13mg 糸
白い闇の中をひたすら歩いていく
剥き出しの木々が、氷のような表情で行く先を誘う
聞こえるのは、鳥の声、呼吸音
どれだけ歩いたのだろうか
白い息が闇へと消えていく
『雨ヲ探シテ』
張り巡る蜘蛛の糸
囚われの雨の妖精
白い翅は折れ
もう飛ぶことはできないでしょう
だけど僕は嬉しかった
なぜなら同じ速度で歩けるから
蜘蛛は無情に
妖精の足を噛み切った
それでも僕は嬉しかった
なぜなら君が壊れていくのは、
美しい。
甘い甘い蜜の味
雨が降る
雨粒は
壊れた君を濡らし
蜘蛛糸を揺らす
「腐敗開始の音だ」
蜘蛛が囁いた
美しい。
甘い甘い蜜の味
壊れていく君がなぜだろう僕は愛おしい
以前見たミュージック・ビデオが夢の中で流れていた。ミルクの拘束された光景が、雨の妖精と重なったのかもしれない。
ミルク……
我に返った視界に現実が映る。部屋中央に陣取るベッド。ピンと張ったシーツ。その上に座るミルクを、スタンドライトの光が照らしている。純白の薄い下着は肌を透かし、より妖艶に魅せている。近寄ろうとしたが、後ろ手が椅子に括られている現状を飲み込む。
「目が覚めたようだな」
上半身裸で、突き出た腹には下着のゴムが食い込んでいる。この男がアーサーなのだろうか? 男はベッドに向けて固定されたふたつのビデオカメラを確かめている。カメラから撮影開始の音がした。
「そこで見ていろ」
そう俺に告げると、ミルクの背後に回った。ミルクは抵抗もせずにその背中を預けた。そうするのが当然といったように。
アーサーはミルクの髪をかきあげ耳を噛む。
「やめろ」
俺の声はミルクの視線を誘発した。見たこともない目……去り際に見せた強気の視線とも違う目付きが俺を制御させた。そこにはひとりの女優がいた。俺の知らない女だ。そうだ、そこにいるのは俺の知らない女なんだ。
男の指先が、女の首筋から肩を這っていく。立てた指先が、やわらかな肌を掻いでいく。女優の表情が変わる。瞳は憂いを纏い、唇からは時折甘い声が漏れた。
なんて顔をしているんだ、ミルク……
俺は目線を落とした。塞ぐことの出来ない耳からミルクの艶めく声が侵入し、俺の鼓動は逸る。
なんで、涙がこぼれているんだ、俺は。
俺の中に流れる血は、冷たく俺を支配している。体中を巡る血液も落ちる涙も冷たいはずだ。冷たさや薄情の中に、優しさが含まれていることも知っているはずだ。鋭い目付きの瞳の中にも。強くなりたい。あのひとのように。
俺はゆっくりとまぶたを開け、朝野ミルクを見つけた。揉みしだかれる乳房にも、色づく吐息にも濡れた唇にも宿る、完全な『朝野ミルク』を見つめた。彼女は美しく、そしてとても狂おしく俺を苦しめた。
アーサーはミルクを俺の前に突きつけた。
「いい女だろ。俺の最高傑作だ。これは上等の玩具なんだよ。俺の許可無しに使う男は殺しても気が済まないくらいだが、お前は早妃の息子だからな」
俺は男を睨む。
「早妃の息子が男優なら話題になる」
向けられたライトの眩しさに目を背けた。
「次はこいつだ」
頭を押さえつけられながら、ミルクは俺の前にひざまづいた。
「撮り終えたら、哉多は帰すって言ったじゃない」
「この男のことを好きになったのか」
ミルクは黙り、男は鼻を膨らませて笑った。
「俺に造られたということを忘れるな」
「神にでもなったつもりか?」
俺の言葉に、アーサーは「そうだな」と無精髭を撫でた。
「思い描いていたとおりにはなったからな。いや、それ以上だ。完璧なルックスと身体。技術も徹底的に教え込んだ。その辺の女優とはワケが違う。格別なんだよ。闇雲に種を蒔いてもだめ。上級の土台と種がなきゃ。上級の水と肥料、愛情と手間をかけて、花が咲くのを長い間待ったんだよ。お前も男ならわかるだろう? 今のミルクがどれだけの花を咲かせているか」
満足そうな笑みを浮かべるアーサーの足元で、しおれる一輪の花。
「俺は朝野ミルクにもこの世界にも興味はない。だけど、こんな俺でもわかったことがある。あの人が女優としてどれだけすごい花を咲かせたのか……朝野ミルクは、橘早妃の花には及ばない。それくらい監督ならわかるだろ?」
「その生意気加減、早妃に似て腹ただしいよ。誘拐に監禁、不法侵入か。大した罪だ。それをチャラにしてやるっていっているんだ。いい条件だろう。お前とミルクなら早妃の記録を超える作品になる。それとも、このままうちの男優になるか? 体付きもいいし、面構えもいい」
「アンタのいいなりにはならねえよ」
「その身動き取れない状況で何ができるっていうんだ? ミルク、お前は今なにをすべきかわかっているな」
ミルクは、はい、と従順に返事をした。
「やれ」
強い命令が下る。
快諾した指先は、俺の膝から太ももを這う。ミルクの顔が近づいてくる。
「ミルク……やめてくれ……」
唇を塞がれながら見つけた。
もやがある。
死ぬのは、男か俺か。あるいはミルクか……。
ミルクは俺を抱きしめた。ゆっくりと時間をかけて何度も舌を絡ませながら……手首のロープの結び目を解いている。アーサーに気付かれない角度で、裏切りは巧みに行われていた。
触れたいと思っても触れられなかった唇は、熱くてとても優しくて、今までに感じたことのない波動が下半身からこみ上げてくるのがわかった。このままミルクと抱き合って、映像を取られても構わないとさえ思った。先ほどの朝野ミルクを目の当たりにしたせいなのか。いや、朝野ミルクと、このミルクは違う。だけど、ふたつのミルクがだぶって俺を揺るがしている……ロープが緩くなる感覚がした。ミルクは両手で俺の頬を包み、確かな視線を向けたあと、俺から離れて首を振った。
「できないわ」
ぱん、と容赦のない音がして、ミルクが床に倒れた。同時に俺は立ち上がり、アーサーを殴る。高額そうなカメラと低級な神が吹き飛ぶ。もやが確実に濃くなっている。
殺すのは誰だ。
アーサーはただのデブではないようだった。体は筋肉の塊だった。腹に受ける拳が重い。敵わない、そう思った瞬間、アーサーが俺に覆いかぶさった。……相変わらず、俺は弱いな。西脇さんは自分を守るために格闘技を習わされたと言っていた。自分を守ることすらできない俺は、ミルクを救うことなんてできやしないのだろうか?
すぐ真上の天井にもやが集結しているのが見えた。やられるのは俺、か。呼吸のできなさに喘ぐ。アーサーの指が俺の首に食い込んでいた。ふと母親の顔が浮かぶ。パッケージの中の、整形前の顔だ。初めて見た母親の本当の顔。どうしてAV女優になったのだろう。ちゃんと聞いてやればよかったな。今なら、どんな答えでも受け入れられる気がする。気付くと、ミルクが両手でアーサーの腕を引っ張っていた。何かを喚いている……聞こえない? しんとして何も聞こえない。もう息苦しさもない。もやが俺を包むように、視界がどんどん狭くなる。結局、ミルクになにもしてやれなかった。連れ出したとしても、自由に生きられる場所なんてどこにも無い気がした。もう俺は自分の体から解放される。……そうか、“自由”とはこれのことか。ミルクの存在しない自由は、なんて不自由なんだ。
光が揺れた。
アーサーが崩れ落ち、ミルクが立っていた。手にスタンドライトの柄を握りしめて。ただ悲しげな顔で。
咳き込みながら体を起こし、確かめる。まだもやは。俺はミルクからライトを取り上げた。もやが男を取り込むまで。指先の沸騰した感覚が冷たくなるまで。俺は光を振りかざした。もやが男を包み込み、男の体は、たんなる入れ物となった。
割れたカプセルと同じ。中から赤い液体が漏れている。放り投げた光の先に、薄情な俺の影が揺れていた。
ミルクを抱きしめると震えていた。俺も震えていたのかもしれない。ミルクに服を着るように言い、残された映像を消去した。
「行こう」
ミルクの手を引いた。
ドアまで来るとミルクは部屋の中を振り返った。俺の肩越しに、なにを見つめているのだろう。その手はしっかりと俺の手を握っていた。