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幾許  作者: _
腐 音
9/15

9mg 侵

「それから中川は、会社に戻って、真面目に働くようになった。今では料理も覚えて、すっかりシェフ気取りだ。確かに、あいつの料理は美味いんだ」

 “もや”のことを話はしなかったが、俺はあれから、“もや”が見えるようになった。それに囲まれた人間は、死ぬ。幾度となく出現した“もや”は、人を死に導いた。濃度には、死期が関係しているように思えた。

 ミルクは、化粧をしながら、俺の話を聞いていた。化粧が終わると、ポーチをバッグにしまい、その上にコートをかけた。いつでも出かけられる用意をして、俺の隣に座った。俺は、上着のポケットにタバコとライターを押し込んだ。

 ミルクが俺を覗きこむ。その視線に捕まれながら、ミルクの指先に触れた。細い爪先から関節を伝い、指を絡めていく。こんなふうに誰かのなにかをたどり、その奥まで入りたいと思ったことはなかった。ミルクは、自分に興味の無い人間は初めてだと言ったけれど、ミルクのほうが他人に内側を移行していない気がしていた。誰にもなににも染み入らない。ミルクの内側は見えない。見えなくてもよかった。俺はもう戻れないだろう。少しずつ、ミルク色が俺の心に染みていく。俺は繋がれた手はそのままに、片方の手でミルクの頬に触れた。艷やかにきらめく肌。目の下にある一点の黒子。花びらのような唇が俺の名前を呼ぶ。

 唇が揺れる。揺れる花びら。見たことのある光景が重なる。白い世界に咲く花だ。清らかな物質が揺れる。



 ……それに触れることはできなかった。




「そろそろ中川がくる時間だ。行こうか」

 外は薄黒い雲たちが繋がろうとしていた。明けない梅雨に迷い込んでしまったかのように、今年の雨はよく降る。ずっと迷い続けていても構わない。梅雨が明けたらミルクが消えてしまいそうな気がして、俺は初めて雨を愛おしいとさえ思った。

 中川は、ミルクを見ると、実にわかりやすい笑みを浮かべた。明らかにその脳内では、女優、朝野ミルクが再生されていることだろう。俺はふたりの間に割り込み、真ん中の席に座った。中川は傷心顔で走り出す。

「ね、窓開けていい?」

 朝霧美陸(みり)は、職業を纏わぬ横顔で、タバコを握りしめていた。もっとも俺は、女優としてのミルクを知っているわけではない。目の前にいるミルクは、女優なんかじゃない、ただのひとりの女にすぎない。

「ここからだと二時間ぐらいか?」

 車はETCレーンをくぐり抜け、中川が運転手の顔で聞いた。

「一時間半ってとこかな」

 俺は、逃亡者の顔で答える。

 中川のくだらない話に、ミルクはよく笑った。まだ会社を抜け出してから日も浅いのに、中川の話も、会社のトラックの振動も、古めかしいアルバムをめくった気分で俺をもてなした。

「なあ、哉多」

 アルバムには少ない、真面目顔の中川が俺を呼んだ。

「俺も仕事辞めるよ。調理の道に進むことにした」

 相槌と煙を吐き出して、次の言葉を期待した。

「料理を作るようになってからわかったことがある。直、味を色で判断するんだ。不思議だろ。見た目でもないらしいんだよな。一緒に料理するようになって、直も作れるようになってきて、白と赤を混ぜれば、この味になる、とかさ。不思議だよな。俺さ、味覚障害でも楽しめる、そんな料理作りたいなって思ったんだ」

「中川じゃない中川がいる」

 中川が笑い、俺に一瞬視線を残してから言った。

「哉多、肩の荷が降りたとか思ってんじゃねえよ」

 意外な盲点を突かれて、俺は苦笑いした。

「あのとき、哉多には助けられた。だけど、義理で今まで哉多について会社にいたわけじゃない。やりたいこともなかったしな」

「俺じゃなかったとしても、西脇さんが助けただろう」

「あの人が、哉多についていけって言ったんだ。ふたりでピースみたいなもんだからって」

「ピース?」

「ジグソーパズルの」

「当て嵌められたのか、俺は」

 或いは、俺が。おかげで、パズルの枠の中で飽きなくてすんだ。俺はいつも笑っていられた。

「西脇さんとは、どうやって知り合ったんだ?」

「出会いは最悪だったよ。直がキスしてた相手だった。頭きて殴りかかったけれど、まったく敵わなかった」

「それで絶対逆らえないって言ってたのか」

「喧嘩が強いからってだけじゃない。ずっと前から一方的にだけれど知っていて、嫌いだったんだ。でも、たぶんもう出会ったときから惹き込まれていた」

「そうか」

 窓の外を眺めるミルクを、俺は見つめた。

「コーヒータイム」

 中川の提案にふたりとも賛同した。規則的なウインカー音がパーキングエリアに吸い込まれていく。

 ミルクに続いて降りると、ミルクは振り向いて、手のひらを俺の胸に押し付けた。

「今日は、私が買う番だと思うの。なにがいい?」

 ブラックふたつ、運転席から中川が言う。

「じゃあ、ブラックみっつね」

 ミルクの後ろ姿を見つめながら、中川は、

「いい子だね」

 と言った。

「惚れた?」

 俺はどちらの言葉にも返答せずに、閉じたドアに背を預けた。空はすっかり黒い雲に覆われていた。いつ降り出してもおかしくないだろう。風が少し冷たいが、嫌いではない温度が俺を触る。半開きの窓から、中川の声が続いた。

「俺も、どこかで軽蔑していたのかもしれない。AV女優は好きだけれど、自分の彼女には嫌だ、とかさ。でも哉多の部屋の荷物を運びながら、橘早妃は、橘早妃ではなかったわけなんだよ」

「なにが言いたいのかわからない」

「目の前にいる橘早妃はさ、違うんだよ、憧れの女優ではなく、哉多の母親なんだよ。どこにでもいる、俺の母親と変わりない、ひとりの人間なわけよ」

 俺は返事をしなかった。というより、言葉にする単語が見つけられずにいた。中川は、料理をするようになってから、タバコの量がだいぶ減った。ちゃんと自分の道を進んでいる。

「ああやって、コーヒーを抱きかかえて走ってくるあの子も、朝野ミルクではない。だけど、朝野ミルクなんだよな。全部で、あの子なんだよ。出来ているのか、覚悟。全てを受け入れる覚悟」

 あの子を見た。ただのひとりの女にすぎないミルクを見た。振り向いてドアを開け、調理師になろうとしている顔の中川に告げた。

「でなきゃ、こうしてここにいねえよ」

 ミルクを真ん中に乗せて、車は再び走り出した。

 少し経つと、ミルクがこくりとこくりと眠りに落ちた。中川は手を伸ばし、ミルクの頭をそっと俺の肩に押し付けた。中川が笑む。出会ったころの屈託のない笑顔だった。

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