恋人未満な夫婦の話(1)
高層ビルが犇めき合うオフィスビル街に、一際高く聳え立つビルがある。国内で五本の指に入る大企業のグループ会社のひとつである。
そのビルの最上階に位置する一室。昼間は陽の光で明るく照らされていた室内も夕刻になると薄暗くなり、並べられた家具から伸びる影が長く長く部屋の奥に届きそうなほどだ。
部屋の中心には品の良いデザインの応接用ソファとテーブル、壁際には多種多様な専門書籍がびっしりと並んだ本棚が整然と立ち並ぶ。配置された家具にはもちろん、部屋の隅にさりげなく置かれた観葉植物さえも埃ひとつ被っておらず、この部屋の持ち主と清掃を手掛けるものの几帳面な性格が伝わってくる。
その部屋の窓際付近、中央に置かれた書斎机に向かい合う高級なソファにゆったりと腰を下ろし、陽が傾きつつある西の空を眺めるひとりの女性がいた。
この会社の女社長である彼女は、グループ企業のトップに立つ代表取締役の娘だった。まだ二十六歳という若さでこの会社のすべてを取り仕切っている。
幸い部下にも恵まれ、彼女が社長に就任してから今日までのあいだ、この会社は順調に利益を上げてきた。
ただし、この状態に不満がないわけではない。社長としての仕事は思いのほか忙しく、休みという休みは取れず、家に帰る時間も0時を回ることが多い。特に先月は取引先との大きな契約が動いたこともあり、家に帰らずに会社に寝泊まりすることすらあった。テレビのバラエティ番組に出てくるような、どこかしらの優雅な生活を自慢する社長が羨ましく感じられるほどの忙しさだ。
しかし今日は違う。
今月になって大きなヤマが片付いたこともあり、今夜は定時に帰宅してゆっくり家でくつろげそうだった。
書斎机に向き直り、最後の書類に目を通すと、彼女は書類の一番最後に印を押した。
「これでおしまい、っと……」
大きく伸びをして背もたれに身を預け一息つくと、彼女は机の引き出しから携帯端末を取り出した。ホームボタンを押してパスワードを入力し、ロックを解除すると、なんの変哲もないどこかの自然の写真がディスプレイに映し出される。様々なアプリケーションのアイコンが並ぶ中、メールのアイコンに赤い文字で表示された「1」という文字を確認し、彼女は思わず立ち上がった。
メールの差出人は考えるまでもなくわかりきっていた。彼女は仕事用とプライベート用で別々の端末を使っている。今手にしているのはプライベートで使うもので、この端末にメールを送れる人間は一人だけだ。
素早く端末を操作してメールの内容を確認する。作文のような長文の、読むのも面倒になりそうな夫からのメールを、彼女は食い入るように見つめた。
『お仕事お疲れ様です。
今日はブリ大根が食べたくなったのでスーパーにブリの切り身を買いに行ったら、ちょうどお買い得品になっていました。きっと日頃の行いが良いからですね。
…《中略》…
帰りに白い猫に追いかけられました。あれは絶対に袋の中のブリを狙っていましたね。もう目がヤバかったです。獲物を狙う肉食獣の目でしたから。
放っておくと家まで着いて来そうだったので、晩酌用に買ったお刺身を一切れあげました。そうしたらきちんとお座りして見送ってくれたんですよ。なんかこう、気品を感じさせるような不思議なねこでした。まるであなたのような……』
無関係な人間がこのメールを見たら真顔で削除するだろう。
だが、彼女は違った。念入りに長文に目を通し、最後の一文を確認した彼女の顔が、耳まで赤く染まる。
メールの最後の一文は『愛しています』の一言で締めくくられていた。
掲げるように端末を持つ両手をふるふると震わせて、彼女は必死に喜びの声を押し殺した。血走った目を見開いて端末のディスプレイに視線を戻し、返信のボタンを押すと、彼女はメールの本文を入力する。
『わたしも、愛しt』
そこまで入力してはたと指の動きを止め、しばらく考え込み、彼女は素早く指を動かして本文を書き直した。
顔を火照らせたまま、ちょっぴり不機嫌そうに唇を尖らせて、返信メールを送信する。
『どうでもいい長文メールを送るな』
本当は滅茶苦茶に叫び声をあげて転がり回りたいくらい嬉しいのに、彼女は素直な気持ちをメールで伝えることができなかった。天邪鬼な自分の性格が恨めしい。
あんなメールを送ったら誤解されてしまいそうなものだが、彼からのメールに素っ気ない返事を返すのはいつものことだったし、今夜は久しぶりに一緒に食卓を囲めそうでもある。ゆっくり話す時間さえあれば、少しは素直に好意を伝えられる筈だと彼女は考えた。
椅子から立ち上がると上着を羽織り、高級な革のバッグを手に取った。部屋を出ようと彼女がドアノブに手をかけたそのとき、軽いノック音がしてドアが開いた。
帰路に着く直前の彼女に向かい合い、彼女の秘書が軽く頭を下げる。
「失礼します。まだお帰りになられていなくて助かりました。先日の重要案件でトラブルがあったようで、どうしても社長の指示を仰ぎたいとのことです」
感情を読み取れない表情のままでそう言うと、秘書は整然とまとめられた報告書の束を彼女に手渡した。
書類に目を通しながら心中で溜め息をつき、彼女は思った。
今夜も帰れそうにない、と。
◆
真夜中の高級住宅街を一台の自動車が走る。都内でも最高級の高層マンションの前で停車すると、高級そうな赤い上着を身に纏った女性が車を降りた。
エントランスを通り抜け、エレベーターの昇りのボタンを押すと、彼女は携帯の端末のディスプレイを確認した。
結局日付が変わってしまった。本当に、つくづく自分は運が悪い。そんなことを思いながら、彼女はエレベーターが降りてくるのを待った。
エレベーターが最上階まで昇る少しの間、彼女は夫のことを考えた。
夕食についてメールに書いていた。おそらく彼女の分も作って待っていただろう。晩酌用の刺身のことも書いていたから、その準備もしていたに違いない。せめて、遅くなることを連絡しておくべきだった。
報告書を読んで、あのあとすぐに、事態の収拾をするために行動に移った。
それまでは、久しぶりに夫と夕食を食べることができると浮き足立っていたのに、仕事の話が出た途端に頭が完全に仕事脳に切り替わってしまった。同時に複数のことを処理できない自分の不器用さに腹が立つ。仕事の掛け持ちなら得意なのに、仕事と家庭を両立させることが全くできない。夫は仕事に関しては決して口を出さないから、いつも後回しになっていた。
(こんなに適当な扱いを受けているのに、どうして彼は何も言わないのだろう)
そんなことを考えて、彼女はふと、夫と出会った頃のことを思い出した。
彼女とその夫は、大学時代に出会った。
同じ大学で、同じ講義をいくつも受講していた。何度か隣の席になって、そのことを気にした彼に声をかけられた。彼女も彼の存在には気づいていた。
ただ、彼女は大企業の取締役の娘であることを理由に、大学ではちょっとした有名人扱いをされていた。人付き合いが苦手だったために近寄り難い人物だと思われて、親しい友人もできず、皆から距離をおかれていた。
本当は寂しい思いをしていたが、仕方のないことだと割り切っていた。友人はおろか、話し相手すら望めない環境に慣れきってしまって、それが当然だと思っていた。
だから、彼に突然声をかけられたときは、心臓が飛び出るかと思うほど驚いた。
選択する講義が悉く被っていることを理由に、もしかしたら気が合うのではないかと言われた。
はじめは下手くそなナンパかと思った。
しかし、大学には彼よりもずっとチャラそうな、誰にでも声を掛ける男はたくさん居たのに、彼女に声を掛けてきた者は誰一人いなかったことを考えて、その可能性を否定した。単なる好奇心か、下心でもあるのか、どちらにせよ構わなかった。
話し相手ができたことが、ほんの少しだけ嬉しかった。
同じ講義を受けた日、二人は度々昼食で同席した。はじめは一緒にいるだけで、ぎこちない会話しかできなかったが、だんだんと二人でいることに慣れ、砕けた会話ができるようになった。ちょうどその頃だった。
ある日突然、彼は彼女に告白した。
「好きになってしまったので、付き合ってください」と。
あまりに突然だったので、彼に何を言われたのかを彼女が理解するのに、かなりの時間を要した。頭の中を整理して考えた結果、彼女は彼にたった一言で返事をした。
「無理です」と。
彼を嫌いだったわけではない。むしろどちらかと言えば好きなほうだった。振った理由は全く別の、彼には無関係のことだった。
当時の彼女には婚約者が居た、ただそれだけだ。
告白を断ったあと、彼が彼女に話しかけてくることはなくなった。講義室では離れて座るようになり、彼女とすれ違っても軽く会釈をする程度で、言葉を交わすことは一切なかった。
それなのに、彼と話すことはなくなったというのに、彼女は彼のことを気にするようになった。
講義中に室内を見渡し、彼の姿を捜した。キャンパス内を移動する彼を目で追った。お抱えの料理人が作る高級な弁当を持参するのをやめて、彼と同じ学食で毎日昼食を取るようになった。すれ違うたびに、彼の方を振り返った。彼のことを考えるだけで、胸が高鳴って落ち着かなくて。
恋をしたのだと、思った。
彼女の婚約者は、父親が勝手に選んだ、とある有名企業の御曹司だった。エリートコースから外れたことがない優秀な男性で、容姿も良く、はたから見れば羨ましい限りの結婚相手だったと思う。
彼女と結婚させて、その男を彼女の代わりに社長に据えることが、父の望みだった。
だが、彼女の婚約者には隠れた問題があった。彼女は後にそれを知って、婚約者に激しい嫌悪感を抱くようになった。
彼は、小児性愛という特殊な性的嗜好をもっていたのだ。
大学を卒業し、父の元で経営学を学びつつ働いていたその頃の彼女にとって、夫婦とは共同経営者であり、例え特殊な性的嗜好を持っていたとしても、会社を経営する上で最適な相手であれば問題はないと、彼女は認識していた。
そう自分に言い聞かせていた。
だが、彼女は婚約者に対する嫌悪感を払拭することができなかった。一生を添い遂げる相手がこの男で、本当に良いのかと思い悩んでいた。
そんな折、会社のビルのエントランスで、彼女は彼と再会した。
地元の中小企業に就職していた彼は、営業で彼女の会社を訪れていた。
大学に通っていた頃とは違い、きっちりとスーツを着こなして、すっかり社会人になっていた。それもそのはずで、彼女が彼を最後に見たときから、既に三年のときが過ぎていた。
それなのに彼女は、彼の後ろ姿を一目見ただけで、それが誰であるかはっきりとわかってしまった。二度と会うこともないのだろうと思っていたのに、世間とは想像以上に狭いものだと思った。
彼の存在を認識して、彼女は咄嗟に物陰に身を隠した。
すぐにでも声をかけたかった。だが、一度振った相手にどんな顔をして声をかければいいのか、彼女にはわからなかった。彼女はすぐに彼のことに気がついたが、彼は気づいてもいない、話しかけても彼女が誰であるかすらわからないかもしれない。
人付き合いが苦手な彼女が、ネガティブな思考で身動きを取れなくなっていたそのときだった。
「お久しぶりですね」
いつの間にか彼女のすぐ傍まで来ていた彼に、声をかけられた。心臓が止まるかと思った。
大学で他愛もない言葉を交わしていた頃と変わらない様子で、彼は彼女に再会を喜ぶ言葉をかけてくれた。
せっかくだからもっと話をしないかと食事に誘われ、彼女は二つ返事で誘いを受けた。
仕事が終わる時間を確認し、駅前で待ち合わせて、彼の馴染みの居酒屋で軽い食事をとった。
本当はもう少し洒落た店でと思ったが、給料日前で格好をつける余裕がないと言って、照れ臭そうに彼は笑った。
家族や取引先の重役、婚約者との畏まった席での食事はこれまでに幾度となく経験してきたが、庶民の多くが利用する食堂や居酒屋での食事の経験が、彼女にはなかった。だからそのときは、素直に面白いと思った。
軽い食事をとったあと、少量のアルコールを飲みながら大学に通っていた頃の話をした。昔話に花が咲いて、気が付いたら彼女が彼を振った話になっていた。
振られた相手とこうして食事をしているのが不思議だと言う彼に、彼を振った理由を教えた。彼に落ち度があったわけではないことを、彼女はどうしても伝えておきたかった。
親に決められた婚約者がいたことを説明しているうちに、婚約について思い悩んでいたことも手伝って、婚約者の異常な趣味をどうしても受け入れられないことまで、洗いざらい彼に打ち明けてしまった。
彼は何も言わずに彼女の話を聞いていた。
食事を終えてレジで精算をした。
彼とは比較にならないほど彼女のほうが裕福だったが、それでも食事代は彼が支払った。
迎えの車は呼ばずに、彼と駅まで歩きながら話をした。彼の仕事の話を聞いたりもした。
「生活のために働いてはいるが、今の仕事が自分に向いているのかわからなくなる」という彼の言葉が気に掛かり、今の仕事は好きではないのかと尋ねると、彼は後ろ髪を掻き、困ったように微笑んだ。
それでなんとなく、口にしてしまった。
「私と結婚しない? 働く必要はないし、ただ家に居るだけでいいわ」