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幾許  作者: _
腐 音
3/15

3mg 膜

 仕事中、日常の一部だった場所の前で立ちすくんでいた。看板は出していないが、眼鏡を扱う工房だ。工房といっても、見た目は普通の住宅と変わりない。こじんまりとした木造の古めかしい一軒家の入り口には、たくさんの花が列を乱すことなく植えられている。

 疑問形で名前を呼ばれ、振り向くと、昨夜病院ですれ違った女性が立っていた。

「兄が大変お世話になりました」

 丁寧な挨拶には品が漂っている。口角の上がった口元が、小田さんとよく似ていた。

「小田さんの様態はどうですか」 

 病院で見た“もや”が脳裏をよぎる。確実な残像が俺を触る。

「あれからすぐに……」

「そうですか」

「いつも兄を慕ってくれたそうですね。とても喜んでましたのよ。仕事を辞めたあとも、配達のお兄さんが毎日のように来てくれるって。滅多に連絡をくれる人ではありませんでしたけれど」

「ご自分で会社を経営なさってるとお聞きました。それで迷惑をかけたくなかったのだと思いますよ」

「小さいころから、そうなんです。兄は本当に芯の強い人でした」

 彼女の握りしめていた携帯電話の着信音が鳴る。ごめんなさい、と電話をあてがった。仕事の話のようだ。要件が終わると、もう一度ごめんなさい、と口にした。

「私、葬儀が終わり次第、一度帰らなくてはならなくて。ここにあるものは処分しますので、もし欲しいものがあればお譲りします。しばらく兄の家はこのままなので、いつでもお立ち寄りください」

 鍵を差し出されるが、そういうわけには、と断る。

「今までのように一緒にコーヒーを飲んでやっていただけませんか? 気が向いたらで構いません。きっと兄も喜びます」


 ちりん……


 鍵に結ばれた小さな鈴が、俺の手のひらで鳴く。鳴き声の波動が広がり、花たちが揺れる。小田さんが水をやる姿が重なる。持ち主のいなくなった花は、すぐに枯れてゆくのだろう。

 ここには、入社したときから配達にきていた。一年前、コーヒーを飲みながら、小田さんは「癌になっちまったよ」と、打ち明けた。釧路の妹には迷惑をかけたくないと言い、最後までここで生きることを決意していた。職人気質で、無口なほうだったが、病気になってからは、過去のことや自分のことを話すようになった。まるで、思い出を俺に託すかのように。





 会社で伝票の整理をしていると、私服の中川が話しかけてきた。同じ寮の隣部屋に住んでいる。暇を持て余し、休みでもよく会社に顔を出す。

「ちょっと気になることがあって」

「気になること?」

 俺は中川の話を黙って聞いていた。中川の話はいつも大抵が大袈裟だ。そして大抵くだらない。

「それは確かな話なの?」と、同じ返事をする俺に、中川はネットで拾った「証拠」の写真を提示する。証拠物を見たあとの俺の感想も決まっている。

「へえ、おもしろいね」

 そう言うと、中川の大抵大袈裟で大抵くだらない話が膨張して、最低な馬鹿話になる。中川といるときは気楽でいい。これもいつもと変わらない日常の一幕だ。

 中川の提示した携帯画面を見ながら、今回ばかりは「おもしろいね」とは言えなかった。

 そのとき、事務所から騒がしい声が聞こえてきた。

「なにごと?」

 と、中川が振り向く。

「さあ」俺は首をかしげ、事務所を覗く。

 そこにいたのは、昨日、ミルクを追いかけていたやつだった。錆びついたような金髪、和柄のシャツをだらしなく着て、見るからにガラの悪さを主張している。もうひとりのひょろひょろした男はいない。

「ここの制服を着ていたのは間違いないんだ。背が高くて、髪がこう流してあって」

 男は身振り手振りで特徴を並べ立てている。

「中川、悪いけどあと頼む」

「え、哉多?」

 俺は自転車に飛び乗り、黒塗りの威圧感のある車のそばを通り抜け会社を出た。

 


 会社の上着で出歩くのも問題だな。いや、待て。なぜ俺は逃げているんだ? 家にミルクがいたとしてどうするっていうんだ。一晩泊めただけです、しかたなしに。と言えばいいだけじゃないのか。俺は(はな)から関係ない。自分の無性欲を褒め称えたいくらいに。話の通じる相手の場合にだが。……そうは見えないよな。打ち消して、ぺダルを漕いだ。

 家に着くと、ミルクがいた。

「どうしたの、そんなに急いで」

「まだいたのかよ」 

「ちゃんとお礼を言ってから出ようと思って待ってたの」 

「そんなことはいい、それより早く逃げろ。昨日のやつらが会社にきた」

 驚くミルクに、

「これだろ」

 と、上着の袖に刺繍された会社のマークを指差した。一目見ただけで誰でもわかるような名の知れた会社だ。

 ミルクは首を振り言った。

「……もう、巻きこめない。今逃げたとしても、哉多に迷惑をかけてしまう」

「もう充分かけられてるよ」

「哉多は悪くない。ちゃんと話する」

 その目は俺を通り越していた。振り向くと、二匹の虫が湧いていた。俺は、とっさにミルクを後ろにかばっていた。

「車の中で張っててよかったぜ。お前が慌てて出ていくから」

 若いひょろひょろが、鼻息荒く説明する。まさか、走って追いかけてきたのか?

 虫たちがブンブンと羽を震わせ、俺を威嚇する。 

「やめて、私が無理に押し掛けたの。この人は関係ない」

「ミルクさん、いい加減にしてくださいよ。社長に怒られるの俺らなんすよ」

「わかってる。待ってて、バッグを持ってくるから」

 二匹は以外にも素直に「 ブン(はい)」と答えた。

 部屋に戻ったミルクは、テーブルに並んだ化粧品をポーチにしまう。

「自由になりたくて飛び出したんじゃねえのかよ」

 俺は、なにを言っているのだろう。

「私に興味のない男と過ごすのは楽しかったわ」

 俺は、なにを考えているのだろう。他人の内側に入ることは、自分の被膜をも溶かすことじゃなかったのか? 首輪の着いた犬は帰るところがある。たった一晩迷い込んだだけじゃないか。ミルクの首に着けられた鎖が見える。俺の前を通り過ぎ、鎖が横切っていく。

 俺は手を伸ばし、鎖を掴んでいた。ミルクが振り向く。俺の被膜に亀裂が生じる音がした。

 パンプスをミルクに押しつけ、自分のシューズを持ち、ミルクの腕を引きベランダに向かう。ここは二階だがすぐ下にある駐輪場の屋根に飛び移れば大丈夫だろう。

「行こう」



 俺たちは、花壇の上に吸収された。根元から折れた花に問う。俺は、なにをやっているんだろうな。

 ミルクの手を引いて走る。繋いだ手から、俺の被膜がどんどんめくれていく。

「待って」

 ミルクが立ち止まり、手を振りほどこうとしたが、俺はさせなかった。

「こんなことして黙っているような人たちじゃない。それに私は、こんなふうにされるような人間じゃない」

 振り向くと、ミルクの背中越しに俺の抜け殻が見えた。  

「今度は俺が犯罪者だな。なあ、朝野ミルク」

 ミルクは俺を見る。あの冷めた瞳だ。中川の携帯で見た『朝野ミルク』と同じ。カメラのシャッターを切るスピードの一秒にだって供わない心が、ずっとずっと遠くに置き去りにされている。ミルクは、誰かの背中越しに、それを見つめることはあるのだろうか。

「今日、隣のやつに会わなかったか?」

「お昼、買い物に行こうとしたら、ちょうど……一応挨拶したの」

「あのマンション、会社の寮なんだ。そのスケベ野郎が教えてくれた。俺の部屋からAV女優が出てきたって」

 ミルクはわずかに顔を傾けて微笑んだ。

「軽蔑した?」

「そうだね」

 俺は繋いでいる手に力を込めた。

「アンタは、俺の母親と同じ匂いがする」

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