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短編No.41-60

No.49 コンマ5メートル

作者: 藤夜 要

 海斗(カイト)が私の名を呼ばなくなってから、どのくらい経ったのだろう、なんて。

 ふとそんな風に思ったのは、卒業生代表挨拶で名を呼ばれたからだ。私は気休め程度のカンペをブレザーの袖口にしのばせ、ゆっくり壇上へ上がって行った。

「在校生に贈る言葉。卒業生代表、三年G組、霧島鳴子(ナルコ)。先生、ご来賓の皆さま、そして在校生の皆さん、お祝いと贈る言葉をありがとうございました」

 暗記した答辞を淡々と述べる。その間にも、私の視線はある一点に集中する。もちろんほんの一瞬だけど。皆が私の名を呼び、私の声さえ聞こえないほどの大声で野次を飛ばす中、海斗だけは相変わらずイヤホンをつけたまま俯いていた。まあ、顔を上げていたところで、君がどこを見ているのかなんて、デザインメガネで瞳を隠しているからわからないけど。

「なんて、固っ苦しい答辞はここまでにして」

 声高らかに、私は吠える。自由を謳歌するこの学校は、それを許してくれる珍しい校風だった。

「この学校は私にとって、最高の学校だったよ、本当に」

 一番聞いて欲しい人は、私の話なんか聞いていない。必死でドイツ語を勉強している。私なんて、眼中にない。頭の中は、留学先のことでいっぱいだ。海斗は今夜、日本を発つ。卒業式という義務を果たせば、もう日本に用などないとでも言うかのように、この日を出立の日に当てていた。バイオリンを作る職人になるんだと言っていた。それを聞かされたのは、二年の夏。反対したら、それっきり私とも喋らなくなった。自分の世界に閉じこもるオタク。海斗はクラスでそんな陰口を叩かれていた。それでも君は平気な顔して、自分というヤツを貫いていたね。私の話なんか、全然聞いてくれないし、考えてみてもくれなかった。それは、今日も変わりなく。私は所詮その程度の存在だったんだ、なんて、口から滑る答辞の言葉とは全然違うことを考えていたりなんかして。

 海斗の耳に、私の声は届かない。それでも私は思い出を語った。答辞という言の葉に乗せて、君と過ごした高校の三年間、本当に楽しかった、ということ。いろいろ傷つくこともあったけれど、それでも、ここまで君と一緒に歩けたこと、本当に、嬉しかった。それが例え“姉弟”みたいな関係としてしか君が私を受け止めてなかったのだとしても。

「変わった学校で、何も教えてくれなくて。だけど、本当は考えることを教えてくれる学校でした。みんなとこの学校で過ごせたこと、私達卒業生にとって、何よりの宝物だよ。出会ってくれてありがとう。ここで学んであとから来るみんなだから。だから、さよならは言わないよ。ひと足先に、もうひと回り大きな社会で、みんなが来るのを待ってるから。先生方、保護者の皆さん、こんなメチャクチャな答辞だけど、最後まで喋らせてくれてありがとう。おわり」

 巧く笑えなくて、頬が引き攣る。だけどみんなが盛大な拍手を送ってくれた。たったひとりを除いては。いつの間にか私の頬は、みっともないくらいぐしゃぐしゃに濡れていた。

「よかったよ」

「鳴子が泣くとは思わなかったね」

 壇上を降りて席へ戻るまでに、そんなねぎらいを受けては照れ臭い顔をしてお礼を返す。

 私は生徒会長、霧島鳴子。それを最後まで巧く演じたかったのに。最後の最後で下手を打った。みんなが『学友や学校生活との別れ』に涙した、と思いこんでくれているのがありがたかった。

 私の声は、届かない。一番届けたい人に届かない。

 海斗、君はどうだったの? 誰とも喋らなくなって、自分の世界にこもりきりになって、たった一度しかない高校生活、本当に楽しく生きていた?

 やっとのことで、自席へ戻る。五十センチ隣には、海斗がいる。小さな町出身の私達。同姓が多くて、海斗もやっぱり『霧島』で。入学当初、それで私達はからかわれた。幼馴染で慣れない都会への進学で、お互いしか気を許せなくて、くっついて行動していたから。「新婚さん」というからかいの言葉が、プライドの高い海斗を傷つけた。名前で呼び合っていたことも、私達には当たり前のことだったのだけれど、今は気にしなかった自分達が、都会の子よりも子供っぽかったのだと理解している。

 だけど、海斗はどうなんだろう。まだみんなのことを許せないんだろうか。

 コンマ五メートル。私達の今の距離。この三年間のいろんなものが、私と海斗をそれより近づけさせてくれなくなった。




 一緒にお風呂に入ったり、プール遊びをしていられたのは幼稚園まで。小さな田舎の町しか知らない友達から見ても、私達はすごく仲がよく見えたらしい。その頃もからかいの言葉はあったのだけれど、海斗も私も幼かったから。高校で言われたその時ほどは、海斗も気にしていなかった。

 中学に入ってから、部屋への泊まり合いっこは何となく禁じられた。それがお互いすごく寂しくて、屋根を伝ってこっそり部屋を行き来していた頃が懐かしい。

 好きな音楽を一緒に聴いたり、君は私のバイオリンの稽古によくつき合ったりしてくれたよね。

 心の中でそう話し掛けながら、ちらりと隣を盗み見る。デザインメガネのフレームは、すごく太くて横顔から瞳を隠す。元々表情に富んだヤツじゃあないから、目が見えないと本当に能面だ。だらしなく伸ばしたままのボサボサ頭は、こんな日でもタオルドライ程度にしか手を入れてなくて。昔だったらよく代わりにセットしてあげていたのに、いつから手も出せなくなったのだろう。

 傷ついた言葉がふと蘇る。あれは間違いなく海斗が吐いた言葉。

“ナルは双子の姉貴みたいなもんだし。そんな風に見たことないから、そういうことを言われると気持ちが悪い”

 見知らぬ顔の女の子。真新しい制服だから、多分、後輩だと思う。校門の脇にある銀杏の下でコクられた海斗は、その子にはっきりそう言った。その子は泣きながら走り去っていった。私の存在すら気づかずに。最後に海斗の目を見たのは、そうだ、思えばその日だった。

 何とも言えない色を浮かべた瞳が、私に「見るな」と強く訴えていた。彼女の恋も玉砕したけれど、同時に私も玉砕した。そう思ってしまったことで、初めて私は、自分が海斗をそういう目で見ていたんだと知ったんだ。

 あの日から、海斗の部屋へ忍び込む窓に鍵が掛けられるようになった。私もカーテンを閉め切っていた。海斗の部屋に面したその窓だけを。親が何度か探りを入れて来たけれど、適当な言葉と練習を重ねてかなり巧くなった作り笑いでごまかした。

 音大へ進むことに決めた私は、ぽっかりと空いた穴を埋めるようにバイオリンの練習に没頭した。もちろん、学業もそれなりに。だけど海斗の部屋にどれだけ音色を響かせようと、窓は二度と開かれなかった。

 作業場になっている海斗の部屋。木の香りとニスの匂いに満ちた汚い部屋。だけど私はそこが一番落ち着く場所になっていた。昔なら、海斗は海斗で、私の部屋が、寝転がれて一番気楽と言って笑ってくれていたのに。

 家と家の距離も、コンマ五メートル。渡り歩こうと思えば渡り歩けてしまうような距離。だけどそこから先には行けない。私と海斗の、永遠の距離。それでも、まさかこれ以上の距離が出来るなんて思ってもみなかった。絶対に届かない場所へ行ってしまう――今日。

 じわりと目に溜まって来る。視界がぼやけて床の模様が揺らぎ出す。

 海斗、私を呼んでよ。昔みたいに“ナル”って。最後くらい、笑ってから行ってよ。姉貴扱いで構わないから。海斗の無表情は、私を怯えさせる。何が悪くて嫌われたのか解らないから。いつの間にかどんどん海斗が遠い人になっていく。何を考えているのか解らなくなって。

 握った拳に、ぱたぱたと涙が零れる。拭うハンカチがもうぐしゃぐしゃだ。

「!」

 ぽん、と拳の上に置かれたメンズ物のハンカチ。思わず顔を上げて隣の横顔をまともに見た。

 だけどやっぱり無表情のまま、耳にイヤホンをつけたまま。来賓の祝辞など聴いていなくて、単語帳を片手にひたすらドイツ語を唇でかたどる海斗がいた。

(あとで返すね)

 と小声で言って反応を待つ。聞こえていない確率は九割九分。なんて思っていたけど。

(いらね。もういなくなるし)

 聴いてくれていたのが嬉しかった反面、返って来た言葉の冷たさに、唇が凍った。




 式が終わってざわつく校内。正面玄関前は大混雑。後輩達が写真を撮ろうと先輩達を捕まえる姿。親同士の挨拶をしているところもあれば、先生を囲んで記念写真を撮っているのはD組だ。

「鳴子ー。こっちこっち」

 親友の美晴が私を呼んだ。その声で渋々振り返る。心の中で、しまった、なんて思ってしまう。美晴は私と同じ、音楽部のメンバーでもある。きっと呼んで来いと言われて探していたに違いない。部の連中とは、このあと約束しているから、その時埋め合わせようと思っていたのに。海斗を探し出す前に見つかってしまった。

「あんた、なんて顔してるのよ」

 美晴が私の腕を取って顔を見るなり、そんな失礼なことを言った。なんて顔って、どんな顔だ、っつー話な訳で。

「霧島弟、でしょ。ったく、この色ボケ女め」

「いっ、色ボ」

「ああもう、じれったい。あんたってホント、面倒くさい女。ほら、さっさと歩く! 重たいんだってば、自分でちゃんとおんなじ方へ歩いてよ」

 美晴ってば、私に何ひとつ言わせない。そのまま私の腕を取って連れて行った先は、部の面子が集まっている一角ではなく。

「美晴、だって、でもみんな待ってるんでしょ。連れて来るって探してたんじゃないの?」

「あんたね、あたしも同じ町に住んでるんだから、あいつのことを知らない訳がないでしょう」

 部の連中に捕まる前に、と言って、彼女が私を引っ張って行ってくれたのは、職員専用出入り口だった。

「カイにはひと駅手前から電車に乗れって言ってあるから。あんたもそっちの駅から乗って帰りな」

 何もかもお見通しの親友は、そう言って下手なウィンクをした。彼女もまた、海斗をそんな呼び方をしてからかわれたひとりだったのだ。だから日頃は「霧島弟」と学校では呼んでいたのに、古い呼び名を口にした。校内で、私と美晴の間だけに通じる隠語。海斗のリアクションがいい感じの時だけ、古い呼び名で彼を呼ぶ。

「美晴、ありがとうっ」

 弾かれたように私は駆け出す。美晴の

「今日こそ決めろ!」

 という言葉でコケそうになった。そんな時間さえ惜しいから、コケずに猛ダッシュで駅に向かって走ったけれど。花束と卒業証書を胸に抱き、そしてもうひとつ、目に見えないものを抱いて、私は走った。


 コンマ五メートルを縮めたくて、私は走る。海斗が待つ改札口へ。私ほどからかわれなかった美晴を間に挟み、海斗からの答えを待つばかりだった私も、今日で卒業したくって。

 だから、冴えないエナメルバッグを提げたブレザー姿を見つけた時は、ただでさえ破裂しそうな心臓が本当に暴発しそうになった。

「何慌てて走ってるんだ」

 冷ややかな目で見下ろされた気がした。春の陽射しが海斗の掛けるデザインメガネのレンズに反射して、彼の瞳を真正面からでも見せてくれない。なんて意地悪な太陽だ、と思った。

「だって、はぁ、海斗……待つ、の、嫌」

「落ち着け。息吸え、息」

 う、と言葉を詰まらせる。歪む彼の口角を見て、もっとずっと頬が火照る。あからさま過ぎるぞ、私。もうひとりの自分が私にそう言った。

「で、何。用事って。お前、送別会に出るんじゃねえの」

 駅のベンチに腰掛けて、海斗は邪魔臭そうにそう言った。鎮まり返っていく鼓動。それは深呼吸をして落ち着いたから、という所為だけではなくて。手にした花束が、重たい。体中が冷たくなっていく。春の陽射しはこんなに温かなのに、意地悪な太陽は、私のことだけ温めてくれない。

「座れば」

 無表情のまま顎で隣をしゃくる海斗の隣へ、ためらいがちに腰を下ろした。その距離、やっぱりコンマ五メートル。いつでも、どこでも、コンマ五メートル。学校の席でも、電車の相席でも、家と家の境界線も、何もかも。せめて私と海斗の距離を、その“コンマ五メートル”に戻してから彼に旅立って欲しかった。

「あのさ」

 海斗を見ずに、真正面を向いて喋る。制服姿の人なんて、私達のほかに誰もいない。みんな繁華街へ繰り出して、送別会へ向かったのだろう。別の場所へ行くにしても、この線は田舎方面へ向かう小さな私鉄。この駅を利用して遊びに行く人なんかいない。だから私は『生徒会長・霧島鳴子』じゃなくて、海斗の幼馴染の“ナル”でいていい。頭の中でそう言葉にしたら、少しだけ勇気が回復した。

「高校へ入ってからずっと思ってたんだけどさ。私、海斗に何か気に障ること、した?」

 一気にまくし立てたはいいけど、声が小さ過ぎて、自分でも巧く聞き取れないほど。

「あ? 何だって?」

 尖った声が、私の景色を潤ませる。もう一度言え、っていうこと? それ。

「だ、から、さあ」

 声が上ずる。膝に置いていた握り拳も震え出す。私の声が、海斗に全然届いてない。私の気持ちを、全然海斗は解ってない。ずっと長い時間一緒にいたのに。昔は何でも解ってくれたのに。

 がたん、と古びた駅のベンチが悲鳴を上げた。海斗の小さな「お」というのん気な声にも苛々とした。

「何で学校の外でも、前みたいに喋ってくれなくなったの」

 見下ろし怒鳴る私を見上げ、海斗がぽかりと小さく口を開けた。頑なな海斗のデザインメガネは、陽の光が偏光グラスの色を茶色に変えている。真正面に捉えているはずなのに、海斗の心が解らない。それさえも、波打って来る。私はまるで、深い海で溺れて沈んでいく、ひれの傷ついた魚のようだった。

「窓も締め切るようになっちゃって。全然部屋にも入れてくれなくなっちゃって。私のバイオリンなんて、耳障り? もううっとうしいっていうこと? 言いたいことがあるならはっきり言ってよ! 言ってから、行くなら行っちゃいなさいよ! どうせこれ幸いって感じで縁切りなんでしょっ。だから私が反対しても、平気で勝手に行けちゃうんだ!」

 ささやかな、私の復讐。人目が集まってることくらい解ってる。わざとやってやった。恥ずかしい意味合いで目立つことが、それを嫌う海斗への、小さくて幼稚で、ささやかな復讐。

「気持ち悪いなんて、人と陰口言うくらいなら、私に直接言えばよかったじゃない。顔も見たくないんだったら、そんなグラスなんて掛けないで、消えろってひと言言えばいいでしょう。嫌味なのよ、やることが! 何もかも!!」

 欠片を抱えて過ごすより、見えなくなるほど粉々に砕いて、氷みたいに溶かしてしまいたかった。叫びながら、繰り返す。「さよなら、海斗」と繰り返す。

「海斗なんか、大ッきら」

「お前、ちょっとこっち来いや」

 止めのひと言を口にし切らない内に、強く腕を掴まれた。その力強さにどきりとする。気づけば見上げる角度が随分と上がっていた。いきなり縮められたコンマ五メートルは、この身と一緒に積年の恨みも海斗に持っていかれてしまった。


 駅の裏手にある小汚いトイレの前に連れて行かれ、ようやく私は解放された。また元の距離を保ち、海斗は久し振りに両の目を見せた。

「ふざけろ、お前。何キレてんだよ」

 剣呑な表情が、海斗の怒りを見せつける。覚悟していたものの、いざとなると悲しみの波が押し寄せて来る。決定的なひと言を、私は目を硬く瞑り、身をすくめて待った。

「ガキの頃のこと、本当に何も覚えてねえのな、お前」

 溜息混じりのその声が、妙に寂しげな声に聞こえ、私は自分の耳を疑った。

「ガッコでお前と口利かないのは、俺の所為でお前が碌なことを言われてなかったから。気持ち悪い、って聴いてたんなら、あの女が言ってたことも聴いてたんだろが」

 海斗からそう言われ、記憶を必死で手繰り寄せる。あの時、あの子は何て言ってたんだっけ。

「お、覚えてない……か、聴いてなかった、のかな……」

 彼の目を見るのが怖くて、両耳を塞いだまま、目を瞑ったまま、身をすくめた恰好で、汚いトイレに背をついた。きっと、怒る。海斗も私と同じ、不器用なヤツだから、よく考えてから物を言わなかった、って、きっと怒るに決まっている。

「……馬鹿か、お前は。あの女が余計な噂をばら撒いてたんだってバレバレのこと言ってたじゃねえか。男に媚売ってるだとか、二股掛けてるだとか、担任の平林とどうこう、とか。平林の件なんて、あの女のダチ関係がばら撒いてるホラ話であって、二年の中では笑い話だから気にするなって、ミハが俺に教えに来てた。お前のことを目の仇にしてたらしいから、お前に矛先が行かない返事をしただけだっつうの。どうせ盗み聞きするなら、最初から最後まで聴いてろよな」

 つっけんどんだけれど、話が長い。それだけでも充分過ぎたのに。

「窓を閉め切ったのは、親父達があんまりにも心配するから。お前、正月のお神酒事件も酔っぱだったから覚えてねえのな」

 覚えてないどころか、誰も教えてくれなかった。毎年恒例の近所で集まっての合同正月。無礼講だと言って、初めてお酒を飲んだ中一の時、飲み方を知らず大盃を一気飲みしてぶっ倒れた気がする。

「腹ン中のもん、全部ゲロりやがって。あ、食い物のことじゃねえぞ。こっちの方」

 そう言って、海斗の右腕が上がって行った。見なくても、どこを指しているのか解った気がした。かぁっと頬が熱くなる。今更過ぎるけれど、家に帰りたくないと思い始めた。というか、あの町に帰れない。恥ずかし過ぎて、顔を上げて帰れない。

「バイオリンは、正直ちっと、耳障り。むきになって、その癖上の空で、前よりも全然音が違う」

 もう、いい。何を言いたいのか解ったから。全部、海斗にはお見通しだったんだって解ったから。

 不意に額に圧を感じる。後頭部から、ごん、と鈍い音が響き、痛みが走った。この壁、汚いんですけど。髪が汚れちゃうんですけど。そんなよそ事を言葉にすることで、射抜いて来る視線に必死で耐えた。

「言いたいこと言え、っつったのはお前だからな」

 真剣な眼差しでそう言う癖に、口許が笑っている。意地悪なことをされる予感。子供の頃から、何か企んでいる時の顔。

「お前に反対されるとは思わなかったから、すげえむかついたんだよ。幼稚園の頃、お前と喧嘩した時、俺がお前のバイオリンを壊したよな。お前、返せっつって、泣いたよな。お前が言うから、あの時俺は俺なりに、返す方法を考えたんだぞ」

 そんなの、全然覚えてない。バイオリンはすぐ新しいのを買ってもらえたし。そのあとも変わらず海斗は私のバイオリンを聴いてくれていたし。何も変わってなんかいなかった。ただ、前よりバイオリンに詳しくなった程度で、何も変わってなんかいなかった。

「やっと返す方法見つけて。買って返すじゃ済まねえ話だから。あんなデリケートなシロモノだなんて、ガキの頃は知らなかったし。やってみりゃこれがクソ面白ぇし。人が同じとこまで這い上がってやろうって気張ってんのに、お前が俺の邪魔すんな」

「お、なじとこって、なに」

 やっと出た声はやっぱり震えていて。あんなに戻りたかったコンマ五メートルが、三十センチまで近づいていることに怯えていた。

「俺は、お前みたいに器用じゃねえから、ダチとつるみながら修行も勉強も、とか、出来ねえ。俺には俺の優先順位があるんだっつーこと。お前、自分で自覚してる以上に競争率の高い女だった、って知らねえだろ」

 そんなこと、知らない。そんな風に喋らないで。

 途切れ途切れにぎこちなく語る。グラスを掛けるようにしたのは、つい目で追ってしまうから隠す為だ、とか。でないとまた私がほかの誰かに嫌な思いをさせられるから、とか。変な噂が流れた時に、男子の間では恐々とする話があったとかなかった、とか。出来るだけ目立たずにいることと、出来るだけ私との接触を避けることが、学校での海斗の最優先事項だった、とか。家や街中で素気ない態度を通していたのは、私がゲロってしまった所為でどう対応していいのかうろたえたとか。

「お前を出し抜いて、言いたいことがあったから」

 って。

「な、何、それ」

「あ~、まあ、何だ。ほれ、お前、夢は有名な楽団でソロ演奏すること、っつってただろ」

「うん」

 そんなことまで覚えててくれたのかと思うと、最初に固く誓っていた「けじめをつけて、海斗のことなんか忘れてやる」という決意が鈍りまくって、どうしようもないほど力が抜ける。

「それ、現在進行形だろ? だから音大に決めたんだろう?」

「うん」

 答えと一緒に頷こうとして、まだ海斗に頭を固定されたままだったことを思い出した。

「考えることを教えてくれる学校でした」

 海斗が、私の答辞を口にした。

「お前とこの学校で過ごせたこと、俺にとって、将来を決めるきっかけになった、何よりの宝物だ」

 海斗がそう言いながら、物凄い変な顔をした。私は思わず泣きながら笑ってしまう。

「笑うんじゃねえよ。一発で覚えるの、結構キツいんだぞ」

 その距離、コンマ二十センチ。耳許で海斗の声が私のいろんなところを甘くくすぐる。

「出会ってくれてありがとう。あとから来るお前だから。見送りは要らない。さよならも言わない」

 その距離、もうたった十センチ。

「ひと足先に、ドイツへ行ってる。お前が来るのを待ってるから」

 って手紙をおふくろに預けてあったんだけどな、という頃になって、やっと私の頭は海斗の大きな手から解放された。

「で、さっきの続きだけど、海斗なんか大きら、何」

「!」

 何て意地悪なヤツなんだろう。解っているなら、言いやすいシチュエーションにしてくれてもいいのに。汚いトイレの前だとか、人の負けん気や意地を燃えさせる言い方で敢えて言わせようとするとか、ひどい。

「だ」

 だいっきらい、と言おうとしてそれをかたどった瞬間。

「ナル、待つんじゃなくて、追って来い」

 言い切る前に、海斗との距離がゼロになる。待ち焦がれた彼の呼ぶ名前が、私の口の中で、爆ぜた。

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