前編
アリーシャ・ファーレンが生まれたファーレン家は、とても古くから続く家であり、ほんのりと貧乏で、けれどもとても仲の良い家だと有名だ。
仲が良い、というところから弟妹はわくほどいる。
その家の長子、長女であるアリーシャは個人的な理由と、経済的な理由から結婚などはなからあきらめ、職業婦人として生きていく予定をたてていた。
学園はもちろん奨学金、食堂で短期労働をしながら生活費を稼ぎ、さらに上の学校へも自力で進学。
予定通り公的機関の文官として仕官して、なおかつ仕事が終わってからさらなる労働をこなす毎日をおくっている。
それを苦痛とは思わない、わずかばかりの仕送りしかできないことを嘆きながら、それでも日々を精一杯過ごす。
どこにでもいる、とは言えないものの、それほど珍しいわけでもない労働者人生を送る彼女には、とある秘密がある。
誰にも告げたこともないそれは、彼女の人格形成の一端に、深く、深く、非常に深くかかわるものであった。
「お嬢様、よくできました」
にっこりと微笑みながら、教え子である少女をほめる。
彼女は最近成りあがってきた商家の一人娘である。
貴族制度などとっくの昔になくなったものの、そういう風土が完全になくなったわけではない現在において、お金はあるものの伝統がない、という家は、形式的なものにあこがれをもつのかもしれない。
お金は全くないが、形式的なものがまあまあ古くから伝わるファーレン家の長女として、なくなってしまった伝統だの、形式だのを教えてもらいたい、というご家庭はかなりの数にのぼる。
その中でも、割合とおっとりとして、とても金払いのいいレイチェル嬢の家はとてもいい副業先である。
レイチェル嬢も負けない笑顔をアリーシャへと返し、習ったばかりのお辞儀を披露する。
正直なところ、それを見せる場は、ほとんどなくなってしまってはいる。
けれども、彼女が宗教関係の公式な場や、はたまた隣国のちょっといい家、に嫁ぐさいにはいい教養となるのかもしれない。
一息をついて、これまた教えるべき所作である、お茶の場へと移動していく。
給仕が素早く茶を注ぎ、レイチェルはぎこちないながらも茶菓子を綺麗な所作で口へと運んでいく。
口にしたとたん、本気の笑顔があふれ、少しだけマナーがおざなりとなる。
それをことさら咎めることはせず、おっとりとアリーシャ自身も茶に口を付けた。
――すさまじい轟音と爆風。
それらが咄嗟にかばったアリーシャの前髪に触れる。
硬質で大きな音がなり、さらにガラスだのが落ちていく音が続く。
ぞくり、と嫌な気配を覚え、アリーシャはそれをもたらしたものに視線を向ける。
レイチェルは何が起こったのかもわからず、大破したベランダへと続く扉へ顔を向けたままだ。
飛び込んできた警護のものたちは、優秀なのだろう、さっと雇い主の娘である彼女を保護し、後方へとさがる。
ガラスの破片など気にしたそぶりも見せず、不条理な一場面をもたらせたものは、アリーシャをただ一筋見据えたまま立ちすくんでいた。
そう、それらをもたらしたのは「人間」らしい何かだ。
平均的身長であるアリーシャより頭二つ分は高いであろうそれは、ひたすら美しい顔をのせていた。
恐怖を覚えるはずのレイチェルや警戒しなくてはならない警護のものたちが、一瞬ほど息をするのを忘れるほどに。
レイチェルを守る様に対峙していたアリーシャは、その美丈夫を確認し、舌打ちをする。
おもむろに、いつもの彼女からは想像でもできないほどの素早さでアリーシャが彼に近寄る。
レイチェルは二重三重に驚きながら、先生が走っていく方向へと目を向ける。
こんなときですら、少し見惚れてしまうほど、闖入者は魅力的な美貌をたたえている。
「何しにきやがった」
かけらも、ほんの少しも予想もしなかった言葉がアリーシャから迸る。
彼女が彼の右手首をつかんだ瞬間、ばちばちという何かが爆ぜるかのような音がする。
美丈夫は目を見開いたまま、膝を落とす。
すかさずちょうどよい高さに来た首筋に、アリーシャの蹴りが飛ぶ。
思い切り体を振り切り、首ごと薙ぎ払うようなそれは、わけがわからない、という顔をした男を床へとたたきつける。
さらには追撃のように、首元に自らの掌をあて、再びバチバチという音をさせて彼の意識を完全に刈り取る。
ぱんぱん、と、やり切ったかのような顔で、手をたたき、無造作に彼のベルトをつかみ上げる。
いくらなんでも、と、まったく追いつかない思考でレイチェルが心配をすれば、アリーシャは軽々と彼をつまみ上げ、歩き出す。
割れた窓ガラスを自らはよけながら、ベランダへと侵入。
そして、本当にやすやすとかの男をベランダから放り投げる。
「せんせいーーーーーー」
ここが二階だということに気が付いたレイチェルは、駆けつけて確認をしようとする。
それを片腕でひょいと持ち上げてとめ、いつもの笑顔でアリーシャが窘める。
「お嬢様、淑女らしくもありませんよ」
いや、それをあなたが言うの?
という疑問を呑み込む。
なんとなく、彼女の笑顔に逆らってはいけない気がした。
いつしか集まった使用人たちも、よくわからないままうなずくだけの人形とかしていた。
「申し訳ございません」
雇い主である主人と、その夫人、そして令嬢であるレイチェルがいる部屋で、座ったままではあるが深々と頭を下げる。
通されたのは応接間で、普段ならアリーシャは利用しない。
あくまで客人に対応するための部屋であり、彼女は令嬢の部屋へ直接訪れる権利をもっているため、足を踏み入れたことはほとんどない。
「先生、頭をあげてください」
一代でこの商会を築き上げただけはあり、彼は非常に肝が据わった人物だ。
だが、今日、これまでの出来事は全くの想定の範囲外である。
よもや、自分の娘の部屋へ入ってきた侵入者をか弱そうな見た目の家庭教師が叩きのめすだなんて、誰が想像できるというのか。
「先生、すごかったのよ!」
レイチェルは得意げだ。
アリーシャの一撃一撃が、ほぼ必殺ともいえる殺意がこもっていたことなど気が付いてはいない。
しれっと彼女の右腕についている腕輪は、頑強な個体の意識を失わせるほどの電撃をはなてる機能をもっている。
完全なる殺意を持って所持しているただの武器である。
「娘も守っていただいたことですし」
夫人はその現場をみていない、おっとりとしながら商会長の夫人らしい鷹揚さで応える。
完全に気絶した男をみた主人は、腑に落ちない、といった顔で、それでも妻の答えに頷く。
単純に考えれば、あれは娘の部屋へと強引に入り込んだ犯罪者だ。目的は不明だが、警備の厳しいこの屋敷に堂々と入り込んだ男を苦々しく思っている。
「いえ、あの、あれはおそらく私を目的にしたものかと」
「「は?」」
夫唱婦随するかのように疑問符がきれいに重なる。
商売人として、あちこちに敵をつくる自分の家と、歴史だけはあるが、のファーレン家を比較すれば、自分のところに弱みがあるといっても言い過ぎではないだろう。
だが、目の前の女性がそれを否定する。
「あれ、竜人でしたよね?」
気絶した男の頭部から出た角のようなものを確認した主人がうなずく。
竜人、とは、アリーシャやレイチェル一家とは異なる種族のことである。
大きなくくりでは獣人、と言われる彼らは、人間とは違いそれぞれの獣の特性を引き継ぐ、いわば人間と獣がまじりあった生き物だ。
その特性は個体間で大きく異なり、どちらかと言えば獣より、人間より、ちょうど半々、どちらかに極端に寄っている、と幅広いものだ。
かの竜人がその特性がいかほどなのかはわからないが、完全に見た目が人間と同じ、ではないところから、竜の性質が色濃く残っているのだろう。
だからこそ、アリーシャがあれを叩きのめしたことが心底不思議なのだ。
主人の目の前に座る少女、とも呼べるアリーシャは、非常にか弱い体躯をもった女性だ。
細い腕は重いものなど一切持たずに生活していたかのようでもあり、きめ細やかな肌は苦労など全く知らないかのようでもある。
育った家庭から想像すれば、そんなことはありえない、と言えるのだけれど。
実際、彼女はその外見で、非常に面倒なことに巻き込まれることも多々あった。
ひたすらそれらを躱し、いなし、潰してきて今の彼女がいる。
主人の肯定の仕草に、アリーシャがため息をつく。
「あれは番を探している獣人族です、ほんとうに、ほんとうに迷惑な話ですが」
心底嫌そうに呟くアリーシャに、主人が首をかしげる。
確かに、そういった風習がある、ということはこの国ではことさらに有名な話だ。
この国の成り立ち、建国にまつわる忌まわしい出来事に起因するあれこれは、おとぎ話の形でも、教訓の形でも、親から子へと伝え続けられている。
だが、その数としてはそれほど多くはない。
一生のうちに身近で感じることはほとんどない、といって過言ではないだろう。
なにせ、この国はかの国とは正式な国交を開いていないのだから。
「ご実家の方にそういった事例が?」
歴史だけはある、というファーレン家を思い浮かべる。
確かに、そういった不幸な事故が起こっていてもおかしくはない。
「まあ、そんなところです」
アリーシャは曖昧に肯定する。
本当はそれどころではないが、説明するのが面倒なためそこはごまかすことにした。
「あいつらは、というかあの種族は執拗です。そして思うままにふるまった結果がどうなるかを想像もしない」
これは侮蔑、といった表情なのだろうか。取り付くしまもないほどアリーシャは嫌悪の表情を崩さない。
「まあ、確かに、昔のことを考えれば」
この国の最大の禁忌事項、に触れながら主人が答える。
昔々、この国が今の形ではなかったころ、王国最後の王女が竜人といわれる種族に嫁いだことがある。
彼らは強大な力をもち、知恵も力もある竜人が王となり国を束ね、周辺国家にも影響を与え始めたころ、その王がその王女を見初めたのだ。
ただ一人の番である、という求婚の言葉とともに。
たった一人の王女である彼女を嫁がせることを認めていなかった王を説得し、単身かの国に嫁いでいったのはその王女自身だ。
それが王国を強大な国から守るただ一つの手段だと信じて。
だが、彼女のその思いはあっけないほど簡単に崩れ去った。
彼女の、死という結果をもって。
名実ともに竜の花嫁となった彼女は亡くなり、たった一人の番を失った王は狂うままに王国を滅ぼした。
王国側としては意味がわからない。
愛すべきたった一人の王女を差し出した結果が、圧倒的暴力による王国の崩壊だ。
王国は終わりをつげ、残った国民たちが必死の思いで立て直しを図る。
獣人とのかかわりを一切絶つ国として。
そして今の国が立ち上がり、貴族や王族といったものはいなくなったものの、国民の代表者たちがかじ取りをする国として誕生したのだ。
忘れがたい獣人への忌避感とともに。
「おそらくあれも本質は同じです。ですので今日限りお暇させていただきます」
再びきれいに頭を下げたアリーシャを、残念そうに、だが納得ずくで夫婦はうなずく。
ただ一人レイチェルは呆然と、嫌だと叫ぶ。
「先生!どうして」
「あれは、忘れません、また来ます。このようなご迷惑をかけていいわけはありません」
「でも」
「あれだけ丈夫だと、さすがの私も殺せはしません。処分してやりたくはありますが」
物騒な言葉がまろびでる。
すでにアリーシャは淑女の仮面など捨て去っている。
「先生!」
「大丈夫ですよ、お嬢様。遠くへ行くわけじゃありません、自治区へいくだけですからね」
夫人はレイチェルを抱き寄せ、頭をなでる。
思いのほかこの教師になついていた娘を慰める。
「……わかった、さっそく手配しよう。これぐらいはさせてくれないか」
すべてをわかっている主人の言葉に、アリーシャはようやく嬉しそうにうなずいた。
レイチェルの家庭教師であり、文官を正業としていたアリーシャは、この日を境に姿を消した。
それは、この国の建立時代からある、とある法律に基づいて行われたものである。
珍しくもそんなカビが生えたような法律が執行されることを眺めながら、商人の夫婦はため息をついた。