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幾許  作者: _
薄 明
15/15

0mg 

 ここがどこなのか、正確にはわからない。日本からずっと西の位置にある町だと聞いている。罪を背負った人間に終焉の地を選択する意思などなく、身寄りのない自分が生きていける場所などどこでもよかった。

 固定された小さな窓から見える光景は、レンガの建物に遮られて、空の顔色を窺うことはできない。ただ、角の自転車屋のウインドウに飾られているクロスバイクだけが、唯一の青さで俺の心を晴らしていた。その先には踏切があり、線路を超えてレンガの路が続く。路を遮るように、進入禁止の柵が張られている。路はまだ続いている。両脇には赤い花が揺れ、蠱惑的に咲き乱れていた。



 世の中の薬物汚染の事態は悪化しているらしかった。依存せずとも人の体を蝕み、激痛と共に死に至らしめるという。この施設に来る前、隔離された刑務所の中で、どの話が本当でどの話が作り物なのかわからないほど、噂話が錯綜していた。どれもがカプセル状の薬物の話だった。俺が以前見たカプセルのことなのかはわからない。元々は感染症のための薬だったとか、発症すれば空気でも感染するという者もいれば、不老不死の薬で、死刑囚を実験体にして作られているという者もいた。外はゾンビが徘徊しているからここは安全だという現実味のない冗談まで飛び交った。のちに、テレビのニュースでも頻繁に扱われるようになった。日本でも多数の者が薬物に侵されていて、まだ死者は出ていないが、治る見込みはなく確実に死に至ると伝えている。が、やはりどこかフィクションで信じがたい話だった。

 そんな中、受刑者のひとりが作業中に倒れた。皮膚が真っ赤になり、痛みにもがき苦しんだという。咆哮にも似た唸り声は、別室にいてもその苦しみが伝わるほどだった。彼は以前一度だけカプセルを摂取したことがあるが黙っていたという。その後、彼の姿を見ることはなかった。そして全員が検査を受けることを義務付けられた。俺達だけではない。刑務官もだ。

 検査後、俺は血液の研究をしている施設に移った。研究材料としてベッドに縛られる日々だ。俺の血が役に立つのなら、喜んで提供しようと思っている。だが、そう長くはもたないであろうことはわかっていた。“もや”が確実に俺を見下ろしていたからだ。

 


 絵画のような町並みを眺めるのは、残された時間の中での僅かな楽しみにもなっていた。

 踏切の警報機が鳴る。立ち止まる犬。いつも同じ時間に通る盲導犬だ。一緒に歩いているのは英語の先生だと聞いている。犬の名前はスコット。施設のスタッフが教えてくれた。スコットはいつも先生を気遣い、誘導し、誇らしげに歩いて行く。その姿はとても凛としていて、頼もしい。先生と鎖で繋がれていることがとても幸福そうに見える。もう老犬で、もうすぐ引退を控えていると聞いた。尻尾の後方にある“もや”は、どんどん濃くなってきている。



 キーンと警報が鳴っている。いや、耳鳴りなのかもしれない。

  


 あたまがいたい……



 俺はベッドに座り、用意された薬を飲む。最近、薬の量が増えた。少しずつ細胞が壊れているような感覚だ。大事なこともあったような気がするのに。それすら覚えてはいない。




 夢を見た。白い夢だ。




 目を覚ますと、面会だと言われた。 

「めんかい」

 中川という人物だと教えられた。

「なかがわ」

 知らない、と俺は答えた。以前会いたいと仰っていた方です。施設のスタッフが言う。

「俺が?」

「そうですよ。この前は西脇さんという方がお見えになって、とても嬉しそうに話していましたよ」

「にしわき」

 少し考えて、「そうですか」と俺は返事した。中川という男は、調理師をしていて自分の店を持っているという。並べられた料理は色彩に溢れていて、どれもとても美味しくて、俺はなぜだか涙が止まらなかった。食欲なんかなかったのに、泣きながら全部たいらげた。中川という男は、にこにこして、なぜだか泣いていた。




 夢を見た。白い、ゆめだ。

 



 目を覚ますと、面会だと言われた。

「めんかい」

 西脇という人物だと教えられた。

「にしわき」

 知らない、と俺は答えた。以前会いたいと仰っていた方です。施設のスタッフが言う。

「俺が?」

「そうですよ。この前は中川さんという方がお見えになって、とても嬉しそうに話していましたよ」

「なかがわ」

 少し考えて、「そうですか」と俺は返事した。男は、なにも言わず俺のそばに立った。眼光が鋭くて、怖い気がした。俺は所在無げに目線を布団の上に落とした。

「今日」男は話し出した。とても優しい声だった。「哉多の母親の墓参りに行ってきた」

「俺の……母親ですか?」

「そうだ。今日は三回忌だった」

「そう、ですか」

 母親と言われても、ぴんとこなかった。頭の中は白くて、なにも映っていないのだから。

「哉多」

 西脇という男が握手を求めた。その手を掴むと、とても冷たいのに、なぜだかとても温かかった。




 ゆめをみた。白い、ゆめだ。

 白いくうかんのなか、白いはなびらが舞っている。そこにだれかがいて、おれを待っている。

  



 朝、早くに目を覚ました。頭は痛くはないが、酷く混乱している。白い夢を振り払うように、頭を振り、窓の外を見る。赤いレンガはチョコレートのように並んでいる。……いや、すべてが赤く見える。

角の自転車屋も青い自転車も、踏切のポールも路のずっと先も、ずっとずっと赤だった。人影はなく、車も電車も走ってはなく、キーンとした耳鳴りの音までもが赤い色に染まっているような気がした。

 ピタピタと足音がして、見ると、盲導犬のスコットが立ち止まった。

「窓を閉めるんだ。赤の奴に食われるぞ」

 スコットが話しかけてきた。話せるのか?

「こんな時間にひとりで散歩? 先生はどうしたの?」

「ハーネスは?」

 いつも付けている胴輪がない。

「もう必要ない」

「何を言っているの? お前がいなくなったら先生困るだろ」

 スコットは悲しそうな目をしたけれど、幸せそうだった。

「そう、とても幸せだったんだ。たくさんの幸せを知った。お前もだろう?」

「……そうだね。たくさんの人に出会えて俺も幸せを知ったよ」

 スコットは満足そうに頷いて、歩き始めた。しっかりした足取りだった。赤いレンガの路は、どろどろとしていて、溶けたチョコレートのようにも見えた。スコットの体はチョコレートにどんどん浸食され、やがて赤になり見えなくなった。 




 俺を呼ぶ声が聴こえる。



 息が苦しい。




 俺は深い呼吸を繰り返している。体は動かない。目も動かない。一点を見つめているのがせいいっぱいだ。天井の一点。そこに在る“もや”を俺は見つめている。

 誰かが俺を覗いた。さっきから俺の名を呼んでいたのは君か。なにかを話している。よく聞き取れない。目の下に小さなほくろがある。唇が、花びらのように揺れた。



 ありがとう……



 そう言っている気がした。俺は泣いているのだろうか。涙が滲んで落ちていく。汗なのかもしれない。タオルがそっと顔を撫でていく。その感触はとても優しくて、穏やかで気持ちいい。

 “もや”が近づいてくる。真白で優しくて、冷たい光だ。





 夢を見た

 白い夢だ


 花が舞っている。

 キラキラと輝いて、眩しくて目を細めた先にミルクがいた。

 

 音を見た

 鈴の音だ


 俺は、ここにいる。

 ミルクのそばに、ずっと。

  

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