2mg 冷
女はミルクと名乗った。
得体のしれない液体を押し付けられた気分だ。病院近くの適当に入った中華屋のラーメンは、あまり美味いとはいえず、俺は麺を食べ終えたところで箸を置いた。すでに汁を飲み干し、タバコを吸っているミルクに疑問を投げかける。
「いつもやってるのか、あんなこと」
俺は水を一気に飲み、温めいた食道を冷やしたあと、買ったばかりのタバコの封を開ける。やっと落ち着ける気がした。ミルクの返事はない。
「まあ、いいけど。飯は付き合ったし、俺はもう帰るからな」
ミルクは、タバコの先端を灰皿に押し付けて、「興味がないって言われたの、初めてだわ」そう言って立ち上がると、バッグから長財布を出して、テーブルの隅に千円札を二枚置き、「ごちそうさま」と微笑み、店を出て行った。
俺の吐いた煙に押し出され、メンソールの匂いが消えていく。
ベタベタした嫌な感触がする。
ラー油を元の位置に戻し、おしぼりで手を拭いた。のんびりと会計を済ませ外へ出た。
まだ雨が降っていた。ミルクが傘を持っていないことに気付くが、あの女のことだ、入る傘などいくらでも見つけられるだろう。
駅に引き返してきたが、また電車に乗る気にはなれず、タクシーを拾った。扉が開き、傘をたたむ。雨粒のひとつに憔悴顔の男が映る。乗り込もうとしたそのとき、背後の異常な騒がしさに振り向いた。
逃げる女。ふたりの男に追いかけられている。女の帽子が飛んだ。
ふわり…
ふわり…
羽のように花びらのように綿毛のように帽子が舞う。女の髪がはらはらとさざ波、ひときわ目立つ美しさは、妖精のようにも見えた。俺は、映画の撮影現場にでも遭遇した気分で、羽のような花びらのような綿毛のような帽子が、人波に沈むのを観た。
構内に配置されたエキストラたちは、誰もが妖精に魅了されている。通行人Aは歩くのをやめ、通行人Bは振り向き、駅員役は窓口から身を乗り出す。追いかける男たちは、大勢の人混みで思うように進めないでいる。華麗に駅を走り抜けたミルクは──俺の手を掴み、タクシーに乗り込んだ。
「行って! 早く!」
ミルクの非常声に戸惑いながらも、タクシーは走り出した。エキストラたちは唖然とした演技をこなしていることだろう。
「なにがどうなっているんだよ」
どういたしましょうか、運転手が焦り気味に問いかける。バックミラーの中で泳ぐ目に、俺は自宅の住所を告げた。
子犬のようなミルクをお風呂に入れて、温まったところで、床上に牛乳でも置きたい気分だったが。
「あいにく切らしている」
俺の部屋着に身を包み、髪を乾かしているミルクは、
「あいにく嫌いだから」
と、答えた。
「嫌いなのに、ミルクかよ」
「あだ名なのよ、子供のころからの。本名は美しいって字に大陸の陸で、みり」
ドライヤーが止まり、鏡越しに目が合う。
「ねえ、哉多」
すでに聞かれていた名前を、すでに呼び捨てられている。
「なに?」
「私……ベッドがいい」
鏡の中のミルクの目はちっとも泳がない。
「どうぞ」
「哉多は?」
ここで、と、床を指差した。ミルクは遠慮する言葉を並べるでもなく、ベッドに潜る。
「明日には出て行くから」
おぼろげな声が聞こえた。
俺は特に何も問いたださなかった。他人の内側まで入り込むことは、俺を覆う被膜まで溶けかねない。寝る場所を失って、ベッドにもたれた。今まで、女と付き合ったことはあるが、抱くことはできなかった。「本当に私のことが好きなの?」というマニュアル的な言葉の端に、いつも無抑制の人間の本能を探してしまう。
ミルクの言葉を咀嚼する。
“性欲満たして何が悪いの?”
揺らぐことのない、冷めた瞳の真意は別にあるような気がしてならなかった。ミルクは子犬のように眠っている。安心して眠れる寝床を探していたのだろうか。
夢を見た
白い夢
ミルクがいる
音を見た
ミルクの手のひらで
なにかが舞っている
羽?
花びら?
綿?
音は奏でる
白い音
俺はやたら体がふわふわして
自分の体を探す
体を……体が……
体が痛い。
床を押して起き上がると、体のあちこちが軋んだ。
そうだった。変な女に痴漢されて拉致られて、おまけにベッドを占拠されたのだった。犯人はまだのうのうと寝ている。まあいい。俺の日常はまた始まる。会社に行って指差称呼の確認をするころには、頭も体も冴えてくるだろう。部屋の合鍵をテーブルの上に置き、ポストに入れてくれと置き手紙をして部屋を出た。
雨はあがっていた。自転車に乗り空を見上げる。雲がゆっくりと広がって、青を溶かしていく。だけど雲は水色にはならずに白い雲のままだ。駐輪場脇の花壇を覗く。水滴が葉先を弾き、土へと染みていった。俺もいつか誰かの心に染み入ることが出来るのだろうか。