7mg 硬
「レンジ、神矢組に入ったって。なあ、どう思う? 放っておく?」
「俺にはどうしようも……そんなに中川のことを知っているわけではないし」
「だよなあ」
店先のベンチに腰を掛けた西脇さんは、引き寄せた足を抱え、空を仰いだ。俺もその目線に従う。今にも初夏の匂いが降りてきそうな空だ。といっても、店先のマネキンも、商店街を行き交う人々も、まだ長袖の服を纏っている。俺だけが半袖といった格好で荷物を降ろしていた。
「直に会ったんだって?」
なお? 新婚風の表札を思い出す。
「俺、レンジに会う以前に、直と知り合いでさ。飯作れない以外は良質のニンゲンなんだぜ」
一瞬、生温い匂いがよぎる。散らかった部屋も。それでも、あの空間は清い感じがした。隅に置かれた電子レンジの中だけが異空間で。
「中川、一度も母親の料理を食べたことがないって言ってた」
「直は味覚障害なんだよ。先天性の」
「先天性? 生まれつき、なんの味も知らないのか?」
返事がない。時々こうして会話が途切れることには、もう慣れた。俺はまた作業を続ける。振り向いたとしても、西脇さんは、まだ空を眺めているのだろう。
「味蕾が犠牲になったからといって、レンジは窮屈を味わったりしねえ」
瞳に空が映写され、雲が流れていく様子を思う。西脇さんの瞳は色を感じない。映るものが反映しているようにも見える。どんな色に例えようとも当てはまらない。未知色に問う。
「思うんだけど」
西脇さんの瞳に俺が映る。その鋭さは、人に怖さを与える。そういったことにも俺は疑問を持っていた。
「裸眼だよね、きれいな色。なに色っていうの?」
「コーフ・ライトらしいよ」
「コーフ?」
聞き慣れない単語だ。
「ブルー系」
「出身はどこなの?」
「西のほう」
「西の?」
「なんなの、この質問攻め」笑いながら「脇のほう」とはぐらかす。
「飽きないでよ」
と、不貞腐れると、西脇さんは言った。
「思うんだけど、の続きなら聞く」
「日本人じゃないような気がしていたけれど、もしかしたら、俺の考えている以上に得体のしれない人物なんじゃないかって。異星人じゃないのかとさえ疑う」
西脇さんはきょとんとしていた。そりゃそうだ。だけど。
「ちょっと違う。正しくは、物質、かな」
だけど次は、俺がきょとんとする番だった。西脇さんが度々返す冗談めいた言葉にさえ、俺は真実を探してしまう。
「じゃあ、その物質は、地球になにをしにきたの? 侵略でもしにきたのか」
「……侵略されているのは俺のほうだ。悪質のニンゲンに」
西脇さんの瞳に、今はなにが映っているのだろう。商店街の街並みか、行き交う人々か。道路向かいの隅にいた白猫がニャーと鳴いて、奥に消えた。
「中川を助けるの?」
返事を聞かなくても、人を助けずにはいられない性格ということは知っている。
「あいつが選んで神矢組に入ることは、別に構わねえ。でも今の神矢組は霜付いてる。時期、凍るぜ」
荷物を降ろし終えた軍手の中は、軽く汗ばんでいた。俺は軍手を外し、伝票を西脇さんに渡しながら聞いた。
「どういう含み?」
神矢組の跡取りが覚醒剤絡みで事件を起こし、捕まった事件を知らないやつはいないだろうが、その後の神矢組の動向など、世間の関心は薄れている。
「取引だけじゃなく、組織内にも蔓延している」
「蔓延? 薬物が?」
「カプセル状で手軽に取り込める。脳に異常をきたさないといわれている新種で、急激に出回ってる」
「脳に異常をきたさないなんて、そんな都合のいいものあるの?」
「さあな。どっちにしろ、ヤクには違いない。あいつは、まっさらなやつだから、それを根元から吸収してしまうような気がして。先まわり過ぎか?」
西脇さんは立ち上がり、受領印の済んだ伝票を俺に返した。いつものことだが、彼の指先はひどく冷たい。なにも吸収しないような固さを感じる。彼が本当に物質なのではないかと惑わされるほどにだ。そんな俺の戸惑いを見抜いてか、西脇さんは言った。
「嫌なんだよ。自分のターゲットが誰かに壊されるのは。壊すのは俺だ。忘れるな、哉多もターゲットの一人だ。そうやって、少しずつ地球を侵略して行く予定」
異性物質の先端が、冷酷な色で俺を突き刺した。
それから中川を見かけたのは、数日後の配達途中のことだった。
夜ル町に隣接するスナック街には、まだ人の影は少なく、ひっそりとしていた。どこからか、ほうきの掃く音が聞こえてくる。ほうきの先端がアスファルトにリズムよく打ち付けられ、塵が舞い、塵もまたアスファルトに打ち付けられていく。連鎖の奏でるサウンドに、俺は一瞬だけ懐かしさを垣間見た。
中川は、スーツを身に着けて、同じくスーツ姿の三人と歩いていた。少し、痩せただろうか。ひどく浮かない顔をしていた。道路端に停めた俺の会社の車にも気付かないほどだ。
俺には関係のないことだ。関わらなければいい。
……生温い。
西脇さんの手の冷たさと、中川のやわらかさがぐにゃりと中和して、生温さが渦巻いた。俺は、運転席に気怠さと軍手を脱ぎ捨てて、中川のあとをついて行った。
ビル一階の空き店舗。店先の花が、元の色もわからないほどに、茶色さをこびりつかせている。そうっと扉を開けた。気付かれたら、集荷先を間違えたことにでもすればいい。
三人はカウンターの椅子に座り、中川は両手を前に組み、立っていた。
「レンジ、火」
「はい」
中川は、いそいそとタバコに火をあてがい、灰皿を差し出している。やればできるんだな、感心するほどに行儀がいい。男たちは、町にはもう先がないだとか、組には活気がないだとか、愚痴を言いまくっている。中川はなにをしているのかといえば、ただそこに立っているだけだ。失望と書かれた服を身に着けた、商店街の店先に並ぶマネキンのようだった。
男たちが、なにかを分け合い、口に含み、水で流し込んでいる。
「レンジ、お前も飲め」
「俺は……いいです」とマネキンがようやく動き、手を振った。男たちは、口々に言葉を押し付ける。
「共有だろ?」
「これはそのへんのとは違うんだ。脳にはこないってんだから、すげーよな」
脳にはこない? 西脇さんの言っていたカプセルか?
「ほら。ここでやっていくって決めたんだろ。お前がこの町を建て直せよ。そのための力なんだよ、これは」
ためらいながらも、中川は手のひらを出した。
店先でポーズを決めるマネキンたちは、その手のひらになにを期待しているのだろう。失望という服を買ってもらうことか? 動き出すための一歩を誰かに掴まれることか?
俺は。俺はなにを期待する、中川の手のひらに。
俺は……
……中川の腕を掴んでいた。同時に、カプセルが墜落した。スローモーションのようにゆっくりと転がっていく真っ白なカプセル。中川を見つめた。中川は驚いて俺を見ていた。
「哉多」
別人のように怯える中川の目は、俺にいとも簡単に捉えさせた。
「それがお前のしたいことか?」
俺の言葉に、中川は答えず、目を逸らした。
「それが本当にお前のしたいことなのか?」
なに熱くなってんだ、俺。本当にしたいことなんて俺にもないじゃねえか。ただ母親から離れたいだけで、適当に選んだ仕事を毎日淡々と繰り返してるだけだ。嫌いだから。母親が嫌いだったから。
“嫌いじゃないんだ”
そう言い切った中川を汚してはいけない気がした。
「運送屋のにいちゃんがなんの用だ」
デカい男が立ちはだかる。俺も身長はあるほうだが、さらにデカく、体の厚みもある。腹部に衝撃が走る。俺は、積み重なったテーブルをなぎ倒してふっとんでいた。
いつだか、こうして朽ち果てていくことを考えていたときがある。俺は差し出した手のひらに絶望をのせていた。誰かが俺を切り刻めばいいのに。そうすれば俺は、再生できない。誰の血でさえも、俺は再生できないはずだから。あれは、産まれてきて十二年といつのころだっただろうか。
痛みが俺を襲う。現実の味に希望を見出す。
「レンジのやつ、逃げやがったぞ」
笑い声が聞こえる。
「賢明だろ?」顔が麻痺しているのか、うまく話せないが、毒づくことはできる。
「あ?」
視界の端にカプセルが見えた。それは床の埃の一部となり、今ではただの塵にすぎない塊だ。
「お前らほどクズじゃないからな、中川は」
俺は立ち上がる。男の靴の下で、カプセルが割れた。
「なんだ、こいつ、やられたりないのか」
どうやら目も麻痺しているらしい。男の手に見えるナイフは、西脇さんの視線ほど怖くは感じなかった。