ある暇な日に。
何が厭って言って暇な時ほど辛い時も無い。多忙を極める日々にあると、痛切に自分の時間やらが欲しいなどと望みもするものだが、何、暇なところで本当にしたい事など碌にありはしないのだ。暇人のすることと言えば、せいぜい読書とゲームくらいなのだが、一週間もすれば飽きてしまう。後は暇を持て余し、多忙なあの日に戻りたいなどと願うのだから阿呆らしい。まあ、人間こんなものだと思ってガハハと笑えるようであれば良いのだろうが、所詮自分は世に言う根暗であるからかなわない。
昼で放課になる日には、暇にまかせて普段通らぬ道を自転車で通り家路に着く。目的地は家に変わりないのだけれど、普段通る表通りから一本裏の細道など通ると、古い木造民家に四季の移ろいなどを感ずることも、出来るのである。
三月は梅の花。庭の先、門の前などに柔らかく開きだした紅色の梅は綺麗な香りを初春の気に漂わせる。
その三月の週末の昼下がり、普段通らぬ道を暇持て余した僕は自転車をキコキコ漕いでゆっくりと通っていた。これと言って用事があるわけではなく、むしろ用事がないからこその外出であって、急ぐ道理もなく余所見しながら春の初めを感じていた。天気は良く、日は辺りを優しく照らし、微風はそよそよと古い閑静な住宅地を吹き渡っていた。遠くの鳥の鳴き声が、温い空気を震わせていた。
遠くの話声が風に乗って聞こえてくる。僕は、暇から生じた好奇心から声の方向へと自転車を向けた。
「そんなこと、今まで言ってなかったじゃないの。あまりにも突然じゃない」
澄んだ少女の声だった。
「機会が無くって……」
若い男の声。
小さな公園を見つけた。大方、そこのベンチに座りながら睦言でも交わしているのだろう。どうにも同年代の男女がよろしくやっていると邪魔をしたくなる僕は、公園内に入って独りブランコにでも揺られようかと思った。
「でも、メールだってできるだろう。電話もあるし、最近じゃビデオスカイプなんてものだって、あるじゃないか。」
「そういうものじゃないでしょう?」
「何がそういうものじゃないって言うんだよ。そういうもどういうも、僕たちは決まった現実の中で、理想と折り合いをつけながら日々を送る他ないじゃないか」
僕が自転車を降りブランコに座ると、二人の男女はシーソーの両端に座りながら、そんなやり取りをしていた。二人の頭上を薄い雲がゆっくりと流れていた。
まだ、小学五年の頃の話だ。当時の僕は、どこにでもいる馬鹿な少年を楽しくやっていた。石を抛って体育館の硝子を割ったり、雨水を溜める地下の貯水槽に岩を入れたりしながら過ごしては、周囲の人間に迷惑を掛けていた。そんな僕が転校すると知った際には教職員一同、微笑みながら残念なことだと言ったのも当然のことである。
最早名前すら定かでないが、確かN美という娘だったと思う。当時彼女は僕の隣の席で、やたらと色が白く、癖のあるものの可愛らしい容姿をしており、耳たぶの産毛が日に当たると綺麗に光った。小学生的な至って普通のお友達として彼女は僕に接していたわけだけれど、僕はそれで彼女にとって自分が特別な存在かのように思いなし独りで満足していた。彼女は、僕が転校すると言った際も通り一遍の、悲しくて仕方がないといったような表情をしてみせ、ひどく僕の自尊心を満足させた。
送別会の時、級友からは寄せ書きを貰った。チラチラ光る埃に包まれながら、狭い教室の中央に棒立ちになって、僕は彼女の文字だけをじっと見つめていた。大切にしまっておこう、と思った。
今となっては、そんな寄せ書きなど何処にあるやらまるで知れない。とうに捨てられ焼却場で焼かれて灰になって最終処分場に埋もれているのかもしれないし、物置のどこかにあるのかもしれない。
二人はシーソーの上で沈黙していたが、男の方が閉じていた口を開いた。
「そういえば、ほら、そろそろホワイトデーだろう。まだ少し早い上に、あまり高いものは買えなかったけれど、これ」
「……ありがとう」
焼き魚の匂いがして来た。随分遅めの昼食を摂るものが居るものである。二人はシーソーを降りて、公園から出て行った。日は段々と傾き、吹く風は冬のそれに近くなってきた。僕は見るものを失ってブランコから腰を上げた。埋もれていた色あせた心情と記憶が橙色の日に晒されていた。
自転車で家に向かう途中、先の二人をまた見かけた。家の庭先に咲いた梅の花を見て、女の方が優しく笑っていた。男の方も彼女の顔見て微笑んでいた。まだ寒いのに良く咲くわね、寒くたって咲かなきゃならん、そんなやり取りがちらと耳に入った。
三月には梅の花が好い。家に帰って、寄せ書きでも探そうか。休日の暇つぶしくらいにはなるだろう。