5mg 零
「ツインじゃなくてもよかったのに」
ベッドに座り、新しく買った帽子を脱いで、ため息をついたミルクは、細い指先で布団の表面を愛でた。
「また痴漢されてもな」
俺は苦笑いし、もうひとつのベッドにミルクと向き合う形で座った。
「……どうして痴漢なんてしていたんだ?」
「信じないだろうけれど、哉多が初めてよ。普通の男って、どんなものなのかなあって」
「普通ではなかったな」
「そうね」
ミルクが笑う。
俺は上着を脱いでポケットに手を突っ込む。同時に初期設定の着信音が鳴り、タバコを掴み損ねた不機嫌な指先で携帯電話を取った。
「あ、哉多?」
中川のご機嫌な一声が届く。
「おう」
「隣の部屋が大変なことになっている」
「……だろうね」
「だろうねじゃねえよ。部屋荒らされてるよ。会社も大騒ぎだし。俺は自転車を盗まれたし。といってもなぜだか、寮の前にあったし」
……虫か。
「虫?」
中川が俺のつぶやきを拾う。
「いや。悪かったな、さっきは」
「コーヒーで勘弁してやるよ。で、一緒なのか?」
「ああ」
「どうするんだよ、これから」
「無計画」
「そんな女かばってどうすんだよ」
「……だよな」
そんな、女だよな。
「だいたいお前、そういうの軽蔑してる側だったじゃねえか」
「中川だけには言いたくなかったけれど」俺は前置きをしてから言った。
「俺の母親、橘早妃なんだよ」
ミルクの視線を感じる。
「えっ、あの伝説の!?」
「伝説……ね」
『似てない』
中川とミルクの同時発声音が、ステレオする。
「作りもんだからな、あの女。顔も体も」
「まじかよ。知りたくなかったな、それ。あ、朝野ミルクは別な意味で作りもんらしいぜ。AV女優になるためだけに生産されたサイボーグ、ってパッケージに書いてある」
「なにを見ているんだよ」
中川の部屋の、テレビの前に堂々と積み上げられたコレクションを想像する。その中に橘早妃の文字を見つけたときは、本気で叩き割ってやろうかと思ったものだ。
「まあ、ともかく。哉多、会社に辞めるって連絡したんだって? 本気なの?」
「描いていた理想……なんてないけど、ただ時期が早まっただけだ。本意な辞め方ではなかったけどな」
「そうか。思うようにするといい。そこに責任を伴えるのなら……昔、俺が哉多に教わったことだ。俺は哉多に借りがあるからな」
「コーヒーでいいぞ」
電話を終えると、中川のコレクションの一部でもあるらしい朝野ミルクは、タバコをくゆらせていた。
「それで、哉多は萎えちゃったのか」
まあな、と携帯をベッドの上へ放り、あらためて上着のポケットに手を忍ばせる。
「ミルクはどうして女優になったんだ?」
「私? 私は、産まれたときから。……違うわね」ふぅーっと吐き出した煙が思案している。「産まれる前からよ。産まれるずっと前から、朝野ミルクだった」
「どういうこと?」
「容姿の綺麗な人を選んで、何億というお金を積んでつくられたのが私」
「なんのために?」
「社長が最高の作品を作るために」
「それだけのために?」
「そう」
俺はタバコを吸いながら、黙ってミルクの話を聞いた。
「十八歳の誕生日に、パーティーをするからって、スタジオに呼ばれたの。そこには小さい頃から知っているスタッフたちがいた。カメラが回って、撮影することを聞かされた。そして、押さえつけられた。相手は社長。私を育てた父親でもあるわ。撮影が終わって、実際の父親ではないってことを教えられた。お父さんって泣き叫ぶ声が欲しかったって」
俺は言葉が出なかった。タバコという小道具が、いつもより早く短くなっていく。
「ねえ、哉多。橘早妃っていう女優さんは、本当にすごい人なのよ。あの人みたいな女優さんにはなれない。意識が違いすぎる」
「アイツみたいになる必要はないだろ」
「そうよね」
メンソールの煙が無計画に影を消失させていく。
「外の世界を知りたかった。ずっと渇く暇もなく仕事をさせられて、私の楽しみは、どれだけ稼いだのか計算することだった。自分の稼ぎのことじゃなくて、社長の儲けをね。社長に元を返せる金額を確認したら、飛び出していた。もう恩は返したもの」
「それは恩とはいわないんじゃないのか」
「私はサイボーグとして生産されたけれど、こうして生まれてきたから。自分を生きてみたいんだ。朝野ミルクではなくて、朝霧美陸として」
「社長にそういった話をしても、理解はしてくれないのか?」
「逆らうとお仕置きされるの。カメラの前で。なんでもお金なのよね。そのためのサイボーグなんだろうけれど」
「なあ。昨日って、なんであいつらに見つかったの?」
「わからない」
「位置情報で居場所を知られたとか──」
ミルクは首を振った。
「私、携帯とかスマホとかいまどきのもの持ってないのよね。どこへ行くにも護衛がいるから必要ないって、持たせてもらえなかった。だから、向こうから連絡を取りようがないし」
ミルクは少し考えて、言った。
「ネットかもしれない」
「ネット?」
「病院で話しかけられたの。哉多を待ってるとき。私と話しながら、スマホをずーっといじってた」
俺はホテル装備のパソコンの前に座る。嫌な緊張感が指先を襲う。こんなに緊張して女優の名前を打つのは俺だけなんだろうな。しかも二回目の。
朝野ミルクが病院の喫煙コーナーでタバコ吸ってるwwwww
男と逃亡か!?
見つけたらヤレるんじゃね?
駅前で騒いでるの見た! あれ絶対朝野ミルクだね! 逃げてるっぽいw
絶対撮影じゃない模様
見つけたら賞金出るかな?
早く見つけようぜ
ミルミル狩り開始w
「もういいわ」
ミルクは呆れた顔をした。
とにかく、このホテルに滞在し様子を見ることにした。今までの規則正しい生活をくつがえし、だらけるのは容易なことだった。垂れ流しのニュース番組に相槌を打ったり、どうでもいい話をしたり、ミルクの買い出しをさせられたり、ミルクとの逃避時間を楽しんでいる自分がいる。母親から逃げ、ずっと仕事をしてきて、外の世界を知りたかったのは、意外と俺のほうなのかもしれなかった。
会社には事情を説明できずに、辞めるということだけを電話で伝えていた。上司は俺を問い詰めようとはしなかった。「一週間待つ。有給扱いにするから帰ってこい」と言われたが、俺はかたくなに辞めると言い張った。私物をなんとかすると約束して。
期限の一週間はとっくに過ぎた。俺のクビは決定だろう。電話が鳴る。会社か? 携帯の待ち受け画面に、見覚えのある電話番号が表示される。
「哉多?」
何年振りかに聞いた、かすれがかった声。
「なんだよ」
「アンタの部屋の荷物、お隣のすけべなお兄さんと片付けたわ。会社のトラックで家に運ぶようになってるから。あなたたち、途中で拾ってもらって届けてもらうように」
「え、なにを言っているの」
「この歳で、いい年した息子の部屋の掃除と、勤め先に頭下げるだなんて。第二次反抗期って感じ」
「……すまない」
十二年と四か月め以降、口にすることはなかった言葉が出てきた。
「性的要素のひとつもない面白みのない部屋だったけれど」
「それは関係ないだろ。だけど、どうして? ずいぶん手回しがよくないか?」
「ちょっとー。私を誰だと思っているの」
「伝説のばばあだろ」と毒づいたところではっとした。「まさかミルクの父親から」
「冴えてるねー、君。哉多を調べたら、伝説のオンナである私と繋がったってわけ」
すまない。二度目は言葉にしなかったが、伝説の熟女には訂正してやる。