10mg 乾
草木も花もなく、コンクリートが広がる庭の中にトラックは収まった。中川は伸びをして、ミルクは「素敵ね」と、辺りを見回した。何もないことが、かえってヨーロピアン調のデザインをより引き立てている、とは、母親の弁だが、あの人の虫嫌いから殺風景になっているだけだ。
元気よく扉を開け、元気よく敬礼し「ただいま」と挨拶をした中川に向けて、橘さんは「おかえり」と返事をした。
「えと……ただいま」
戸惑いながら、ミルクも挨拶をする。
「おかえり」
橘さんは笑顔で、そこにいる。
中川とミルクの重圧を受け、俺のぶっきらぼうな「ただいま」は、反抗期真っ只中の子どものころとなにひとつ変わりなく発せられた。
「おかえり、哉多」
橘さんもまた、なにひとつ変わりない言い方をした。図体ばかりデカくなった俺は、落ち着きなく目を逸らす。
「さ、片付けちまおうぜ、哉多」
中川がいてくれてつくづくよかったと思う。
「片付けちまおうぜ、哉多」
軍手をはめて、中川の言葉を真似たミルクに、俺は噴き出した。
「ミルクは休んでろ」
「みんなでやったほうが早いよ、ね、お母さん」
「えっ、私も!?」
中川から軍手を渡されて、橘さんも手伝うはめになった。確かに、みんなで運んだ方が賢明だろう。雨がすぐそこまで近づいている。
思う以上に荷物は多く、本当に自分の所有物なのかと驚いた。
「大丈夫かよ」
橘さんの持つ、ぐらついた荷物を取り上げる。なんてことのない謝意の五文字が、なぜだか沁みる。
こんなかたちで、母親との距離が近づくとは思いもしなかったことだ。
荷物を運び終えると、雨が降り出した。
「加代子さん、おかわり」
中川は、口に頬張った飯をもぐもぐさせながら茶碗を掲げた。
「いつのまに名前で呼んでいるんだよ」
「だって、早妃さんじゃ変だろ。じゃあ、かこちゃん?」
「やだ~。嬉しいかも」
俺は興味なく胡瓜の浅漬けに箸をつける。
「だいたい橘さんって呼び方がおかしいんだよ」
「そうそう。ミルクちゃんの呼び方もね」
橘さんは、飯を盛った茶碗を中川に渡しながら賛同する。
「私はいいんです。小さいころからのあだ名だから」
そう言ったあと、ふさぎ込んだかのように見えたミルクに、「どうかした?」と声をかけた。
「あだ名だと思っていたけれど、もしかして意図的に女優の名を植え付けられていたのかしら」
橘さんは、おかわりを聞いてきたが、俺が首を振るのを確認すると、椅子に座って言った。
「お母さんの名前から取ったんじゃないかしら。ミルクちゃんの」
「知っているんですか」
「若いころ、同じお店で働いていたことがあって。店での名前がクルミだったの。すごく綺麗な子でね。スタイルもよくて、性格も良くて。本名、美しい月って書いて、みつ、って言うのよ。ミルクちゃんの名前をお母さんから取ったのか、お母さんが希望したのかはわからないけれど」
「ミルクの母親は、今はなにをしているんだ?」
「店を辞めてから会ってないし、わからないな。当時、まだ携帯電話を持っている人少なかったのよね。クルミちゃんも持っていたらよかったんだけど」
「そうですか」
ミルクはそれ以上を聞くことはせず、なにごともなかったかのように飯を食べた。ミルクと初めて会った日、食堂でラーメンを食べたときのことを思い出した。
中川が場を盛り上げて、みんなで笑った。ミルクも笑っている。だけどミルクの内側は見えない。強いのか弱いのかも、わからない。
夕食を食べ終え、中川が帰り支度をする。雨粒がトラックのボディを跳ねていた。馴染んだエンジン音が、どこか物悲しく唸る。
「これ、返しておく」
助手席に置いたまま、すっかり忘れていた会社の上着が、中川の指の先で拗ねていた。
「悪い」
「いつか俺が店を持ったら食べにこいよな」
「ああ」
トラックのストップランプが見えなくなるまで、ミルクとふたりで見送った。
夜の中に、雨がどこまでも続いている。ミルクは手を差し伸べ、雨を弾いた。弱い雨がミルクの肌を濡らしている。その手に自分の手を重ねた。ミルクは俺を見る。
「気にならないのか、親のこと」
ならないわ、ミルクは空を仰ぐ。
どんな理由があったにしても、お金を選んだのよ。
雨の中に、ミルクの声が浸透する。
「その人たちにとって、私の存在は必要ではなかったの」
ミルクの冷めた瞳の意味が分かった気がした。産まれる前から朝野ミルクでいることが決まっていた。両親もミルクを作ることに協力した。すべては自分たちのエゴのため。ミルクの意思などどこにも必要としない。ミルクは与えられた仕事をこなし、出された料理を食べるだけだ。
俺に手を引かれて逃げてきたことに、ミルクの意思はあるのだろうか。
「俺は必要だから」
そう告げると、ミルクは、こちらを見ることもなく、繋いでいた手を強く握りしめた。
雨が続いている。夜の中に、空の中に、ミルクの内側に。