12mg 塵
廊下を掃除する母親の背中を見る。このひとも、昔は女優だった。俺に嫌われても自分の生き方を貫いた。
「掃除、好きだよな」
「そうでもない」
意外な返事に俺は驚く。
「哉多には、後ろめたい気持ちはあったのよ。だから、掃除も料理も得意じゃなかったけれど、完璧になろうとしたの。ただの取り繕い」
淡いベージュ色のフローリングは、ブラケットライトの照明を反射させて、褪せることなくそこに在る。
「橘早妃の息子でよかったよ」
一瞬、橘さんの手が止まる。
「じゃないと、これからミルクを助けに行こうなんて気は起きなかったと思う」
床の上を、一粒の滴が弾いた。
気の強い人だ。だけど、今まで見た涙は、すべて俺が傷付けたものだ。理解しようとせず、心無い言葉で母を傷付けてきた。
キッチンのテーブルに地図と灰皿を置き、椅子に座る。橘さんのタバコを一本拝借した。細くもなければメンソールでもない。ふてぶてしい味が俺の体内を洗う。
住所が記されてある電話帳は、ふてぶてしい字で埋め尽くされている。
橘さんは、目の前で携帯電話片手に笑っている。時折登場する「アーサー」という人物は、察するに、朝霧からもじった呼び名であり、ミルクの父親のことだろう。脳内で「アーサー」「人物」と検索してみたが、表示されるのはスマートでダンディーな姿だ。その「アーサー」のもとで監督見習いとして働いている、元女優と連絡が取れたらしい。ミルクは姉のように慕い、以前から引退したいと相談をしていたそうだ。……嫌でも耳に入ってくる橘さんの会話を聞きながら、地図に目を通し、場所を確認した。こんなことに配達業が役に立つとは思いもしなかった。目的地を明確にイメージすることができる。
電話を終えて、橘さんがにこにこしながら聞く。
「協力してくれるって。説明、いる?」
「聞いてたからな」
俺は、地図から目を離さず不愛想に答える。微笑んで返せるような器用さは持ち合わせていない。
「あんまり無茶しないでよね。返して私のタバコ」
差し出された手のひらに箱をのせた。
「なあ、タバコ、控えめにしろよ」
「好きなことをやって死ぬのなら悔いはないよ」
橘さんは、実にうまそうにタバコを吸った。
「アンタらしいな」
「哉多もでしょ。昔、哉多が刺されたときは、本当に驚いたんだから。いくら人のためっていってもね……。あの人がいなかったら、死んでいたのよ」
西脇さんのことか。特殊血液型の西脇さんは、定期的に採血や検査をしていると言っていた。偶然にも、西脇さんの通う病院に運ばれたことは運がよかったのだろう。俺の中に、あの人の血が混じっていることは、誇りにすら思える。
「無鉄砲なのは、母親譲りだよ」
「本当は、病院で誰にも会ってないって言ったけれど、本当は会ったのよ」
俺は煙を吐き出し、タバコを灰皿に押し潰しながら確認した。
「西脇さんか?」
橘さんは頷いた。
「私が着くまで、彼はずっと哉多に付いていてくれたの。私に会ったこと哉多には言わないでほしい、嫌がるだろうからって言ったの。そしたらね、彼、じっと私を見た。心の奥まで見透かされているような気分だった。そして、こう告げられた。“見える色はすべてじゃない。赤が赤とは限らない。正解なんてない。誰にも。職業にも”だって。不思議な人ね」
正解なんてない、か。だとしたら、不正解もないのだろう。迷わず行ける気がした。ここからが、俺のはじまりだ。
黒が重なり合い、真夜中を構築し始めていた。それを制圧するかのような、白を基調にした大きい佇まいは、一際目立っていた。見られる側から見る側となって「AV女優の家」を黒の淵で観賞する。
閉ざされた門の上部に監視カメラが設置されている。高い塀が不審者を拒んでいる。塀に沿って裏通りにまわると、電灯は少なくひっそりとしていた。立ち止まり様子を窺う。ふうっと息を出し切ると、心の奥底が暗がりに飛び散った。緊張の破片が消えていく。ためらうことなく塀によじ登り、中へと侵入する。
表から堂々と入ることも考えたが、ミルクがまた朝野ミルクを演じたとしたら、俺は単なる不法侵入者となり、AV女優宅を狙った不審者として警察に突き出されるだけだろう。ミルクの本心はわからないし、連れ出したあと、どうするべきなのか、どうなるのか、そもそも連れ出せるのかすら、なにも見えてはいなかった。ただ俺は「ミルクが必要だ」と告げた言葉を嘘にしたくはなかった。俺の手をギュッと握り返したその強さを信じたい。
裏庭には所々に花壇があった。庭園灯に投影され、白壁に咲いたシルエットは影絵のように幻想的だ。アーサーのダンディズムが垣間見えた気がして、意味もなくジーンズのホコリを払った。芸術展を通り過ぎ、目的場所にたどり着く。窓の鍵は手筈通り開いていた。シューズをリュックに仕舞い、わずかばかりの己のダンディズム心を懐中電灯で投影した。そこに浮かんだのは、ずらりと並ぶ棚だった。
中川がいたら興奮しそうな代物たちが整理されている。『朝野ミルク』の文字に引き留められ、灯りの先をあてがう。胸元を露にした朝野ミルクがDVDのパッケージの中で笑っている。となりの棚にも、いくつもの女優のDVDが収められていて、さながらレンタルショップといったところだ。ひとつひとつ名前が違う。女優ってこんなにいるものなのか。この中で、名が売れるということは、どれだけすごいことなのだろうか。感心すらしていると、懐中電灯は照らした。
橘早妃橘早妃橘早妃橘早妃橘早妃橘早妃……。
棚を丸ごと埋め尽くし、年代順に整理されている。上段の一番左端のDVDを手に取る。セーラー服を着て、微笑む表情にはまだあどけなさが残っている。
「誰だよ、これ……」
つぶやきながら、整形前の橘早妃のDVDを戻したが、動揺した。似ているとは聞いていたが、心の中で同時に「俺だ、これ……」とつぶやかずにはいられなかった。
伝説のコーナーを足早に通り過ぎて、出口へと向かった。部屋を出てからのイメージを頭の中で組み立てる。玄関まで続く廊下。左側が更衣室とトイレ、右側がスタジオ。玄関前には階段があり、階段の向こうには事務所がある。
ここまでは計画通りだ。ドアレバーに手を掛け懐中電灯の明かりを消した。部屋の中が闇色で塗ったように黒を作った。ドアを開けると、黒が切り裂いて、薄暗い廊下が俺を招待した。懐中電灯をリュック脇のポケットに入れて歩き出す。静かだ。なんの音も聞こえない。スタジオの灯りだろうか、床に光の影が落ちていた。そっと影を踏み、中の様子を窺う。
中の様子……脳裏に蘇る、橘早妃を初めて見たときの猥褻な世界。それが現実に目の前に構築されていた。
部屋の中心にライトが当てられ、その先にミルクがいた。裸で、さるぐつわを口につけ、柱に手を固定されていた。まるで磔の刑だ。逃げた罰を与えられているのだろうか。まわりを見渡すが、ほかに人は見当たらない。俺は中に入った。
ミルクは俺に気づくと、首を振った。口にくわえたボールの規則的に開けられた穴から、涎が糸を引いて落ちていく。雨粒を装飾した蜘蛛糸のようだ。きらきらとそれは落ち、胸元を濡らし、ふくらみを沿い、腹部をなぞり……足元が濡れている。長時間拘束されていたのだろう。俺は気付く、これは、俺をおびき寄せるための罠か。敵も計画通りというわけか。
「待っていたよ」
背後から声がする。振り向くと、腹に衝撃が走った。猥褻な世界が消滅していく。パソコンを消したときみたいに。ミルクの残像が悲しげに・・・