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幾許  作者: _
枷 花
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1mg

 先程から薄々感づいてはいたが、間違いない。俺は痴漢されている。

 混雑した電車の中、下半身と繋がる腕をたどりながら安堵していた。相手は女性だったからだ。これが肉付いた男の上腕だとしたら、新たな問題を自分自身に見い出さないといけなくなる。

 二十代前半くらいだろうか。薄いグレーのコートの下に白いワンピースが見える。背は高く、つば付きの帽子から垣間見える顔は、驚くほどに美貌だった。

「残念だけど」

 俺は、その女の耳元に近づいて報告した。

「不感症なんだ」

 細い腕が引いていく。

 ほどなくして目的の駅に到着した。改札口を抜け、出入り口で足を止め、外の空気を体の奥底まで取り入れる。雨はまだ降っている。傘を開くと、白いワンピースが視界の端に並んだ。

「君、もうちょっとマシな断り方できないの」

 俺は少し吹き出した。

「遠まわしに断ったと思ったのか? 本当だよ。そういうことに興味が無なんだ。アンタにもな」

「ひっどーい」

「ひどいも何も……していることは犯罪だろ」

 女はうつむいた。そして、

「性欲満たして何が悪いの?」

 とつぶやいた。俺は女を見つめる。ノーメイクにも見える透明感のある肌、涼し気な目元の際には、濃く長い睫毛が添い、目尻のほくろがその魅力を一層際立たせている。肩下で整うさらりとした黒髪。ショルダーバッグの持ち手に添えた爪は色味無く短い。清楚な印象を振りまくには充分な要素を揃えている。

「自由になりたくて飛び出したけれど、欲望のままに動けば動くほど虚しいね。人間、枷があるくらいがちょうどいいのかもね」

 唇が花びらのように揺れた。

「行くか一緒に」

「どこに?」

「今から病院に行くところ」

 いい案かもね、と女は、歩き出した俺に付いてきた。




 なんてことのない生活。職場と家を往復するだけ。たまに上司と飲みに行ったり、同僚と食事をしたり。つまらないといえばつまらないし、充実しているといえばそうだ。夢見がちになったこともなければ、やけになったこともない。現実を浮遊していただけだ。着地場所を探していたわけでもない。高校を卒業し東京に来たのは、母親が嫌い、それだけの理由だった。これといった取り柄も趣味も何もなく、田舎では必需品の自動車免許を取得していた俺は、身ひとつで環境を変えられる寮付きの運送会社に勤めた。

 毎日淡々と、集荷と配達を繰り返す。見慣れた模様の箱を積み、見飽きたルートを走り、手応えのない会話を交わす。ほぼ時間通りに帰社、同じ銘柄の缶コーヒーをデスクの隅に置き、伝票の確認をする。タバコを吸うタイミングも、灰の落ちるタイミングも、もしかしたらそう狂わないのかもしれない。

 会社を出ると、予報通りに雨が落ちてきた。いつもの自転車通勤をやめて正解だった。電車に乗り込むが人の多さに辟易する。

 他人の息遣いを肌で感じることに嫌悪する。密室という電車の中で、右にも左にも肌という肌が、前から後ろから人間という人間が押し寄せてきて、窒息をもたらす。卵のパックを羨ましく思う。個包装された菓子でもいい、俺は、自分を膜で覆いたい。他人と密接しているとき、俺を包む被膜は唸る。

 たまたま乗り合わせた電車で、この女に会ったことは、不正解の始まりなのかもしれない。



 

 病院までは、五分足らずの道のりだ。俺たちは、なにも話さず雨音を見つめた。

 音は奏でる。

 女の黒いヒールを濡らし、やがて足首を、そしてストッキングの色を変えていく。女は傘から手を出した。その指先はしなやかで、したたかに雨を弄んでいる。俺はどこか(けが)れた目で、手のひらに弾く雨粒を見つめた。雨は弱者の面持ちで女の手を濡らしていた。

 病院に着き、入口手前の簡易な喫煙コーナーに立ち寄る。タバコを吸おうと取り出した箱の底で、ニコチンの残りカスが俺を嘲け笑っていた。

「あげるわ」

 女が差し出たタバコを受け取ると、

「免罪品ね」

 という言葉が付属された。

「変な女」  

「ね、待っててもいい?」

 変な女は、美しいという形容詞が的確すぎた。タバコを吸うその姿は、目立ち過ぎている。喫煙コーナーにいる飢えた患者(おとこ)たちの緊張感が、煙となって浅薄に消えていく。女の腰ほどに細いメンソールは、軽すぎて物足りなすぎた。免罪品を灰皿に放免すると、火種が開放の音を立てて消え、夕闇の空に煙が上っていった。木々が緑葉を蓄えている。風は冷たいが心地はいい。

 肺の中の空気を入れ換えてから正面口を潜る。生と死が入り交じった気配を感じる。中間に属する俺は、背を曲げて廊下を歩き病室へと向かう。

 ベッドは四つあり、老人に塞がれたベッドのうちのひとつにたどり着く。

 大きく口を開け、苦しそうな呼吸を繰り返し、天井の一点を見つめる老人を、俺は見つめた。なにを思い、なにを感じているのだろう。あるいはもう、なにもないのかもしれない。老人の土色の皮膚は艶を失い、彫刻刀で掘ったような皺からは汗がにじんでいた。そばにあったタオルで老人の顔を拭う。老人は、同じく天井をただ見つめ、苦しそうな呼吸を繰り返すだけだ。やはり、もうなにもないのだろうか。

 この部屋の中は、“もや”みたいなもので覆われている。影のようでもあり、雲のようでもある。それらに取り囲まれたとき、肉体と精神が切り離されていくのだろうか。

「こちらです」

 看護士に連れられて一人の女性が入ってくる。俺は会釈し、その場を離れる。

「お兄さん」

 女性が老人に声をかけた。

 開け放しの病室を出る。振り向くと、部屋中に散布していた“もや”が集結し、老人を取り囲もうとしていた。

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