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自分の母親が、AV女優の『橘早妃』だと理解したのは、十二歳と四ヵ月の終わりだった。二時限目と三時限目のあいだの休み時間の始まりに、少し落ちこぼれた連中のひとりが得意気に、俺の母親が何者であるかを力説した。どおりで朝から、ウスノロなにやけ顔を俺にちらつかせていたわけだ。
「嘘だと思うなら、ネットで調べてみろよ。お前の母ちゃん、裸ですっげえ恰好してるぜ」
ウスノロの声変わり途中の可愛い声が教室中に響く。
「なに言ってるの、ばかじゃないの」
まとめ役の女子が、ディストーションめいた声で反論する。
共鳴が、うるさい。
いつものふざけモードだと、クラス全員が笑い飛ばす。きっと、俺もそう。
家に帰ってから、机の上のパソコンを開いたまま戸惑っていた。調べるのもばかばかしいことだ。だけど。本当だったら? 絶対に俺は騙されてる。明日学校に行けば、「引っかかったのか、ばかだなお前」って笑われるに決まっている。そして俺も笑えばいいだけの話だ。
母親は、俺が小さいときからずっと飲食業の仕事をしてきた。
──だけど、どこの店なのかは知らない。
俺が生まれる前に離婚して、ひとりで俺を育てた。
──そのわりには、このあたりでは立派な持ち家だ。母親がこだわったという、ヨーロピアン調の塀に囲まれている。
少し割りがいい仕事をしているだけなんだ。自分に言い聞かせていると、本棚にずらりと並んだゲームソフトと目が合った。欲しいものはなんでも買ってもらえた。
橘早妃という他人の名前を打つ。エンターを押す音と、俺の喉元とが共鳴した。
構築されたのは猥褻な世界だった。心臓がなにかに掴まれたみたいに痛くなる。
俺の瞳に猥褻な世界がぎらぎらと反射しているのだろう。そこに映るのは橘早妃という人物なのだろう。裸で足を組み、髪をかき上げ、媚びるような目で微笑むその人物は、紛れもなく母親であった。
窒息スル―――。
俺は胸のあたりに手をあてた。部屋中がぐにゃりと歪み、俺を笑っている。クラスの男たちの顔が浮かぶ。俺を笑う顔。いやらしくイヤラシクいやらしく笑う顔。いやらしい、橘早妃。俺の心臓を掴むものは、母親が買ってくれた最新型のテレビだったりゲーム機だったりソフトだったりオーディオたちだった。それらを振り払いパソコンからコードを引き抜き、部屋に散りばった猥褻な色を消滅させる。ようやく呼吸を取り戻せた俺は、閉じたディスプレイにも映る、橘早妃の残像を睨んだ。「俺には、母親なんかいない」という世界を構築する。
「じゃあ、行ってくるわね。帰りは少し遅くなるわ。ご飯はテーブルの上にあるから温めて食べてね。あと好きなもの買っていいわよ」
橘早妃は撮影の日があると、決まって夕食の器の下に一万円札を挟む。
そんな単純な操られ方も十二歳と四ヵ月までだ。
一万円札柄のランチョンマットに置かれた、冷えた飯を腹に押し込む。日課のようにやっていたゲームは、起動することがなくなった。片隅に溜まった新品のゲームソフトは、猥褻物な橘早妃の、排泄物だ。腹の底にある夕飯の固形物もそう。俺は椅子に座り、胃液でそれが溶けるのをただ待っている。そうやって橘早妃が作り出したものなんて糞尿になればいいと思う。トイレのレバーを押せばさよならだ。アイツが作り出した以上、俺自身が汚物なのかもしれないが、俺はアイツとは違う生き物だ。
若くして俺を産んだ母親は、いつも身なりをきちんとしていて、本当に綺麗だった。とにかく目立ち、よく声をかけられていた。いきつけのスーパーの店員も、近所のおやじも、担任も、ほかの生徒の父親も……そうか、みんな、イヤラシイ目で見ていたのか。
学校で「橘くん」と呼ばれるようになった。男子には羨ましがれ、いじめられることはなかった。女子は俺に距離を置いているようだったが、表面は以前と変わらないように思えた。表面上は。
俺は、誰にも見えない膜で自分を包んだ。
家に帰ると、母親とは必要以上の言葉を交わさなかった。家の中のすべてのものが汚らしく感じた。ぴかぴかに磨いた床も、丁寧に洗った食器も、ふかふかのタオルも、すべてが汚らしい。俺は膜に包まり、汚らしいものを拒絶した。
急に変わった俺のことを、母親は、反抗期というメモリにチューニングした。
中学の三年間、周波数を狂わさず、反抗期という括りであり続けた。卒業したら高校へは行かず、地元を出て働くつもりだった。
だけど橘さんは、
「誰のために、なんのために頑張ってきたと思ってるの?」
と俺の肩を掴んだ。
俺は、触るな、と手を払いのけ、
「俺のためにあんな仕事をしているのか?」
と、初めて仕事のことを口にした。
「知ってたの?」
「隠し通せると思ってたのかよ。そうか、それで旦那に捨てられたのか」
「当たり。馬鹿みたいに純粋な人でさ、騙して結婚しちゃった。だけど結局ばれて、哉多がお腹にいるのにもかかわらず出て行かれちゃった」
図太い汚物は、他人事のように語る。
「とにかく高校は行ってよ。そうしたら好きにしていいから」
「受かったら、引退しろ」
間髪入れず出した条件を、橘早妃は、あっさりと承諾した。
「わかったわ」
引退したとしても、一生、映像は残る。俺は一生、橘早妃の子供なんだ。