後編
――聖クリスティーナ自治区
それは王国最後の王女であり、獣人国に嫁いだもののあっという間に「殺され」た王女の名前である。
その名を冠したこの自治区では、王女と同じように番だと認定された人間たちが彼ら彼女たちから逃れるように暮らすために整えられた自治区である。
一口に獣人、といってもその性質は様々だ。
執拗に一人だけを求めるものも、ハーレムのように複数人の異性を侍らすものもいる。
それを納得して受け入れるのならばいいが、かの国の民たちは、たいてい暴力的に相手を連れ去ろうとすることがほとんどだ。
所謂ひとめぼれ、に似たそれは、衝動的に認定した相手を連れ去ってしまう。
意思すら確認されずに、風習も風土すらも異なる国に連れ去られれば、それは誘拐も同然だ。
素直に受け入れられるのは、同様に相手をそうだと認識できるものだけであり、あいにくと人族はそれを感じ取る機能はない。
ほとんどのものは置いてきた家族を恋い慕い、望郷の念に駆られ、衰弱していく。
そしてゆるやかに死に向かっていく。
そういった事例ばかりが相次ぎ、そして王女の謎の死と王国への破壊行為だ。
前王国を継いだこの国が、獣人族を毛嫌いするのも無理はない話だろう。
数か月前にこの地へとたどり着いたアリーシャは、すっかりとこの街に馴染んでいた。
もともとの文官としての資質をいかんなく発揮し、こちらでも役場に職場を得、生き生きと暮らしている。
はじめは数人から始まったこの街は、今では二千人を超える規模となっている。
番認定された本人だけではなく、その家族ごと引っ越したり、恋人同士でこちらへと移住してきたり、なんやかやで集落ができ、街が拡大していった。
今ではこの土地でしか採れない果物を栽培し、王都や周辺の地区へと販売して収益を上げている。
成り立ちを考えれば、これほど栄えるのも皮肉なものではあるが。
「そろそろ休憩でも挟もうか?」
ここの行政官のトップであるクロード氏は、蛇の獣人族に求婚された過去を持つ。
やんごとない血が流れている、という噂に信ぴょう性が伴うほどの優雅な所作を持つ優男である。
その直下につくことになったアリーシャは、日々の仕事にやりがいを覚え、また以前と同じぐらい穏やかな職場に居心地の良さを感じている。
「はい、今日は実家から送ってもらったお茶でもいかがでしょうか」
自治区に引っ越してきたからといって、実家との縁が切れたわけではない。
からめ手や痕跡をたどっての追跡、などの複雑な手順をとらない獣人族を相手取っているので、住人の誰もがこういった物や文のやり取りなどは頻繁に行われている。
アリーシャにしても、ことさら実家に執着しているわけではないが、こういった些細なやりとりを得て、両親を安心させている。
「アリーシャさんのところは、とてもお茶がおいしいからね、楽しみだよ、いつも」
そういって、どこからの差し入れの茶菓子を自らも用意しながら、休憩の準備を進める。
クロードは、まだ幼いころにどこからかこの国に忍び込んできた獣人族に見初められたらしい。
連れ去られそうになるところを、周囲にいた護衛たちに守られ、この自治区へと運ばれた。
乳母や専属の女中とともにやってきた彼は、もはやここが故郷であり、守るべき土地となった。
「平和ですねぇ」
「ですねぇ」
のんびりと、茶を口にして、茶菓子をつまむ。
この自治区は、王国を引き継いだ人々が必死の思いで作り上げた結界システムに守られた土地だ。
どういう仕組かは解明されてはいないが、それは獣人からの認識を阻害し、けれどもただの人族には無害な障壁となっている。
ここに逃げ込めば、件の獣人たちは愛しの番を認識できずに、それこそ世界中を放浪しながらもそれらを探し続ける、らしい。
それを非人道的、だとあげつらう国はあるが、それらの国の国民だとて、そういった目に合えば、途端に手の平を返す。
所詮我がこととならなければこそのその紳士淑女的な立場、なのだろう。
「アリーシャさまーーー」
知らない少女がアリーシャへ手を振りながら近寄ってくる。
農作物の視察へとやってきたアリーシャは、その手をとめ、畑の責任者とともに彼女の方へ視線を向ける。
不自然なまでに明るく、するりと少女がアリーシャのそばによる。
「あの、アリーシャ様、お願いがあります」
上目遣いの視線に、何か良くないものを覚える。
責任者の男は口を挟まずに二人の成り行きを見守ったままだ。
「何かしら?よろしければここで伺いましてよ」
ことさらに丁寧な言葉で心理的距離を測る。
どこからみても無害な少女に、警戒しろという本能が告げる。
「いえ、それは、その、ちょっと」
ちらり、と責任者の方を窺う。
「そう、ごめんなさいね、もう時間がないの」
にこやかに、突き放すように事実を告げる。
「でもー」
もじもじと、だが自分の主張だけは覆そうとはしない少女がさらに言葉を重ねる。
アリーシャの右腕に自身の左腕を絡め、逃がさない、とばかりにおねだりをする。
ほほえましい、ともするやりとりにゾクリと背筋に寒いものが走る。
「しょうがないわねぇ」
承諾、ともとれる言葉を口にしたとたん、少女が破顔する。
だが、ばちり、という音がして少女が一瞬のもとに膝から崩れ落ちるようにして気を失う。
「まあ、暑さにでもやられたのかしら」
にこり、と畑の責任者へと笑いかけ、少女を運ぶように依頼をする。
少女は、目を開け、ここが見知らぬ部屋であることを確認した。
ゆるゆると半身を起こし、そして自分に何が起こったのかを思い出す。
アリーシャに近寄って話しかけ、そして。
「あら?気が付いた?」
自分でも知っている行政官であるクロードとともに、アリーシャが少女を見下ろしていた。
「あ、え?」
自分が知る中で最も偉い人、ともいうべきクロードの登場に動揺する。
それを言えばアリーシャも十分にえらい人、なのだけれども、どこか親しみやすい彼女のことは侮っていたようだ。
「で?誰に頼まれたの?」
思考を整理させるまもなく、アリーシャが切り出す。
あの時、あの場所で、このような見知らぬ少女が自分に近寄るのはおかしなことだ。それが、知り合いの子供、でもあれば別ではあるが。
そもそも、唯一ある学校に通っている時間でもある。それをさぼってまで、接触を図る必要性を感じられない。
まして、相談事など赤の他人にほいほいとするものではないだろう。
「まあ、いいわ、わかってるから」
親指と人差し指でつまみ上げるように、見覚えのある指輪をかかげる。
慌てて、それを取り返そうと腕を伸ばす。
つい、と一歩下がったアリーシャがにやり、とした笑みを浮かべる。
「やっぱり、これ。ふーん、これがどういうものか知っているのねぇ」
それを無造作にクロードへと渡し、自らの右腕にはめている腕輪をなでるような仕草をする。
それが、何なのかを少女は知っている。
「こんな搦め手でくるなんて」
「少しは頭が回るやつがいたってことなんだろうけど。これだけ時がたてばいい加減気が付きもするか、ここに」
分かったような会話を二人だけでかわす。
「君も、君の家族もここから出て行ってもらう」
「は?」
クロードの命令にわけがわからない、と無造作に問い返す。
「あたりまえだろう?仲間を売るような人間にここにいてもらったら困るんだよ」
「売る、だなんて」
「そうだろう?この指輪で、君は何をしようとしていた?」
掌に載せた指輪を見せつけ、詰問する。
その指輪が、何かをもちろん少女は知っている。使い方も、そしてどのようにして使うかも教えてもらったのだから。
「あのトカゲ野郎、まだあきらめてないのか」
「そりゃあ、あきらめないでしょうよ、あいつしつこいですから」
顔をしかめて、アリーシャとクロードが会話を続ける。
「でも、あの人、アリーシャさまのこと愛してるって!」
思わず、といった風情で少女が告げる。
自分は、あの綺麗な人に頼まれたのだ、愛する人と、一緒になりたいと。
ずっとずっと、探していたわが半身、と切なそうに語るあの人に本気で同情したのだ。
「ばかじゃない?喜んで受け入れるぐらいだったら、今ここにはいないわよ」
ここにいるのは、みな熱病に浮かされたように求婚する連中から、命からがら逃げのびてきた人間ばかりだ。
どれだけ相手が美丈夫だろうが、美貌をもった魅力的な女性だろうが、こちらが思いを返さなくてはいけない、というわけではない。
「でも、ずっと、ずっと探してたって。かわいそうじゃないですか!」
ここに逃げてきた連中すべてに聞かせてやりたい言葉を吐く。
おそらく、全員からもれなくつるし上げを食らうだろうが。
その証拠に、クロードはそのきれいな顔を思い切りしかめている。
「あのね、あれの前の番がどうなったのかを知ってて言ってるわけ?」
「え?」
ため息をつきながら小首をかしげる。
その仕草はとてもかわいらしいものだが、表情はどこまでも少女への嫌悪感を隠してはいない。
「あれの前の番は滅びた王国の王女さまよ、知らなかった?」
この国では誰もが知る悲劇の王女、それがあの綺麗な男のかつての番であった、という誰も知りえない情報に、少女の思考が混乱する。
「彼女がどうなったのか、もちろん知っているわよね?私にもそうなってほしかったわけ?」
王女は、結婚式の夜に死んだ、そしてその相手である竜人は王国の首都を中心に破壊しつくした。
ようやく、彼に理性が戻ったころには、この国の中心にいる人間たちはほとんどがれきの下に埋もれて息絶えていた、と伝えられている。
そんなおそろしいことを、意味も分からず行った生物、それがあの美丈夫だとアリーシャが告げる。
信じられなくて、けれどもアリーシャがそんなことで嘘をつくはずはない、ということも理解している少女はさらに混乱していく。
「私の場合、生理的に嫌だから、って逃げたわけじゃないの。まあ、もちろん生理的に嫌いだけど。自分があんな目にあって死ぬのが嫌だから逃げてきたの」
「それなのに、なんであんたなんかに私が売られなきゃいけないの?死ねっていうわけ?」
続けざまの罵りに、声も出せない。
「あのさ、君の親か、もしくは親の親が逃げてきたのかは知らないけどさ、無理やりに獣人と結婚させられてたら、今の自分もいないって、わからないかな?」
クロードには、あの獣人との「因縁」を説明してある。
荒唐無稽なそれは、けれどもその立場の竜人が彼女を追い掛け回していた、という事実によって真実であると理解されている。
そう、アリーシャこそ、先の王女であり、おそらく彼女はその魂を継ぐものだ、ということを。
「そんな……」
「まあ、そういうわけだから、君たち関係者はここから出て行って。番認定がもう外れているといいけどねぇ」
少女の、祖母が狼の獣人に番認定されていたはずだ。
そして、その種類の獣人はアリーシャの相手と張るほど執念深い。
まだ生きていれば、この場を出ればすぐさま祖母を見つけ出すだろう。
年を重ねても関係なく、きっとその獣人は祖母に執着し、会えなかった月日を埋めるように囲い込むだろう。彼女の意思などかけらほども気にせずに。
アリーシャを昏睡させる魔法が組み込まれた指輪を握りしめ、クロードとアリーシャはその部屋を立ち去る。
残された少女は、長いこと、その場に呆けたまま身動きがとれないでいた。
「……結局、夫婦で残したのね」
調べてみれば、まだ危険人物が生存していた祖母は、やはり外へ出すのは危険だと判断された。
そして、彼女に寄り添って、何もかもを捨ててこの土地へ来た彼女の夫も一緒に過ごすべきだと同情されたのだ。
だが、そんな縛りのないその次の世代たちは容赦なく放逐された。
この皆が寄り添いながら生活している優しい土地を捨て、祖父母の代とは逆に、ここの何もかもを捨てて外の世界で生きていかざるを得なくなった。
それは、他の者たちへの新たな戒めとなった。
危険を直接感じたものだけではなく、そうではないものへの教訓としてこの地で語り継がれていくのだろう。
「平和ですねぇ」
「ですねぇ」
アリーシャとクロードは今日も茶菓子をつまみながら茶を飲みかわす。
この平和が、いつまでもずっと続くように。
外であがいているあれ、のことなど気にする暇がないように。




