序
恋に臆病な少女と潔癖性な青年の恋物語、開幕。
オッティことヴァイオレットが自らの異常性に気付いたとき、彼女は十三歳と多感な年頃であった。切っ掛けはとても些細なこと。子供も駆り出される落穂拾いの小休憩の最中、少女たちが集まって拙い恋愛談義に花を咲かせている場でのことだ。
やれ新しい行商人のお兄さんがかっこいいだの、サムがヴィヴィに意地悪ばかりするのは気になっている証拠だのと、ともかく話題に事欠かない。四方を山と森に囲まれた、閉鎖的な村では老若男女関係なく色恋沙汰や痴情の縺れを好む。否、娯楽が限られているせいで好まざるを得ないというべきか。
この村で生まれ育ったオッティも例に漏れず、友人たちの話をキラキラと瞳を輝かせて聞いていた。
暫くして「そう言えば」と、幼いながら母親そっくりで噂好きなモーガンが切り出した。
「私ね、思うんだけど――ジルさんって、絶対にオッティのこと好きよね?」
「え?」
突然振られた話題にオッティは虚をつかれ、目を丸くした。何て答えればいいのか困惑している彼女を置いてきぼりにして、周りの少女たちは盛り上がった。
「ああ、確かにそんな感じがするよね」
「そうそう。積極的に話しかける相手、オッティくらいだものね」
実際のところはどうなのかと、少女たちの好奇心溢れる複数の目が問い詰める。中でもオッティはモーガンの顔を窺いみた。最も付き合いの長い栗色の髪をした少女もまた、大きな眼で返事を待っている。
オッティは口端を無理やり上げながら、視線に促されるようにして口を開いた。
「……そんなことないよ。私だけじゃなくて、お姉ちゃんともよく話をしているから」
これが彼女たちの要求を満たせて、尚且つ波風も立たない一番無難な答えだった。
ジルは村の若い狩人だ。村はずれに位置するオッティの家より更に森と近い場所――狩人小屋に住んでいる。農作業に従事することもない彼と少女たちはほとんど関わりがないにも拘らず、ジルが少女たちの話題に上る理由は彼の見目が麗しい点に尽きた。
日に焼けた赤銅色の肌、硬質な輝きの黒髪と瞳。鷲鼻だが、彫りの深い顔貌と合わせれば野性的な魅力となる。二十八歳と、少女たちと釣り合いの取れる年齢でもあり――村では働き手となる子を多く産むため女は十四歳を過ぎた頃から嫁ぎ、家族を養う男はある程度の蓄えができる三十歳近くで嫁を迎える――少女たちはますます熱を上げていた。
そう、村の少女たちは彼に恋をしている。だからオッティは決して彼の特別な存在ではなく、ご近所として家族ぐるみの付き合いがあるのだと示さなければならなかった。そして例に挙げる相手は十歳に満たない妹ではなく、嫁いだとはいえ年頃の姉でなければならなかった。
事実、友人たちはオッティの答えに満足している様子だ。続く言葉は勿論――
「そっか。オッティの家って、狩人小屋に一番近いもんね。仲良くて当たり前だよね。ところでさ、オッティ。最近もジルさんと何かお話ってした?」
さて、遠回しな詮索にどのように答えるべきか。少女たちの欲求を満たせて、ジルに不快な思いをさせない範囲を割り出すことはすぐにできることではない。
「えっと」そう口篭るオッティをけれども、付き合いの長い少女たちは急かさない。なぜならばオッティがとろくさいことを彼女たちは知っているからだ。
「最近は、その、森で木の実が生っていたとか、子連れの獣が増えてきたから気をつけろとか……そんな話をしたよ」
それでと、少女たちの瞳は期待に満ちている。
「……クコの実がたくさん実っていて嬉しいって言ってたよ」
他にはと、沈黙のうちにせがまれる。
そのとき「休憩は終わりだ」と農夫の濁声が響いた。助かったとばかりにオッティは胸を撫で下ろした。
立派な働き手である少女たちの切り替えは早い。すっと腰を上げて落穂拾いの作業に散っていく。オッティもまた、日が暮れるまで落穂拾いに専念したのだった。
*
辺りが茜色に染まる頃、農作業に従事していた人々は帰途に着いた。
田舎道に落ちる影は四つ。オッティと母親、そしてモーガンと彼女の母親のものである。母親同士が喋る傍ら、モーガンが今日の話について憶測を交えて語ることをオッティは黙って聴いていた。
「またね、オッティ」
「おやすみなさい、モーガン」
モーガン母子と別れ、オッティは母親に伴われて歩きながら溜め息を吐いた。
「なあに、あんた、疲れちゃった?」
「ううん、疲れてないよ」
オッティは首を横に振った。母親が落穂拾いで疲れたかと問うているならば、この返事は嘘ではない。
恋する友人たちの相手は、少々、疲れる。特に誰が好きなのかと、問い詰められることほど疲れることはない。なぜならば「いない」と答えたならば、「嘘、なんで隠すの」と当たり前のように続くからだ。それでも否定すれば、今度は「早く恋しなよ」と訳知り顔で恋することの素晴らしさを語る。
それがオッティにとって迷惑だった。恋について話を聞く分にはいいのだが、当事者になることを考えるだけで胸の内に蟠りが生まれるのだ。幼い時分には喩えようのない感情として持て余したそれの名を、今日、オッティは正しく理解してしまった。
家に入る直前、母親が森の方向を向いて「おや」と首を傾げた。
「ジルは今帰ってきたみたいだね」
オッティは森を振り向いた。薄暗い森から男がひとり、狩小屋に向かって歩いていく。そのまま狩小屋に入るのかと思ったら、ジルはこちらに気付いた様子で大きく手を振った。
――ジルさんって、絶対にオッティのこと好きよね?
モーガンの声が耳の奥で蘇る。
そう言われたとき有り得ないと理性的に否定する頭の他、心に芽生えた感情があった。それは幼い時分から抱いている蟠りに似ていて、漸くオッティは彼女自身理解できなかった感情を名付けることができたのだ。はたして彼女の中に芽生えた感情は嫌悪だった。
もしこれが異性から向けられる好意に対してだけ抱くものであったならば、少女特有の潔癖さであると言い切れたのかもしれない。
しかし、オッティは気づいてしまった。異性だけではなく家族友人――兎に角、他人から向けられる親愛の情に対しても、嫌悪を感じてしまっていることに。
このとき、オッティことヴァイオレットは十三歳。自らの異常性に気づけたからと言って家族友人に相談することもできず、村を逃げるように離れるまでの三年間、人知れず思い悩むこととなった。