恋人未満な夫婦の話(3)
「最近ご機嫌ですね」
穏やかに微笑んで鼻歌交じりに書類に印を押していた彼女に、秘書が声をかけた。
きょとんとした表情で秘書に目を向けると、彼女は照れ隠しでもするかのように「あっちへ行け」と指先で追い払う仕草をした。
退室を促された秘書が扉の前でもう一度彼女を振り返り、確認をする。
「例の会合ですが、本当にお一人で宜しいのですか?」
心配そうに尋ねられて、彼女は小首を傾げた。このあと夕刻から、都内の高級料亭で例の重要案件の取引先の社長と一対一で話をつける約束になっていた。相手は抜け目のない狸親父と聞いているが、不当な条件を出される可能性があることは充分に理解している。取引の内容やそれに関するメリットもデメリットも頭には叩き込んであるし、単純な話し合いなら彼女の得意分野だった。
それに最近は頗る調子が良い。
「大丈夫よ。外で待機しててくれれば何も問題はないわ」
にっこりと微笑んでそう告げると、彼女は手元の書類の続きに目を通した。秘書が扉を閉め、退室したのを確認すると、彼女は高級な椅子の背もたれに身をあずけ、大きく伸びをして書斎机の引き出しから携帯端末を取り出した。
夫からの相変わらずの長文メールに目を通したあと、『今夜は取引先との会合で遅くなるので夕食はいらない』と本文を入力し、メールを返信した。
夫と初めてのキスを交わしたあの夜から数日が過ぎていた。あれ以来、彼との関係に進展はみられないが、相変わらず夕刻になると『愛しています』と書かれたメールが送られてくる。
あのとき彼が呟いた「すみません」という言葉の意味が気にかかっていた彼女は、翌朝の朝食の席でそれとなく彼にその意味を尋ねてみた。
彼は困ったように微笑んで、「あなたが気にしていないのなら、忘れてください」と言った。彼女もそれ以上追求するつもりはなかった。
彼とキスしたという事実は夫婦関係を進展させる大きなきっかけになる、と彼女は思っていた。毎朝彼の顔を見るたびに幸せな気持ちを抱くようになった。それは精神的にも大きな影響を与えたようで、最近は仕事の方もかなり好調だった。
残業続きで忙しい彼女を気遣ってか、あのあとも彼は、キスはもちろん彼女に手を触れようともしていなかったが、今夜の会合がうまくいけば少しは仕事が楽になる。彼と一緒に過ごせる時間も増えるだろう。そのために験を担いで勝負下着も身につけてきた。
彼女は素早く席を立つと、上等な上着に腕を通し、書斎机傍に掛けられていた高級な革の鞄を手に取り、「よし!」と気合を入れて部屋の扉を開けた。
取引先との会合は、都内の一角に建てられた老舗の料亭を指定されていた。上品な着物を身に纏った女性店員に最奥の個室へと案内され、足を踏み入れる。室内は四季を彩る花々で上品にあしらわれ、個室の中央に置かれた卓上には旬の食材をふんだんに使った創作料理の数々が所狭しと並べられていた。
中央の席でふんぞり返り、新鮮な魚のお造りを箸でつまんで酒を飲んでいた中年の男が、入り口で棒立ちになっていた彼女に目を向けた。
(なんなんだこれは……)
とても話し合いをする状況とは思えない。一人で宴会でもしていたのかという有様に、彼女は唖然とした。
高級なスーツをだらしなく着崩して、これもまただらしなく出っ張った腹を隠しもせずに、狸親父が彼女に声を掛けた。
「そんなところに突っ立ってないで、こっちに来て座ったらどうだね」
促された彼女は営業用の笑みを浮かべ、仕方なく男の正面の席に腰を下ろした。「早いところ話をつけて帰りたい」と思い、鞄から資料を取り出して本題に入ろうとすると、狸親父が彼女の前に手のひらを突き出して制止してみせた。
首を傾げる彼女に舐めまわすような視線を浴びせ、彼が口を開く。
「せっかくこれだけの料理が並んでおるんだ。そんな辛気臭い話はあとにしてくれ」
そう言ったかと思うと、男はグラスに注がれたビールを一気に飲み干した。値踏みするような目で彼女を見ると、空になったグラスを突き出してみせた。
「なんのつもりですか?」
訝しげに彼女が問うと、男は呆れたように座椅子の背もたれに身を預け、大きく溜め息をついた。
「あのな、あんたも女だったら、こういうときに酌の一つもしてみせるなり、多少なりとも色気をチラつかせるなりサービスしてみようとは思わんのか?」
無遠慮な狸親父の言葉に彼女が憤り、腰を浮かせようとしたときだった。テーブルの下で、伸ばされた男の足が彼女の股の間に滑り込んだ。ビクッと身を強ばらせて彼女は動きを止めた。
……いや、動けなかったのだ。
そんなところに触れられたのは初めてで、自分が何をされているかを彼女が理解するのに、かなりの時間を要した。
動けずにいる彼女に品のない笑みを向け、男は足の指を器用に動かしながら彼女の股間を弄る。その気色悪い感覚に全身から血の気が退き、彼女は青ざめた顔で目の前の男の顔を凝視した。
「ほれ、少しは可愛い声でも聞かせて――」
狸親父が言い終える前に、ガシャンと皿が割れる音が部屋に響いた。席を立ち、わなわなと拳を震わせながら、彼女は目の前の中年親父を見下ろした。整然と並べられた料理を足でなぎ払い、テーブル越しに親父の胸元を捻り上げると、彼女は大声で怒鳴りつけた。
「ふざけるんじゃないわよ! これ以上セクハラするなら警察に突き出してやるわ!」
完全に取引契約のことなど頭からすっぽ抜けていた。呆然とする狸親父を遺して、彼女は勢いよく部屋を飛び出した。待機していた秘書を呼びつけ、送迎用の高級車に乗り込むと、会社に寄りもせずに自宅へと直帰した。
高級な会席料理の支払いも、割れた皿や汚れた部屋の弁償も、全部あの狸親父がすればいい!
あんなセクハラをこの程度のことでチャラにしてやるんだから、有り難く思え!
腸が煮えたぎるような怒りを抱えたまま、彼女は自宅の玄関扉を開け放った。
◆
室内は暗く静まり返り、いつも通りリビングにうっすらと明かりが灯っていた。リビングのドアを開け、ソファに目を向けると、夫が静かに寝息を立てて横になっていた。
先刻の料亭での出来事で頭に血をのぼらせていた彼女は、手に提げていた革の鞄をソファの上の夫に投げつけ、苛立ちが治まらないまま彼を見下ろした。
唐突に物をぶつけられ、驚いた彼が目を見開いて飛び起きた。ソファに肘を付き上半身を起こして、彼は彼女を見上げる。
「わたしがこんなに嫌な思いをしてるのに、どうして呑気に寝てるのよ」
呻くような低い声音で彼女が呟く。無意識に奥歯を噛み締め、拳を握り締めた。瞬き一つせずに彼を見下ろす目の縁から涙が零れ、頬を濡らした。涙はやがて嗚咽に変わり、彼女は自身の顔を両手で覆った。
父が、婚約者を社長に据えようとしていた意味が、今になってやっとわかった。女の身では、業界を知り尽くした親父共と対等に渡り合うのは極めて困難なことなのだ。最初から同等の立場として見ては貰えない。重要な取引であればあるほど嘗められてしまう。彼女のように若く、経験不足な身であれば尚更だった。
今夜、あの席で、その事実をまざまざと突きつけられ、己の非力さを痛感した。
だが、彼女が涙した理由はそれだけではなかった。
「どうかしたんですか? 泣いて――」
最後まで言葉を言い終えずに彼は立ち上がると、彼女の両肩に手を触れた。
顔を覆っていた両手で口元を抑え、彼女が涙目で彼を見上げる。
ダイニングの小さな灯りは弱々しく、窓から見える月の光がほんのりとリビングを照らし、その僅かな明かりの中にふたりの影が浮かびあがっていた。
薄闇の中で、彼の指先が彼女の頬を濡らす涙を拭い、温かな手が頬に触れた。お互いに言葉を発することもなく、只々見つめ合う。大粒の涙を溢し頬を濡らしたまま、彼女はゆっくりと瞼を閉じた。
彼は動かなかった。苦々しく顔を歪めて、彼女をただ見つめていた。
あのとき同時に感じた屈辱、それは――。
「あんな糞みたいな親父でもわたしを女として見ていたのに、どうして夫であるはずのアナタは、わたしを求めてくれないの……?」
見開いた彼女の瞳から再び涙が溢れる。
目の前で苦々しく彼女を見つめている男は、彼女が初めて恋をした相手だった。傍にいて欲しいと思った。大好きで、愛していて、素直に伝えられずにいたけれど、今でもその気持ちは変わっていない。それなのに……。
言葉を続けることができずに、涙目で訴えるように彼を見上げた。彼女の言葉を耳にして、彼は困惑したような面持ちで黙り込んだ。何かを考え込むように目を伏せると、躊躇いがちに口を開いた。
「この結婚は、あなたがどうしても受け入れることができなかった婚約者との関係を解消するための、偽装結婚でしょう?」
彼女の真意を確認するかのように、ゆっくりと落ち着いた声で彼が告げた。
「あなたの望みを叶えた見返りに、俺は働かずして何一つ不自由のない暮らしを与えられる。そしてほとぼりが冷めた頃合いを見計らって、契約は解消される。……そうですよね?」
予想だにしなかった彼の問いに、彼女は息を詰まらせた。
彼が彼女に手を出さなかった理由を、あのときの「すみません」の意味を、彼女は知ってしまった。
恋をしていたのは、愛していたのは彼女だけだったのだ。
彼の中では、この結婚は契約上のものでしかなかった。その事実を突きつけられて、彼女はその場にへたり込んだ。次から次へと涙が溢れ出し、彼女の頬を、首筋を、掌を濡らした。
思い上がっていた。初めて告白されて彼を振ったあのときから、彼女はずっと、彼は密かに自分のことを想ってくれている筈だと信じ込んでいた。あの無茶苦茶な求婚だって、彼はきっと断らない筈だと、そう思って口にしたのだろう。その証拠に、彼がそれを承諾したとき、お互いにずっと想い合っていたのだと勝手に決めつけた。なんて自分は愚かだったのだろうと、彼女は己を嘲笑した。
「アナタは最初から、いずれ別れるつもりで、わたしと結婚したの……?」
ちからなく肩を落とし床に座り込んだまま、諦めたような笑顔で彼女は呟いた。
終わりだと思った。
順調だったはずの仕事は最大の取引で蹴躓いてしまった。最愛の夫には愛されていなかった。ずっと大切にしてきた二つのものを、同時に失ってしまったのだと。
そしてふと、彼女は思い出した。彼が毎日彼女に送っていた、くだらない長文メールに記された最後の言葉を。
「どうして、愛してるなんて嘘をついたの……?」
未だ涙が溢れる潤んだ瞳で、彼女は彼を見上げた。俯き加減で彼女を見下ろす彼と目が合ったが、彼はすぐに顔を背けた。思い詰めたように床の一点を見つめたまま、その場に立ち尽くしていた。
やがて、彼女の真剣な眼差しから目を逸らし苦渋の表情を浮かべていた彼が、意を決したように呟いた。
「嘘はついていません。……俺は、あなたに告白したあのときから、ずっとあなたのことを愛しています」
その言葉を耳にして、彼女は涙に霞む目を大きく見開いた。
一体彼は何を言っているのだろう。もしもその言葉が本当なら、この結婚が契約上のものだと言い切った、さっきの言葉は一体なんなのか。
愛しているから、彼女が提示した取引を承諾した?
愛しているから、いずれ別れることも承知の上で結婚した?
考えが纏まらず答えを導き出せないまま、ただ呆然と彼を見上げていた彼女の頬を、彼の掌が優しく包み込み、彼女はハッとして我に返った。彼女が座り込んでいた床に膝をついた彼の顔が、ゆっくりと近づく。
「あなたの言葉にはいつも、肝心なものが足りない。一番言葉にして欲しいことを胸の内にしまいこんでしまう。……それでは駄目なんです。隠されてしまったら、俺はその真意に気づくことすらできない」
夜の闇が溶け込んで赤黒い光を湛える彼の瞳が、彼女の瞳をじっとみつめていた。
天邪鬼な彼女が、彼に伝えていなかったこと。……彼に言えなかったこと。
大学の講義室で声をかけてくれて嬉しかった。
好きになってくれて嬉しかった。
結婚してくれて、愛してくれて、ありがとう。
「ひとつだけ確認させてください。この婚姻は、契約上だけの関係ではない、……そうなんですね?」
落ち着いた声音でゆっくりと紡がれた彼の言葉に、彼女は大きく頷いた。
穏やかに微笑んで、彼はそっと、彼女の唇に自身のそれを重ねた。
それはとても情熱的で激しくて、全身を熱く火照らすような、彼女があのとき想像した大人のキスだった。
◆
カーテンの隙間から溢れる朝の光に微睡みながら、彼女は重い瞼を開けた。大きく伸びをしようと両手を伸ばすと、その手が温かい何かにぶつかり、きゅっと握られた。
驚いた彼女が握られた手の方を振り向くと、寸分先に優しい笑みを向ける夫の顔があった。
まだ眠たそうではあるが、驚きを隠せずに目を白黒させる彼女を幸せそうにみつめている。
「おはようございます」
声をかけられ、握られた掌の温もりを再度確認し、目の前の夫が夢の中の住人ではなく実在する本人であることを確信する。同時に一気に頭に血が昇り、彼女の顔を真っ赤に染め上げた。
「お、お、ぉぉぉはっ、おは……?!」
この状況が理解できない。彼女は元々朝に弱く、思考がまともに機能していなかった。混乱する頭を抱え、飛び起きようとして、はたと動きを止める。
下腹部に重い痛みを感じて、彼女はようやくこの状況を理解し、昨夜のことを思い出した。
……そういえば、あそこもじんじんと痛んでいる気がする。
「あまり激しく動かないほうがいいですよ。初めてのあとは痛むでしょう?」
そう言って、彼は優しく彼女の髪を撫でた。顔の半分まで布団で隠して横になり、彼女は恨めしげな視線を彼に向けた。
「初めてって……、初めてなのに何度も夜中まで付き合わせたのはどこのどいつよ」
「……すみません」
責めるように呟かれた彼女の言葉に一瞬だけ目を丸くして驚いた彼の顔が、すぐに穏やかな笑みを湛える。
嬉しそうに言われるから、彼女は照れくさくなって頭まで布団の中に潜った。
「全然謝ってる顔じゃないわよ」
くすっと彼が笑う声が聞こえたあと、布が擦れ合うような微かな音を耳にして彼女は再び布団から顔を覗かせた。ベッドの縁に腰掛けて、白いシャツの袖に腕を通す彼の背中が傍にあった。
上機嫌で彼女の方を振り返り、彼が言う。
「朝食は何が食べたいですか?」
◆
朝目が覚めて、隣に大切な人がいる。それがこんなに幸せなことだとは夢にも思っていなかった。
眼下に広がる街並みを窓から見下ろし、彼女は顔を綻ばせる。
仕事から帰ったら、夫婦で同じ寝室に寝ることを提案してみよう。
そう考えて、彼女は書斎机に向き直り、仕事モードに頭を切り替える。新しい案件が山程ある。だが、そんなことは問題ではない。目の前の書類の山を定時までに片付けて、愛する夫の元へ帰るだけだ。
夕陽に照らされた高層ビルが犇めき合うオフィスビル街に、一際高く聳え立つビルの最上階の一室で、彼女は最後の書類に印を押す。
一息ついて書斎机の引き出しから携帯端末を取り出すと、新着メールの最後の一文を確認し、照れ臭そうに微笑みながらメールを返信する。
今頃、二人分の夕食の支度を終えて、彼女の帰りを待っているであろう夫に向けて。
『わたしも、愛してる』
今回で嫁視点でのお話は終わりになります。
次回はおまけ感覚で旦那視点の最終話になります。