蝶と列車
「ふぅ……」
一息ついて、列車の座席に腰かける。
車内はガラガラに空いているというか、乗客は俺以外いなかった。珍しい日もあるものだ。
いや、もしかしたら普段からこれ位なのかもしれない。
俺は今朝から体調が悪く、なんとか午後まで乗り切ったものも結局周りに勧められ、会社を早退しているところだった。
腕時計を見ると、時刻はまだ1時20分。
相変わらず気分が良くないので、窓の方を見る。
すると、いつの間にか列車の中に入っていたのだろうか。
小ぶりな蝶が、そこに止まっていた。
「綺麗だな」
自然とそんな言葉が口から出た。
俺は元々昆虫は詳しくないし、そもそも好きではない。
蝶と蛾の違いも実はよくわかっていないし、知ってる蝶の名前はモンシロチョウとアゲハチョウぐらいしかない。
それ位虫には興味がなかった。
しかし、この蝶は他とは違う。
名前は知らないが、とても美しい蝶だ。
自らうっすらと七色に発光しているようで、見惚れる程鮮やかな模様の羽を小さく揺らしている。
体調が悪かった事も忘れて眺めていると、蝶は窓際からこちらへ向かって飛んできた。
蝶は俺の頭の周りを、まるで舞うように優雅に飛び回る。
目を細めると、鱗粉が同時に舞っているのが見えた。それは星屑のようで綺麗だった。
しかし気管に入ったのか、俺はげほげほとむせてしまう。
あれ……なんだろうか。
咳を繰り返していたら、なんだか先程以上に頭がぼんやりとして……。
「ふぁ……あれ?」
俺はいつの間に、眠ってしまっていたようだ。
今は何駅だろう……それより、頭が重い。
いつの間にか蝶もいなくなっている。
「……?」
何かがおかしい。
窓の外は真っ暗だった。
しかしこの列車はトンネルを通過することはないし、まだ昼間のはずだ。
俺はスライド式の窓を開く。
すると何かがぴとりと何かが手についた。
それはちくちくとしながら、俺の手の甲で蠢いている。
「……ヒッ!」
それは、黒い毛虫だった。
俺は急いで振り払う。
よく窓を見るとうねうねとした毛虫や、芋虫やらが、大量に窓に貼りついていた。
ああ、見るべきではなかった。気持ち悪い。
「うう」
俺は他の席に移動しようと席を立つ。
ところが俺はクリーム色だった床が、濁った黒になっていた事に気が付いてしまった。
埋め尽くされていたのだ。蠢く小さな黒い虫に。
「あ、蟻が……!?」
俺の靴を、足を上り、既に膝まで蟻が這いあがってきていた。
「うわぁぁっ!」
俺は必至でそれを振り払う。
いつの間に電車の窓は全て虫で塞がれ、電車内の床も壁も天井も、全て虫達で覆われている。
「う……」
おぞましい光景に吐き気がした。
「ど、どうにか逃げなきゃ……」
しかし、電車は動いている。
だが、時間が経てば各駅停車するはずだ。
「それまで待てば……今は何時だ」
俺は焦りながら腕時計を見る。
腕時計には、いつの間に大きな蜘蛛が乗っていた。
「うあぁぁっ!」
振り払おうとするが、左腕には既に蜘蛛の巣が張られたのか、なかなか離れない。
「俺は蜘蛛は大嫌いなんだよ! 離れろ!」
俺は大声を張り上げながら、蜘蛛を引き離そうと腕を大きく振る。
そうしている間にも、蟻や、毛虫や、名前のわからない羽虫などが俺の周りに集まってくる。
まるで夏の夜に蛍光灯に群がる蛾のように、気味が悪かった。
蛾といえば……あの蝶は一体どこに行ったんだ。
もしかして、あの蝶が俺に幻覚を見せているのではないか!?
俺は必死で車両を駆け回り、あの虹色の蝶を探す。
その間にも飛んでいる虫が顔に衝突して、何度も叫んだ。
「はぁっ……いた!」
俺は蝶を右手で捕まえる。
そしてそのまま力を込め、ぐしゃりと蝶を潰した。
掌を開くと、蝶の体と、体液と、鱗粉と、くしゃくしゃになった七色の羽があった。
俺はその場に蝶を捨て、手を払う。
足元には次々に蟻が群がり蝶の羽や胴体を運んでいった。
「はぁ、はぁ……」
そして俺は一番近い席に腰かけ、目を閉じた。
「お客さん、お客さん」
「……」
「お客さん、お客さんってば」
「ん……あ、はい」
車掌と思わしき人物から肩を揺さぶられ、目を覚ます。
いつの間にまた俺は眠っていたようだ。まだ頭がぼうっとして、目がちかちかする。
あれは蝶が見せた夢だったのだろうか……。
「大丈夫ですか? ここ、終点ですよ」
本当だ、列車が止まっている。
いつの間に降りるはずの駅から過ぎてしまっていたらしい。
「あ、すみませ……っ!?」
俺は気が付いてしまった。
車掌の手袋をからはみ出るように、黒い蛆虫が蠢いている事が。
「まぁ、人間さんのご乗車は久々でしたけどね」
「う、わ……!」
車掌の顔は、無数のムカデがぞろぞろと這っていた。
俺は、目を逸らすように窓の外を見た。この窓は全開になっている。
「あっ!」
先程潰したはずの虹色の蝶が、ひらひら、ひらひらと飛んでいた。
いや違う。あれは別の蝶だ。それも沢山だ、群れで飛んでいる。
列車の中や窓際をを埋め尽くすように埋めていた虫達は、次々列車を降りていくようだ。
ああ、俺は間違えていたんだ。なんて列車に乗ってしまったのだろう!
「お客さん、お客さん」
そう言いながら虫列車の車掌が俺の肩を揺らし、虫が自分の顔にも上っていく。
他の場所にも虫が何匹もついてきたが、もう落とす気力が残っていない。
自分の表情が歪んでいくのがわかる。
「はは、は……外に、綺麗な蝶が、沢山、沢山いますね……ははは……」
俺はただ窓の外の蝶を見て、笑うしかできなかった。
END
読んでいただきありがとうございました。
虫は苦手です。というか嫌いです。はい。