6mg 斑
配達担当先のひとつ、夜ル町は、音楽に溢れていた。
黒と灰に統一された景観は、入り口に建つ緋色の門をより際立たせている。夕方になると、赤枠の行灯が淡い光を宿し、和と洋が混在した町並みは、画像で切り取られれば静粛で明媚であるが、実際には、各店舗からロックミュージックが流れ、タトゥーショップやボディピアス専門店も多いことから、タトゥーだらけ、ボディピアス尽くめの若者が徘徊し、トラブルが絶えないほどの喧騒に包まれている。海外からの観光客も多い。国外問わず有名なミュージシャンに会えることもある。
ロックファッション店のオーナー、西脇さんとは気が合い、時々飲みに行くような仲だ。会社に入社したばかりのころ、その店で中川と出会った。中川は、店員なのか常連なのか、あるいは商品なのか、と紛らわしく常備薬のようにいつもいて、顔は知っていた。「もっとも常備薬のように不図に役に立つとは限らない」と、西脇さんはニヤリと笑った。そして中川の襟首を掴み、
「こいつ哉多の会社に就職できない?」
と聞いてきた。白色に近い髪、口元と眉にピアス、腕にはタトゥーが入っていて、とても就職できるような風貌ではない。耳を塞ぐヘッドホンには擦り傷がある。愛用しているものなんだろう。
「こいつ高校卒業したばかりなんだけどさ、仕事もせずふらふらしてるの。そしてこの完成度。酷くねえ? 神矢組に入るとか希望を抱いてる」
西脇さんは提唱する。
「就労の喜びを教えて授けよう。こいつ根っコはいいんだ。茎から腐ってるけどな」
俺は伝票を仕分けながら、
「じゃあ根本で切ればいいわけだ」
と、答える。
「はい」西脇さんは、中川を差し出した。
俺は受け取ることもできずに戸惑った。俺が受け取りたいのは受領サインであって、こんな得体のしれない男ではない。
「こいつ、哉多と似てる」
俺は中川を見た。中川は目を逸らす。
「違うか?」
俺は西脇さんを見た。切れ長の目が、俺の根元を探る。
「かなり生意気だけれどな」
そう言ってヘッドホンを取り上げた。中川は舌打ちして西脇さんを睨んだ。
「こいつの母親、昼働いて夜はホステスしてんの。たいしたもんじゃねーか。それですんすんしてんの。かわいいだろ。結局レンジは母ちゃんが恋しいんだよ」
「ちげーよ。もお。返してよ」
中川はレンジと呼ばれていた。コンビニの飯で育ったからという。
「じゃあ、母親に迷惑かけないで生きてみろよ」
「わかりました」俺は返事をしていた。「うちは常に人手不足なんで。ではここに受領印を」
配達の仕事は、体力と時間との勝負だ。収入の良さだけを求めて就職しても続かない。常時従業員を募集しているような会社だ。お試しで経験したとしても、誰もなにも思わないだろう。
会社に現れた面接仕様の中川は、黒髪に短髪で、名前を言われるまで気付かないほどに別人だった。中川とわかったあとでも、本当にあの中川なのかと混乱した。外したピアスの跡に、夜ル町の喧騒を覚え、安心感すら見出す。
「よくきたな」
「約束だったから」
「西脇さんには逆らわないのか」
「喧嘩強いし。絶対に敵わないのわかっちゃってるから」
屈託のない顔で笑った。根っこは本当にいいやつなんだと思う。敬語をろくに使えないという問題点はあったが、愛嬌があり、人を笑顔にする能力に長けていた。
人当たりのきつい上司でさえも、中川には甘かった。常備薬がなくなった西脇さんは、どこか寂しそうにも思えた。
中川は仕事を覚えるのが早かった。それだけ素直で器用なのだろう。俺の評価が最大になったころ、中川はこなくなった。配達先で厳しいところに当たり、喧嘩になったという。二ヶ月は持っただろうか。
うちの会社は、こなくなったやつに構っているほど暇ではなく、問い詰めることなどしない。それより、ドライバーが不在になった荷物達を、他のコースのドライバーたちで振り分け、的確に届けなくてはならない。最悪の場合、休暇中の従業員の誰かが出勤して配達することになる。そんなことは日常的に発生する。それだけ給料はよかった。
いつもなら、気にも留めないのだが、西脇さんから引き取ったため、多少の責任を感じて、仕事の帰り、中川の家に向かった。
やけに軋む階段を登る。建物はそうとう古そうだ。どこも部屋番号のシールが剥がれ欠けているが、どの玄関ポストにも、番号と名前が記された手書き表札が掲げてあり、配達する者としては助かる。中には達筆過ぎて解読し難い文字もあり、確認するのに悩みそうだ。
206 中川 直、真治
見事な丸文字に誘導されて、インターホンを押す。ふたりの名前のあいだには、赤いハートマークが描かれている。
「はぁーい。ちょっと待ってねー」
バタバタと慌ただしく顔を出したこの人が母親なのだろうか。新婚だと言われれば納得するほどに若い。
「真治の会社の人? 今、買い物行ってる。すぐ帰ってくるから上がってよ」
あとをついて、狭いキッチンの脇を通る。現実感のないシンクとコンロ台が艶を消失してそこにあり、冷蔵庫とその上に陣取る電子レンジが、いやに現実味を押し付けてきた。使用回数分だけこびりついた汚れが客人を迎える。
「あたし、これから仕事なの。用意しなくちゃだから、適当にしてて」
中川の母親は、化粧台の前に座り、巻き髪を束ねる。
「真治がまともな仕事続くと思ってなかったわよ」
「一生懸命やってましたよ。夜の仕事を辞めさせたいって」
中川の母親は、あっけらかんと笑った。
「まさか。あたし、この仕事好きなのよ。辞めるなら昼のパートを辞めるわよ。でも、無事高校を卒業できたし、少しは肩の荷が降りたかな」
「あの……」
やめておけばいいのに、俺はよけいな質問を投げかけていた。
「高校を卒業するって、親にとってそんなに大事なことですか?」
「そりゃそうよ。高校ぐらい卒業しておかないと就職もまともにできないでしょ。真治に突出した才能があるわけでもないしさ。男には守るべきもんができるの。あたしは捨てられちゃったんだけどね。あはは」
底抜けに明るい人だ。水商売に向いているのも納得してしまう。
俺は、髪を器用にまとめる指先の長い爪を見つめた。化粧台の前にずらりと並ぶ化粧品を見つめた。ハンガーラックに押し込まれた派手な衣装を見つめた。乱雑に積み上げられたブランドのバッグを見つめた。
女を見つめた。
俺は初め、この女に自分の母親を重ねていた。会う前からだ。中川がレンジと呼ばれていることを知ったときからだ。が、違う、俺の母親は、もっとちゃんとしていた、普段は地味だけど、身なりをきちんとしていたし、掃除も欠かさず、飯は必ず手料理だった。……いや、待て。俺はなぜアイツを擁護しているんだ? ばかげている。
ドアが開く音がして、中川が顔を覗かせた。
「なんだ、哉多かよ。飯、飯」
がさごそとビニール袋の音が聞こえ、レンジの電子音が響く。
「さて、仕上げ仕上げ。今日はどれにしよっかなあ」
長い爪先が、香水を選んでいる。紫色の液体を手首に振りかける頃、電子レンジのブザーが鳴った。手首を首筋に宛てがう頃には、中川が弁当を持って部屋に入ってきた。
異質だ。
弁当の匂いと香水の匂いが入り混じっている。中川の母親が出かけたあとも、部屋の中の異質な生温い匂いは、しばらくのあいだ浮遊していた。
「直と、なにか話したの?」
「まあな。お前が信じられていないってのがよくわかった」
「名前は真治なのにな」
紫色の液体が染みた、付け合わせの惣菜を食らう中川に、疑問を投げかける。
「お前、どれくらい母親の料理食ってないんだ?」
「ねえよ」
「え?」
「一度も食ったことねえよ」
「父親は?」
「俺が腹にいるとき、女作って借金作って、蒸発だって。家出同然で駆け落ちした上に、勘当されたから実家にも頼れなかったって。だからホステスやってるとかなんとか」
「自立しようとは思わないのか?」
「嫌いじゃないんだ。仲はいいし」
「信じらんねえ」
まったくもって、俺には信じられない。どこが俺と似ているっていうんだよ。
「で、なにしにきたの? 会社に戻れと?」
俺の存在理由を問いた中川の言葉に、自分がここにいる意味を思い出した。
「西脇さんからお前を受領した手前、少し気になっただけだ」
「ふーん。信頼してんだね」
「お前こそだろ」
「あの人、ちゃらちゃらしているように見えるけど、芯はしっかりしてるよな。やりたいことにちゃんと向かってる。なんであんなに頑張れるのかな」
「ラインが見えるって言ってたな」
「ライン?」
「遠回りでも誰になにを言われようと、そこに到達できるラインが見えるって言ってた。なんかないのか? おまえの目標……いや、いいや」
「なんだよ」
飯を食べ終えた中川は、ボトルのコーヒーをごくごくと飲む。
「俺にもないんだ、目標なんか」俺は立ち上がる。「思うようにするといい。そこに責任を伴えるのなら」
俺と中川が似ている……か。あながち間違いではないのかもしれない。キッチン前を通ると、電子レンジの扉が開いていた。茶色いカスがこびりついている。汚れた箱の中に見覚えがあった。汚れきった自分の内側だった。