トイレ
階段を登り終えると、より一層不気味さが増した。
今にも物陰から姿を表して襲いかかってきそうな感じがする。
注意深く周囲を見回していると、かえって不安が募っていき、恐怖心が膨れ上がっていった。
「ここだな」
先輩が扉の前で立ち止まる。噂のトイレだ。
情報の出どころはわからない。誰かがデマを流したのか、それともネット掲示板やSNSで作られた話なのか。
噂を流されてもおかしくないほどの不気味さが漂っている。
「入るぞ」
「……はい」
今すぐにでも帰りたい気持ちがあったが、ここまできて逃げ出すことはできない。
それに一つしかないライトを持っているのは先輩だ。
もし今逃げるならば、暗闇の中を一人走っていく必要がある。そんなことをする勇気は僕にはない。
ボロボロの扉はあの世と繋がっているような迫力があった。
軋む音が鳴り、トイレの景色が露わになる。
真っ白なタイルと三つ並んだ個室の扉。
壁際に追いやられた小便器にはカビが生えている。不快な匂いが鼻奥をツンと刺した。
「花子さん」
三番目のトイレの前に立ち、先輩が扉をノックする。
「……花子じゃない」
「じゃあ、花男さん?」
眉間に皺を寄せる先輩を横目に、思い浮かんだ名前を口にする。
返事がなかったことから名前が違うのだろうと考えた。
とはいえ、まさか本当に返事が返ってくるとは思いもしなかった。
返事があったと言うことは、実際に個室の中に誰かがいるということになる。
噂もバカにできない。
関心と共に自身の不甲斐なさも感じた。
「わかりました。なら勇太さんですね」
先輩はそう言うとトイレのドアノブを握って勢いよく扉を開いた。
「あなたを誘拐と殺人の疑いで逮捕します」
先輩は個室にライトを向けたまま、胸ポケットから警察手帳を取り出してそう言った。
光の先には、無精髭を生やした男が立っている。
白いタンクトップと黒ずんだ身体。
おそらく事件を起してからずっと個室に篭っていたのだろう。
男はポカンと口を開けて先輩を見ていた。
「ちょ、ちょっと待ってください」
男が焦った様子で先輩の腕を掴む。
「どうしたんですか?」
「小さい女の子が逃げて行ったの見なかったんですか?」
「そんな子いませんでしたよ」
淡々と話す先輩を前に、男は驚いた表情を見せた。
女の子どころか、幽霊の一匹とも遭遇していない。
そもそもこんな時間に小さな女の子が廃墟に来るはずがないだろう。
「見間違いじゃないですか?」
「そんなことないですよ。ちゃんと話しましたから」
「あぁ。たしかにさっき男性の声が聞こえたなって思いましたけど」
先輩がそう言って初めて、なぜ先輩が洗面台にライトを向けたのかを理解した。
ちょうどこの真下があの洗面台に当たる。
男の独り言を聞いて、先輩は犯人がどこに隠れているのか予測したのだろう。
あの時、僕に話し声がしたと言わなかったのは、おそらく犯人に話を聞かれないためだ。
「幻覚でも見えてるんじゃないですか?」
「そんな」
「それか幽霊とか。どちらにせよ、女の子は見ませんでした」
「でも」
男が口を閉ざして、僕たちの背後に指先を向けた。
「ほら、そこにいる」
「はい?」
背後を振り返ってみても、そこには小便器があるだけだ。
「今も笑顔で手を振ってるじゃないですか」
「いませんよ?」
トイレ全体を見回してみたが、やはり女の子の姿は見えない。
廃墟に住み着いた幽霊でも見えているのだろうか。
「ほら、君たちの間を通ってこっちに向かってくる」
「あぁ……」
先輩は呆れ返った表情で男に視線を向けた。
僕には男が何を言っているのかさっぱり理解できなかったが、先輩は何かを察したようだった。
「ほらここにいるだろ。小学生くらいの女の子だよ。髪を結んでて目が大きくて、可愛らしい顔立ちで……」
「よくあることなんですよ。加害者が殺した人の幻覚を見ることって。
おそらく、見えているのはあなたが殺害した小学生です」
先輩が胸ポケットから被害者の写真を取り出して犯人の顔の前にやった。
町の小学校に通う女の子の写真だ。
遺族である少女の祖父から渡されたもので、はっきりと顔がわかる写真はこれ一枚しかなかったのだという。
少女は人見知りが激しく友好関係にも消極的だったため、最初は自ら命を絶ってしまったのではないかと予測されていた。
遺体はここから数キロ離れた場所で発見された。先月の頭のことだった。
男は先輩の手から写真を奪い、じっと少女の顔を眺めていた。
「あなたが逮捕されたことが、この子にとっての唯一の救いですよ」
先輩は淡々と告げたあと、ポケットから手錠を取り出して慣れた動きで男を拘束した。
あんなに身構えて廃墟を探索していたというのに、なんとも呆気ない逮捕だった。
犯人はまったく抵抗せずに、先輩の指示通りに身体を動かしている。
先輩が余裕を見せていたのは、こうなると予測していたからなのかもしれない。
「先輩」
男の腕を強く掴みながら呼ぶ。先輩は相変わらず愉快そうな表情で鼻歌を歌っていた。
「どうした?」
「一年前に子供を誘拐した犯人って、こいつじゃないんですか?」
同じ町で起こった事件だ。それに誘拐という容疑も共通している。
一年前の誘拐事件の犯人がこの男だとしても不思議ではない。
「そうだといいんだけどな。まあ、特徴も年齢も違うからおそらく別人だ」
「……そうなんですね」
男の背中を強く押し、早く歩くように促す。
男は肩をピクリと上げて、チラリと横目で僕を見た。
階段を降り、出口へと向かう。
仕事が終わり、恐怖からも解放されたおかげでだいぶ気が楽になった。
「そのうち何か証拠が出てくればいいんだけどな」
「そうですね」
男を車に押し込みながら頷く。
一年前に子供を誘拐した犯人は、まだ見つけられそうもない。