る街並みを茫洋と映し出していた。
アーロンの伯父である卿は、不正を行う商人はたとえ領地に潤いをもたらそうともお断りだと明言した。アーロンも同じ気持ちである。
だが、アーロンは商会が潰れた後のことを憂う。
彼らはこの城下町に資金の他に物資と雇用をもたらし、領民の安寧な暮らしに貢献している。
独自に開発した情報網も侮れないものがある。
(確かに悪いのは不正を行った商人たちだ。だが、商会ごと追放するとなれば痛手になる)
この土地が辺境伯領とされたのは一世紀前。
海を隔てた隣国との戦争が我が国の勝利を以て終結した当時、国から派遣されていた騎士団長が王命を受けて国境を警備するため土地に根付いたことが始まりだ。
他の伯爵領のように元より栄えていた都市はなく、男爵の一人娘を娶ることで町という拠点を手に入れ、長い年月を掛けて此処まで発展させた。
貴族の一員として歴史を学んだアーロンは知っている。栄華までの道のりは果てなく遠いが、零落は坂を転げ落ちるより早いと。
商人の不正を暴き立てることで、卿は潤沢な追徴金と工場などの不動産を手に入れることだろう。
(伯父上は伯爵として申し分ない働きをしている。でも、彼は商人ではない。宝の使い道を誤らなければいいのだが……)
子爵として辺境伯領内の町々を巡っているアーロンは、城下町に長く留まることがない。次に城下町を訪れるとしたら半年後だろうか。
それまでにこの都市がどのように様変わりしていることやら――アーロンは深く溜め息を吐いた。
馬車が止まった。どうやら連れとの落合場所に着いたらしい。
馭者が馬車の扉を開け、夜気を帯びて冷ややかな外気が馬車の内部へ流れ込む。
アーロンは開け放たれた扉の方へ顔を向けた。予定では此処で二人の男と合流することになっている。
一人目は羅紗製の背広を着たアーロンと同年代の美丈夫だ。
蜂蜜のような茶髪混じりの金髪を後ろに撫でつけ、男らしく丸みのない額を晒している。
その髪色と、馬車内部を検分する黒と見間違える暗い藍色の瞳の組み合わせは、何処となく知的な印象を受ける。
実際、美丈夫ことパフは銀行支部部長の右腕として働いている。
「やあ、パフ。ご機嫌は如何かな?」
「頗るいいですよ」
パフは短いやり取りをする合間に馬車内部の安全を確認し終え、アーロンの斜め前、扉のすぐ脇に座った。
二人目はアーロンより年上で三十代前半を数える男性なのだが、どう見ても同年代にしか見えない華人だ。
大理石ように白く滑らかな肌。絹糸に金粉を塗したような絢爛な金髪が短く、巨匠が手掛けた彫像のような顔立ちを縁取る。一介の平民である筈の彼の体つきは、絹製の背広を着込んでいても逞しさが窺え、まるで鍛えられているようだ。
これで貴族であればご令嬢どころか衆道の紳士も黙っていないだろうに彼は富と美しさに恵まれた一方で、生憎、身分には恵まれなかった。
黄金率で配置された目鼻立ちの中で、特に印象強い夏空を閉じ込めたように鮮烈な蒼さを宿す瞳が、アーロンを見据える。
「やあ、ネイ。今日は頼むよ」
「こんばんは、ロン。今日は私より君の演技の腕に掛かっているのではないか?」
「違いない」
アーロンは快活に笑った。
華人の名はネイサン。本人はしがない銀行家だと名乗っているが、その正体は辺境伯領どころか王国の至る場所に支部を持つ金融王の遠縁にあたる。
金融王は資金難の貴族が手放した領地を買い取り、伯爵位を手に入れた。ネイサンもそのうち爵位を買うのではないかと実しやかに囁かれている。
ネイサンはパフの隣、アーロンの向かい側に腰掛けた。
扉が閉まり、馬車は目的地に向けて動き出す。
「君たちとの久方ぶりの再会が、まさか後ろ暗い会場に向かう馬車の中になるとはな。人生、何があるのか分からないものだ」
アーロンは再会を喜ぶように目を細めた。
ネイサンがこの都市の銀行支部を任されて十年ほど。ネイサンが赴任してきた当時、従騎士として卿の館に滞在していたアーロンは、初めて領主館を訪れた彼と卿の身内として引き合わされた。
(大理石で作られた彫像のような奴)
アーロンがネイサンと会って抱いた第一印象だ。あとで芸術に理解が薄い卿でさえネイサンの見た目を褒めたけれども、アーロンは蒼玉のように感情の篭らない瞳がどうしても好きになれなかった。
もし城下町でネイサンの右腕であるパフと偶々知り合わなかったら、こうして親交を深めることもなかっただろう。おかげで今はネイサンの人間らしい腹黒い一面を知って、前ほど苦手意識を持っていない。
従騎士から正騎士に叙任され、のち子爵位を与えられるまでアーロンは領主館で次男坊の従兄と共に卿の補佐を務めていた。
アーロンと次男坊で騎士仲間のジュリアス、パフ、そして時々ネイサンを加えて領地の未来について語り明かした夜が懐かしい。
「ロン、君の言葉に私も賛同するよ。真っ当に生きているつもりなのに、まさかあんなお誘いを受ける羽目になるとはね」
「本当です。私もネイ様から話を聞いたときは耳を疑いましたよ」
ネイサンの話を聞いてパフが苦々しげに肯く。
一昔前に悪徳な高利貸しが財力に物を言わせて恋人の仲を切り裂くと言う悲劇が流行り、銀行家と悪魔のような冷血漢が同意義の存在として世に広がってしまった。
町の零細な金貸しならいざ知れず、幸いにして金融王の強大過ぎる財力に恐れをなして、ネイサンたちを表立って非難する者は現れていない。
しかし、ああした出来事があると、彼らが世間からどのような目で見られているのか、自ずから分かると言うものだ。
「ネイ、貴方にとっては不快な出来事だっただろう。しかし俺としては由々しき事態になる前に、事を収拾できることになって嬉しい」
「その部分については感謝して欲しい、ロン。誘いを受けてすぐ卿に奏上すると同時に、証拠を集めに動いたのだからね」
「ああ。おかげで摘発は神速で行われることになった。礼を言う」
ネイサンから伯父の元へ挙がった情報とは、人身売買の事実とその競売会場、開催日程についてだった。
人身売買は法律で禁止されている。これは辺境伯領だけではなく王国全土で徹底されている。
農村部では子供を売る行為が黙認されているが、それはあくまで奉公に出すという認識の上での行為であり、親が受け取る金は奉公に上がる前の支度金とされている。
今回、ふてぶてしくも城下町で行われている人身売買は、港町と言う特性を生かし農村部で集めた女子供を他国へ流出させるものとして行われているらしい。
旅券を持たない人間が此処の港から出入国することは重罪に問うと、卿が法で取り決めている。
特に第三者の手によって出国を余儀なくされた場合は、その第三者は財産の没収及び流刑若しくは死刑に相当されると公文書に明記してある。
アーロンが帯びた密命とは情報の提供者であるネイサンとパフに協力し、人身売買の現場――他国へ出向する船に乗った、旅券を持たない女子供の身柄を確保し、決定的な証拠を手に入れることだった。
「今回の任務は気が乗らないな。振りとは言え、人を金で買うなど反吐が出そうだ」
「ロン、我慢してくれ。前にも話した通り、その役目は君がピッタリなんだ。何しろ君の赤毛は島国で多く見かけられるものだ。仮面で顔を隠し、私が素性を保証すれば誰も君だと疑わないだろう」
「分かっている」
頭では分かっているのだが、気持ち的に拒否反応が出る。
アーロンは子爵位を得て町から町へ渡る生活に慣れた頃のことを思い返した。
街道の水飲み場で出会った十才と九才の兄妹のことだ。
その出会いは偶然だった。同じ水飲み場で馬に休息を取らせていた行商人の目を盗んで、水辺に咲いた野花で遊んでいた兄妹に事情を知らなかったアーロンが「親は何処か」と訊ねると、「幼い弟妹と村に居る。俺たちは幼い妹弟のために働きさ町へ行くんだ」と答えた。
十歳に満たない幼い子供が親元を離れ出稼ぎに行くと言うのだから、貴族のアーロンは純粋に驚いた。
男爵位を持つ父の元に次男坊として産まれたアーロンは、将来を見越し伯父の辺境伯に早くから預けられた。そのおかげで都市や町の事情に精通していたが、農村へ足を向けたことは一度もなかった。
その兄妹との劇的な出会いを経て、アーロンは農村へ足を運んぶようになった――彼は都市部と農村部の貧富の格差が余りにも激しい事実に愕然とした。
あの兄妹の他にも家族を養い切れなくなり、奉公に出される子供たちは大勢いるのだと、アーロンは知った。
辺境伯領は一世紀を掛けて発展し、豊かになったのだとアーロンは教えられていた。だが実際は豊かさに偏りがある。
人身売買は悪だ。領民や自国民が他国へ流出することは深刻な問題である。
しかし、それを助長させているのは貧富の格差に他ならず、不正を行った商人ばかりではなく彼が所属していた商会まで追い出しては、ますます格差が進行するのではなかろうか。
人身売買を厭いながら、それに加担している商人並びに商会を追い出したのちに起こり得ることで頭を痛め、アーロンはまたぞろ深い溜め息を吐いた。
奉公と言う名目で売られたことを悟りながら、家族のためだと誇らしげだった幼い兄妹の顔が忘れられない。
一人で悩んでいてもしょうがない。アーロンは経済に精通する友へ相談を持ち掛けた。
「ネイ。今回の摘発で人身売買に関わった商会が潰れた後、俺たちが被る害はどの程度になると思う?」
「人身売買との関わりを否定できる以上、領主一族が害を被ることはほとんどないだろう」
「違う。領地に住む全ての民が被る害についてだ」
ネイサンは直ぐに応えなかった。形のいい顎に指先を添えて思考を巡らしている。
(そんなに被害が酷いのか?)
アーロンが難しい顔でネイサンの様子を窺っていると、ネイサンが不意にアーロンと目を合わせて悪戯っぽく微笑んだ。
「ロン、考えたのだがな、領民が被る害は限りなく皆無に近い」
「なんだって?」
「但し、それには大前提がある。工場や商会館などの不動産を私の銀行に優先的に買い取らせ、領主が得た潤沢な資金を宝物庫の肥しになぞせずに預金してくれたならば、そうだな遅くとも三か月後までには新たな雇用を齎してみせよう」
「本当にそんなすぐにできるのか?」
「私は遠縁とは言え金融王の血縁にあたる。今回はそのコネを最大限に利用させてもらう。まあ、そんなことをしなくとも海路を使った貿易は割がいいんだ。空きができたと噂が広がったのならば、あっちから話を持ち掛けて来るだろう。私はその中から信用できる商会や、将来性のある商人を拾い上げるだけだ」
「なるほどな。ネイ、貴方のように頼もしい友が居てくれて正直、助かっている。ありがとう」
「なんだ急に改まって。気味が悪いな」
「いや、正直に思ったことを言っただけだ。ジルが姿を消し、真面目な議論をできる相手が少ないことに気づいたんだ。貴方のような存在は本当に貴重だよ」
アーロンは彼と同じく騎士を目指し、領内各地――辺境伯領に内在する男爵領から集った仲間の顔を思い浮かべながらそう語った。
弁護士や医者などの知識階級ではなく騎士になる道を選んだ貴族子弟は残念ながら、子爵位を得ることが内定していたアーロンやジュリアスと異なり議論に弱かった。
「あの」と、それまで口を噤んでいたパフが声を上げる。
「ロン。ジルはまだ見つからないのでしょうか?」
その問い掛けにアーロンは首を横に振ることで答えた。
「そうですか」
パフは目を伏せた。
それきり、重い静寂が馬車の内を支配する。
アーロンは車窓へ目を向けた。馬車は閣下通りを離れ、岬の館へ繋がる東通りを走行している。
富豪の邸が多い東通りには、かつてジュリアスと恋人が住んでいた邸もある。
アーロンは従兄の邸へ遊びに行くときに通った並木道に、手を繋いで歩く黒髪の男女、居るはずのないジュリアスと恋人の姿を探した。
(ジル……)
従兄のジュリアスは父親そっくりな鷲鼻をしていて、アーロンは野性味溢れる彫り深い顔貌を密かに羨んでいた。
騎士の訓練に明け暮れ日に焼けた顔に、恋人へ向けるときだけ柔らかい微笑を浮かべていたジュリアス。彼は子爵位を得たら、菫色の瞳をした美女ヴァイオレットと婚姻を結ぶ計画を立てていた。
それなのに――王都に住む恋い焦がれた女性と同じ菫色の瞳をしていた。それだけの理由で、学院を卒業し王都から戻ったジュリアスの兄は強引にヴァイオレットを奪った。
ジュリアスは失意の中で姿をくらました。
卿は自身の後継者である兄を恨んでいる弟をわざわざ連れ戻し傍に置くことを良しとはせず、自らの意志で戻らない限り放っておくとして捜索はされなかった。
アーロンが個人的に捜してはいるが、多忙な生活のせいで十分な時間を確保できていない。それはネイサンとパフも同じだろう。
それに加えて卿が探さないと公言している以上、人を雇って探すことができず、もどかしい状況に陥っている。
辺境伯領は広い上、そもそもジュリアスが領地内にいるかも分からず、捜索は絶望的としか言えない。それでも彼らは決して諦めていない。
(ジル、戻って来い。ヴァイオレットはお前を待っているんだ)
アーロンは晩餐に招待された昨夜、伯父の館でヴァイオレットに遭遇した。
ジュリアスの妻になる筈だったヴァイオレットだが、辺境伯の跡取りの妻に吊り合う身分にはなく愛人として館に留め置かれている。
平民としてジュリアスと暮らしていた頃に健康的だった肌色は良い様に捉えれば白く、悪し様に捉えれば青白くなっていた。そのせいか黒壇の髪とクコの実のように赤い唇が、もう一人の従兄が執着する菫色の双眸より目立っていた。
――アーロン様。ジルはまだ迎えに来てはくださらないのですか?
ヴァイオレットの縋る言葉がアーロンの頭蓋の中で反響する。
今は任務に集中すべきだと真っ当ながら言い訳がましい思いを以てして、アーロンはヴァイオレットの悲痛な声を心の奥底に封じ込めた。