一季節について思うこと
音楽なるものの不思議について話し合おうにも、何の友も居ないことに気付いて、私は眠りこける。
思考なるものの儚きについて話し合おうにも、何の理屈も通らないことに気付いて、私は眠りこける。
それは一筋の、思考の前で呑んだくれているあれら言葉未満の亡霊たちの、何という悲劇だろう。言葉の前、神の前に愛撫を受ける肉体の雷。
こうして私が何の準備も無く、言葉というものの前に立たされる時、ただ歩くことさえ困難になることに私は気が付く。さあ歩こう、あの扉を開いてしまおう、太陽がいくらそっぽを向いて人間のことを気に留めなくても、風の心地よいのに任せて春一番の靴を編もう、と考えていても。ここは病院でもない自室でしかないのに、私はただ立ち上がってカーテンを開けて、健康なるものの方へ、詩情だとか情緒だとかを捜しに、空元気の文明を尋ねに行こうと決断しても。私は歩くことも、日を見ることも無い。思考とは一体どのような比喩によって表されるだろうか?
象牙の塔。内的なものを重視しすぎる者にとってこの上ない罵倒である。出られない。閉じ込められている。余人に言い含めておくのは、世界のどこにも悲劇と喜劇は存在しないこと。
「私は象牙で出来た思考に閉じ込められている!」と私が言う時。文明と理性の結晶たる≪皆さんご存じのアレ≫は仰る。「さあ外へ出て、本を捨てて、考えないで、≪貴方なんか存在しないのだから≫、治療されるべきものがここにはある」そうして彼らは彼らの住まう世界の理を私に締め付けてくる。無差別的な電気のかつ消えかつ結ぶ間に、私はそこから逃走する。
「私はここに苦痛と悪の華を咲かす」と私が言う時。髑髏で出来た歴史学の思い出が、今日も真空の言葉を話す。
別に詩を書こうとは思っていないにも関わらず。私にとって詩とは、詩的なものとは、何の準備も出来ていないものであります。それは何よりも、あらゆる要素を差し置いて、準備が出来ていないのであります。準備が足りていないのではありませぬ。準備していないだけなのです。一者というものがあります。私が立ち合い、面と向かうことを強要される時、目線の先にあるのが一者でありますが、そのような一者に対して何の準備もしていない時、私は詩を書くしかないのです。詩を書くしかない時、それしか出来ない時というものがあります。しかしそれすら出来ない時があるということは、詩が存在するのは極めて中立な時間です。それは準備が出来ていないといえど、ほんの少しだけ準備したのです。その微妙な宙づりの振幅に浮かび上がってくるのが、詩と言うものであります。
これが詩だとお思いですか。これはただの一頁であります。地獄に落ちていた手帖の一頁であります。