14mg LASTRAIN
玄関の扉を放つと、明時の空から雨が落ちていた。ラベンダー色のカーディガンの下でミルク色のスカートの裾が揺れる。パンプスのストラップをパチンと止めて、ミルクは立ち上がった。
「降っているのね」
空を確かめると、玄関脇の傘立てから長傘を取り出して俺に渡した。誰かの忘れ物。ミルクのつぶやきが開いた黒の中に余韻する。
「監視カメラ、切ってあったわ。確かめてみたけれど、哉多の姿は映ってなかった。誰が切ったのかしら」
疑問符とバッグを胸元に抱えたミルクは、歩きながら俺の腕に手を掛けた。背丈が丁度良くて、傘を差しやすい。
「監督見習いの人じゃないの?」
そういえば、名前を聞くの忘れてたな。
「お姉さん?」ミルクは首をかしげてから言った。「なぜ?」
「その人に協力してもらって、裏窓の鍵を開けておいてもらったんだよ」
「そうだったの。でも不自然過ぎる。いくら哉多がくるからって。お父さんにバレたら大変よ」
「故障したとか」
「新しいのに取り替えたばかりよ。ちょうど不法侵入者を捉えるチャンスだったのに。ね」
な。他人事の顔で俺が頷く。
「ミルクの父親は?」
「お父さんが切ったとして、なんのために?」
「俺がくること、わかってたのか?」
「知らないと思う。でもすごく勘がいい人よ。私を助けにくるって確信していたし」
「やっぱりバレたんじゃないのかな。お姉さんの行動が筒抜けだったって可能性もある」
「えー。もうわかんなくなってきた」
「あれこれ考えても、もうなにもどうしようもない」
「そうよね」
雨が切情に泣き、沈黙を優しく撫でていく。
「ねえ、どこに向かっているの?」
俺はポケットから鍵を出して掲げた。小田さんの家に行くのは計画の内ではなかったが、鍵は離さず持っていた。仕事終わりになんとなく寄って、コーヒーをふたり分煎れる、そんな、なんとなくな計画が、日常の一片に予定付けてあったことを思い出した。
「可愛い。鈴蘭の形なのね」
非日常の音が鳴る。
「ここから歩きで三十分くらいかかるけれどいいか?」
なるべくタクシーなど人目につかないほうがいいだろう。
「平気よ」
「親父の……親父だった人の家へ行く」
「だった人?」
「死んだんだ。ミルクと病院へ行った日」
「あの日? そうだったの……」
謝りそうな気配に割り込んで、俺は話を続けた。
「俺が息子ってこと、親父は知らない。記憶もないし顔も知らないけれど、名前と眼鏡工房の職人ってことは知っていたから」
とりとめのない話を続けて、小田さんの家につくころには、夜も雨も終わりを告げた。連日の雨のおかげなのか、花々は枯れずにその姿を保てていた。
「きっと愛情をたくさん注いでもらったのね」
壊れかけの小さなジョウロには、雨水が溢れている。鈴音が響き、ドアは厳かに開いた。
タオルの置き場所は知っている。濡れたタオルを干す場所も。コーヒーを飲もうと、お湯を沸かし、コップを並べた。「ずいぶん慣れているのね」とミルクが感心する。
少し冷静になりたかった。ふたりで。そう思うのは勝手だろうか。ミルクにわずかながら自由を与えたい。繋がっていた鎖は解き放ったのだ。
「哉多がその人に添った名前で呼ぶのは中川くんと西脇さんだけね」
「え、そうか?」
「橘さん。小田さん。私」
「そういえば、そうだな。そういうミルクも、ちゃんと名前で呼ばれたことないんじゃないのか」
「そうね。でも私はやっぱりミルクなんだと思う。もしこの先名前で呼ぶ人がいたら、その人は神様ぐらいの地位じゃないと許可しないわ。それぼどに私はミルクなのよ」
ミルクは笑う。分かる。俺も揺るがないほどに橘さんであり、小田さんなのだ。だけど、これでミルクのことを本名で呼ぶタイミングをすっかり剥奪されてしまった。神様ぐらいの地位どころか、俺は完全に犯罪者でしかない。
「そうだ。アルバムないのかな。お父さんの生い立ちとか見てみたい」
そう言って立ち上がり、手当たり次第に探し始めた。「おい、勝手に」と言いかけたが、小田さんのお姉さんの好きにしていいという言葉を思い出し、俺も立ち上がる。見たいと思った。知ることのなかった父親の像を追いかけたい。
「ね、これじゃない?」
色褪せたアルバムをふたりで覗き込む。兄妹で遊ぶ姿、学生服の小田さん(横に立つのは両親だろうか)。湿原の風景が何枚もあり、牧場に放された牛、道路脇の花……また湿原の写真。展望台と書かれた案内板と直立小田さん。鈴蘭の花に囲まれる小田さん。東京駅、古い形の電車。
「上京したのね」
ページを捲る。空白のページが続く。写真を剥がしたような跡が残っている。もしかしたら、ここには橘さんがいたのかもしれない。そして、工房の玄関口。まだ花はない。工房を紹介している雑誌の切り抜き。子どものころ見た記事だ。橘さんが「これがお父さんなのよ」って嬉しそうに見せてくれた。そこに記してあった住所と名前を俺は記憶した。配達の仕事をすることになって、たまたま空きがあったこの町の担当を志願した。工房へは毎日のように配達があった。切り抜きには続きがあったようだ。眼鏡を手にした職人顔の小田さんが、力強い眼差しをこちらに向けている。これが最後のページらしい。
「似てないね」
「俺は、整形前の橘さん似だから」
「あれ? 二枚だけアルバムに挟まってない。この子、哉多に似てる」
まだページを捲っていたミルクが写真を俺に差し出した。
見ると、小学生の「俺」だった。運動会の百メートル走で一位を取って、誰かのお父さんにすごいね、記念に一枚撮ろうって言われ、得意げにピースをした記憶が蘇る。確かその日は、急な仕事が入ったとかで、橘さんが来れなかった日だ。
「もしかしたらお父さん、毎年哉多のことを見守っていたのかもしれないわね。こっちは、最近の哉多よ」
渡された写真には、小田さんと俺が向き合ってコーヒーを飲んでいる姿が写っている。その場にいたのは中川だ。花を撮るために買ったデジカメの使い方がわからないと言って、中川に教わっていた。中川が、俺と小田さんとの関係性を知っているわけもなく、何の気なしにカメラに収めたのだろう。
「わかっていたのか。俺のこと」
わかっていて、俺に全部話した。弱さも全部俺に見せた。
「……俺は後悔する生き方なんてしない」
ミルクを抱きしめた。いや、俺がミルクに抱かれていたのかもしれない。スタジオで見た朝野ミルクの映像が重なる。
受け止めたい。
全部、受け止める。
どのくらい眠ったのだろうか。ミルクはまだ眠っている。そっと抜け出して人通りの少ない公衆電話から電話を掛けた。
名乗ってもいないのに。
「哉多か」
久しぶりに聞く、甘い声に浸る。その響きは、やけに心の奥を落ち着かせた。
「頼みがあるんだ」
「わかった」
「まだ言ってもいないのに」
受話器の向こうで、西脇さんが微かに笑った気がした。
「哉多が俺を頼った。それだけで充分の理由を持つ」
百円硬化を飲む効果音が響く。
「女を頼みたいんだ」
「朝野ミルクか」
間髪入れずに名前が出て、俺の驚く声が漏れる。
「ニュースでやってる。哉多は重要参考人」
思った以上に早過ぎる展開だったが、それもそうか。
「なにがあった?」
これまでの経緯を簡潔に説明した。西脇さんの開口一番は、「もやはどうなった?」だった。「もや?」俺の反復が受話器の中を通っていく。
「移動したか? それともその場にとどまっていたか」
「そこまで見てない。気が動転していたし」
輸血をしてから感じるようになった“もや”だ。西脇さんから伝授されたことは間違いない。俺には濃さの程度しかわからないが、西脇さんは、もっとはっきりとした形を成して捉えているようだ。そんなオカルトめいた話を信じる性格ではなかったけれど、これだけは疑いようのない幻覚だ。その幻覚との関連性を見出さなければならない状況に、俺は不十分の意味を持って戸惑った。
「本当に哉多がやったのか?」西脇さんが問う。
「間違いないよ」俺は答える。
硬化が消化されて、俺はまた緑の物体の口の中に餌を与える。
「ミルクと……母を頼む」
「レンジは?」
俺は悄然に笑ったあと、「頼む」と口にした。
「西脇さんのおかげでこうして生きてこられた。間違ったことをしたかもしれないけれど、……いや、正解はないんだろ?」
俺にも。母親にも。ただ、俺は後悔をしたくないだけなんだ。
「哉多」
声が聞こえて、目を閉じる。
「大丈夫だ」
頷いて目を開ける。白い花が咲き乱れる光景に浸りたかった。一瞬でも。
タバコの残りが一本だったことを思い出して、いつものように自動販売機の前に立った。いつものタバコをやめて、いつもの銘柄のコーヒーのボタンを押した。
帰ると、テレビの電源がついていた。ミルクはタバコを吸いながら、ぼうっとテレビ画面を見つめている。テーブル上に缶コーヒーを置くと、ようやく俺の気配に気付いたようだった。
「あ、お帰り」
味気ない声が心ここにあらずだが、無理もない。アナウンサーは速報の事件を口早に伝えている。
「ねえ、地下にお姉さんがいたらしいの。縛られていたみたい」
「やっぱり、バレていたってことか」
ふたりでコーヒーを飲みながら、流れるニュースを見つめた。ただ無言で。ブラックの苦味が、俺の依存心を殺いでいく。
覚悟は出来ている。
「俺は警察に行く」
「私も行くわ。私だってあの人を叩いた」
「それは俺を助けるためだろう? 今、信頼できる人と話をしてきた。彼なら力になってくれる。逃げてくれ」
「いやよ。哉多ひとりに罪を負わせたくない」
「やっと自由になれるんだよ」
「自由なんていらない。哉多がいないなら、そんなの……」
俺は首を振る。
「命懸けで好きな女を守りたかった。いや、守りたいんだ。これからミルクは、朝霧美陸として生きるんだ」
ミルクが首を振る。
「西脇さんの元へ行くんだ」
強い口調で命令した。
ミルクの頬に涙が落ちた。
「これからは、俺がミルクの枷になる」
ミルクは吸っていたタバコを、俺の唇に挟んだ。
「私の味、確かめて」
メンソールの味は物足りなかった。細い腰を引き寄せる。
「冤罪品よ」
花びらのような唇が悲しく笑う。俺はその奥を確かめた。奥まで。