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幾許  作者: _
腐 音
2/15

2mg 冷

 女はミルクと名乗った。 

 得体のしれない液体を押し付けられた気分だ。病院近くの適当に入った中華屋のラーメンは、あまり美味いとはいえず、俺は麺を食べ終えたところで箸を置いた。すでに汁を飲み干し、タバコを吸っているミルクに疑問を投げかける。 

「いつもやってるのか、あんなこと」

 俺は水を一気に飲み、温めいた食道を冷やしたあと、買ったばかりのタバコの封を開ける。やっと落ち着ける気がした。ミルクの返事はない。

「まあ、いいけど。飯は付き合ったし、俺はもう帰るからな」

 ミルクは、タバコの先端を灰皿に押し付けて、「興味がないって言われたの、初めてだわ」そう言って立ち上がると、バッグから長財布を出して、テーブルの隅に千円札を二枚置き、「ごちそうさま」と微笑み、店を出て行った。

 俺の吐いた煙に押し出され、メンソールの匂いが消えていく。

 ベタベタした嫌な感触がする。

 ラー油を元の位置に戻し、おしぼりで手を拭いた。のんびりと会計を済ませ外へ出た。

 まだ雨が降っていた。ミルクが傘を持っていないことに気付くが、あの女のことだ、入る傘などいくらでも見つけられるだろう。

 駅に引き返してきたが、また電車に乗る気にはなれず、タクシーを拾った。扉が開き、傘をたたむ。雨粒のひとつに憔悴顔の男が映る。乗り込もうとしたそのとき、背後の異常な騒がしさに振り向いた。

 逃げる女。ふたりの男に追いかけられている。女の帽子が飛んだ。



 ふわり…



    ふわり…



 羽のように花びらのように綿毛のように帽子が舞う。女の髪がはらはらとさざ波、ひときわ目立つ美しさは、妖精のようにも見えた。俺は、映画の撮影現場にでも遭遇した気分で、羽のような花びらのような綿毛のような帽子が、人波に沈むのを観た。

 構内に配置されたエキストラたちは、誰もが妖精に魅了されている。通行人Aは歩くのをやめ、通行人Bは振り向き、駅員役は窓口から身を乗り出す。追いかける男たちは、大勢の人混みで思うように進めないでいる。華麗に駅を走り抜けたミルクは──俺の手を掴み、タクシーに乗り込んだ。

「行って! 早く!」

 ミルクの非常声に戸惑いながらも、タクシーは走り出した。エキストラたちは唖然とした演技をこなしていることだろう。

「なにがどうなっているんだよ」

 どういたしましょうか、運転手が焦り気味に問いかける。バックミラーの中で泳ぐ目に、俺は自宅の住所を告げた。




 子犬のようなミルクをお風呂に入れて、温まったところで、床上に牛乳でも置きたい気分だったが。

「あいにく切らしている」

 俺の部屋着に身を包み、髪を乾かしているミルクは、

「あいにく嫌いだから」

と、答えた。

「嫌いなのに、ミルクかよ」

「あだ名なのよ、子供のころからの。本名は美しいって字に大陸の陸で、みり」

 ドライヤーが止まり、鏡越しに目が合う。

「ねえ、哉多(かなた)

 すでに聞かれていた名前を、すでに呼び捨てられている。

「なに?」

「私……ベッドがいい」

 鏡の中のミルクの目はちっとも泳がない。

「どうぞ」

「哉多は?」

 ここで、と、床を指差した。ミルクは遠慮する言葉を並べるでもなく、ベッドに潜る。

「明日には出て行くから」

 おぼろげな声が聞こえた。

 俺は特に何も問いたださなかった。他人の内側まで入り込むことは、俺を覆う被膜まで溶けかねない。寝る場所を失って、ベッドにもたれた。今まで、女と付き合ったことはあるが、抱くことはできなかった。「本当に私のことが好きなの?」というマニュアル的な言葉の端に、いつも無抑制の人間の本能を探してしまう。

 ミルクの言葉を咀嚼する。


“性欲満たして何が悪いの?”


 揺らぐことのない、冷めた瞳の真意は別にあるような気がしてならなかった。ミルクは子犬のように眠っている。安心して眠れる寝床を探していたのだろうか。




 夢を見た

 白い夢


 ミルクがいる

 音を見た


 ミルクの手のひらで

 なにかが舞っている

 羽? 

 花びら? 

 綿?


 音は奏でる

 白い音

 俺はやたら体がふわふわして

 自分の体を探す 

 体を……体が……




 体が痛い。

 床を押して起き上がると、体のあちこちが軋んだ。

 そうだった。変な女に痴漢されて拉致られて、おまけにベッドを占拠されたのだった。犯人はまだのうのうと寝ている。まあいい。俺の日常はまた始まる。会社に行って指差称呼の確認をするころには、頭も体も冴えてくるだろう。部屋の合鍵をテーブルの上に置き、ポストに入れてくれと置き手紙をして部屋を出た。

 雨はあがっていた。自転車に乗り空を見上げる。雲がゆっくりと広がって、青を溶かしていく。だけど雲は水色にはならずに白い雲のままだ。駐輪場脇の花壇を覗く。水滴が葉先を弾き、土へと染みていった。俺もいつか誰かの心に染み入ることが出来るのだろうか。

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