手の平の星
父が死んだ。海難事故だった。
懇意にしている外国の貴族を訪問した帰りの事だ。
母はもっと前に死んだ。病気だった。
現在でも治療法の確立されていない、不治の病だ。
そんなわけで、私は一人になった。
私は、まもなく十六歳になる。
◆
「入りなさい。今日から、ここが貴女の部屋です」
「はい、シャーウッド様」
身寄りを失くしてしまった私は、マルグリア・シャーウッド女伯の庇護下に入った。本来ならば私の身柄は父の主人である国王陛下預かりとなるはずだが、私の知らないうちにシャーウッド伯がその権利を譲り受けたのだという。
なぜそんな事をしたのか、私はよく知らない。
分かるのはただ一つ。私――エスティア・フォレスターは、今まで会った事もない女性と共に暮らさなくてはならなくなったという事だけだ。
「…………」
「…………」
食事の時間は、あまりにも静かだった。シャーウッド様は、食事は必ず家族でとる事が好ましいと主張したが、しかしだからといって団欒するような空気はなかった。
ただ黙々と食べ、食べ終わったら部屋に帰る。ならば、顔を合わせる事になどどれほどの意味があろうか。結果的に、私たちの食事は陰気な顔を見せ合うだけの時間となってしまっている。
家族ではないからだろうか。血のつながりがなくては、仲良くなどなれないのだろうか。
私は、そうではないと思う。
かつて、母から聞いた、年の離れた幼馴染。家同士に血のつながりはなかったが、それでも年の離れた妹のように愛していたらしい。身分違いの、富豪の娘。商人としてたった一代で財を成した豪商であった。
血が繋がらなくとも、情は生まれるのだ。
それは愛情であったり、友情であったり。家族の間に生まれるものと相違ないほど強いものが。
ならば、現状の問題は当人同士にある。シャーウッド伯か、あるいは私の方に。
「なぜ、シャーウッド様は私の後見人になられたのかしら?」
「……私には分かりかねます。意見を言うような立場でもありません」
メイドのエミリーは、いつもそんな事を言う。使用人として理想的ではあるが、私の求めている答えではなかった。
「ねえ、エミリー。あなたはこのお屋敷にいて長いの?」
「母の代から仕えております」
「へえ、珍しいのね」
意外かもしれないが、使用人の転職はありがちな事だ。むしろ、三年間同じ屋敷で働く者の方がはるかに少数派である。
「シャーウッド様はどんな方なのかしら?」
マルグリア・シャーウッド女伯爵。大陸内でも珍しい、女性の身で爵位を賜った才媛である。
彼女がこれまで行ってきた社会奉仕活動は枚挙にいとまがない。恵まれない子どもへの支援、女性の社会活動の推進、街道における治安維持強化などはその最たる例である。
十六になると同時に結婚したが、その男はわずか数年で戦争に命を落とす。二人は子宝に恵まれなかった。
私が知るのはそこまでだ。
好きな音楽も、苦手な食べ物も、人となりも何一つ分かっていない。
「ご主人様は素晴らしいお方です。才色兼備。質実剛健。全ての貴族があの方のようであれば、この国は今よりはるかに豊かでしょう」
「……ええ、そうね。そうかもね」
仲良くする方法を考える上で、どういった人物なのかを知りたかった。かつての母と顔の知らない幼馴染のように、私もどうにか打ち解けたいと願っているのだ。
だが、それにはどうやら時間がかかるらしかった。あるいは瞬く間、それとも悠久の時間が。
日々の生活の中で、私とシャーウッド様が話す機会はほとんどなかった。私は貴族女性として習い事や、お茶会などの付き合いがあるし、シャーウッド様にもご自身のご用事がある。唯一顔を合わせるのは食事の時だが、どうにも物を食べながら話すのは苦手だ。何か一言二言話す程度ならばまだしも、仲良くなる程話し込む事は難しく思えた。
なので、私たちはいつだって黙々と食事をとる。
その時間が、私には悲しくて仕方がなかった。
——お母様、お話しして。
——まあ、甘えん坊さんね。
いつだって、眠る前に思い出す。まだ母の生きていた時の事を。
——お父様、ごきげんよう。
——やあ、ごきげんよう。
いつだって、起きた時に思い出す。まだ父が笑っていた時の事を。
二人とも優しかった。私は、恵まれた子どもだ。両親と話す時には、こんなに悩んだ事などなかった。なのに、なぜ今はこんなにも困っているのだろう。
母は、あの時何と言っていただろうか? 他人と親しくなる上で、何が大切なのかを聞いた気がする。
思いやりだっただろうか。相互理解だっただろうか。そのどちらもが、何とも漠然としている。友達になろうと言葉に出して友達になる事などないように、きっと確固たる方法などないのだろう。
それでも、私はどうにかしたかった。気まずいままずっと過ごすなどごめんだからだ。
「お、おはようございます。シャーウッド様」
「……おはよう。何をしているのですか?」
「えっと……あ、編み物をお渡ししたくて……」
朝食前のわずかな時間、勇気を出してシャーウッド様を訪ねてみた。貴族であると同時に活動家でもある彼女と話すには、この隙間時間を狙うしかない。淑女の趣味としてありがちな編み物は、取っ掛かりとして無難であるように思えた。
「これはなんでしょう?」
「えっと……猫のハンカチです……」
私はあまり器用ではないので、出来についてはイマイチだ。だが、こういったものは出来不出来を問うようなものではないだろう。少し小恥ずかしくはあるものの、一生懸命気持ちを込めて編んだ。
ハンカチなんて基本的なものだが、私なら三日がかりだ。
「いただきましょう。良い出来です」
「っ! はい!」
自分で言うのもなんだが、お世辞にも上手くは作れなかった。網目も不揃いで、ところどころ数を間違えている。シャーウッド様は、気を遣われたのだ。全くそんな必要などないのに、この私を気遣って言葉を選んだ。
その事実が、この上なく嬉しい。仲良くしたいと思ったのは、私だけではないのだ。
その日の食事は、心なしか美味しかった。いつも通り会話の乏しい時間ではあったが、それでも全く気まずくはなかった。
楽しい。父と母を失くして初めて。不安でいっぱいだった心が、ほんの僅かに満たされ始めた。
「シャーウッド様、クッキーを焼きました。ご一緒にいかがでしょう。……ご迷惑でなければですが」
「頂きましょう」
少しぎこちないが、それでもまるで本当の親子のようだ。いまだにシャーウッド様の心根は分からないものの、深い感謝を抱き始めている。
あるいは、もう一人の母と呼ぶに足るだけの存在となりつつある。
その日、私はシャーウッド様と食べるためのお菓子を焼いていた。最近では少しずつ要領を得て、様々なものに挑戦している。シャーウッド様は、そのどれもおいしいと言って食べてくれた。
場所は、スティルルーム。ハウスキーパーの部屋の隣にある、使用人たちがティータイムで楽しむためのお菓子を作る部屋である。キッチンは、貴族の子女が入って良い場所ではないため、頼み込んで、その部屋を借りた。ただお菓子を作るだけならば、十分な素材と機材が揃っている。
「……よし」
私にしては、珍しく渾身の出来だ。ずっとクッキーばかりを作っていたので、今日はカップケーキに挑戦してみた。お砂糖をふんだんに使ったケーキは少し贅沢すぎる気もするが、楽しすぎてつい奮発してしまった。
見栄えも悪くない。ケーキを入れるカップにまでこだわったのは正解だった。
そろそろシャーウッド様の仕事の時間だ。一緒に食べるのならば、急がなければ。
「最近お嬢様はずいぶんと機嫌がよろしいのね」
部屋から出ようとして、外から声が聞こえてきた。使用人のものだ。
「どうやら、シャーウッド様に随分と懐かれたようよ」
「まぁ、あの堅物のシャーウッド様に懐くお子様がいらっしゃるのね」
その声には聞き覚えがある。時折エミリーと話している仕事仲間だ。しかしエミリーと違って、あまりシャーウッド様に対して好意的ではないらしい。
盗み聞きなどはしたない。そう思い扉を開けようとするが、その次の言葉はつい聞こえてしまった。
「シャーウッド様が、親切でご自分の後見人になったと思っているのよ」
動きが止まる。止まってしまう。
「あら、違うの? 私は、あの方がいつも行っている慈善事業の一環なのかと思ったわ」
「フォレスターの荘園は優良土地であると評判だもの。後見人になれば、儲け話としてこんなにおいしいものもそうそうないでしょう。そもそもあの方がわざわざ出張らなくたって、エスティア様は国王陛下が後見人となられたはずよ」
「なるほど、うまい話には裏があるのね」
儲け話。シャーウッド様にとって、私はそんな薄っぺらな存在なのだろうか。
愛しつつあるのは私の方だけで、あの人からは違うものが見えているのだろうか。
貴族の後見人という立場は、意外かもしれないが儲けになるのだ。
私が父から相続した荘園からの収入は後見人預かりになるし、十六歳になればおのずと持ち上がるだろう結婚話ともなれば、貴族にとって無視できない利益となる。その利益を得るために、大金が動いたり裁判が起こる事もある。
中には、誰彼構わず後見人の権利を求める貪欲な人間もいるくらいだ。
もしかしたら、シャーウッド様もそうなのだろうか。
一度疑うと、もう信じられなくなってしまう。それ自体はまるで責められる謂れなどないものの、しかしどうしても私の心によくないものが生まれる。
嫌だ。こんな気持ちのままシャーウッド様と接するのは。とてもではないが、震えずにはいられないくらい。
「お嬢様、どうかされましたか?」
エミリーが、私の顔を覗き込む。部屋に帰るなりベッドに座り込み、ずっと俯いている私の顔を。
「もしやお身体が……」
「いいえ、いいえ……なんでもないわ。本当に、なんでもないの」
涙は出ない。泣くような事ではないのだ。私がいやしくも温もりを求め、私がわがままにも疑ってしまっているだけなのだから。疑われているシャーウッド様ならいざ知らず、私は涙を流すような立場にはない。自分勝手に傷ついた以上、それをこれ見よがしにするほど恥知らずな事はない。
だから、ただ俯く。本当ならばそれすらやめたいと願いながら、いつもの通りに振る舞えないでいた。
十分。
三十分。
一時間。
おそらくそれくらい時間が経ち、わずかに深く息を吸う事のできる程度まで落ち着く。そのままフゥっと息を吐き、定まらない視界で部屋を眺めた。
きっと怯えているように思えるだろう。初めて、この家に来た時のように。
ため息を一つ。ゆったりと立ち上がる。
そういえば、ケーキをスティルルームに置きっぱなしだ。
私が無言で部屋を出ると、エミリーもついてきた。できたメイドだ。こんないい子にすら、私は気を遣えないでいる。
恥ずべき事だ。胃袋から何かが込み上げてくるほどに。
貴族の屋敷には、使用人のみが使う空間が設けられている。それは道であったり、部屋であったり。スティルルームもそのうちの一つだ。そんな場所に私が現れるので、使用人たちは大層驚いたらしい。普段ならば邪魔にならない時間を見計らうというのに、今ばかりはうっかりとしていた。
恥ずかしい。貴族にあるまじき行為だ。
早く部屋に帰ろう。ケーキは、エミリーにでもあげよう。
こんな気持ちのまま、シャーウッド様に会う事などできないのだから。
……そう、思っていたのに。
「あ……」
「おや、おはようございます」
スティルルームの扉を開けると、思いもよらない相手がそこにいた。
マルグリア・シャーウッド。この屋敷の主人であり、私の後見人。そして、今はまだ会いたくなかった相手である。
「シャーウッド様……えっと、私は……」
「今日のおやつはこれですか?」
「え? は、はい」
シャーウッド様は、置きっぱなしのカップケーキを指差す。
「あの、何でここに……?」
「今朝はずいぶん遅いので、何かあったのかと迎えに来たのです。どうやら杞憂でしたね」
「そう、ですね……」
そのまま、スティルルームで、いつも通り会話もないおやつの時間となった。いつもなら楽しく思うが、今日は少し苦しく悲しい。
「あ、あの、美味しい……ですか……?」
「ええ。また腕を上げましたね。食べるたびに美味しくなります」
「そ、そうですか……へへ」
「…………」
笑おうとした。溢れたのは、へつらうような、卑屈な笑みだ。
どうしよう。目を見る事ができない。見ずに解決するはずないというのに。
「どうかしたのですか?」
「あ、いえ、えっと……」
「言いにくいのなら構いません」
「いや! そうではなくて!」
私のせいだ。私が勝手に期待して、私が勝手に落ち込んでいる。シャーウッド様に非などなく、本来ならば気を遣われる事すらはばかられる事態である。そう思ったからこそ、私は誤魔化すような言動をしてしまった。
しかし、すでに気を遣わせてしまった以上、隠し立てはむしろ不誠実だ。
「えっと、シャーウッド様は、何故私の後見人に……?」
「……それが、貴女の悩みにかかわるのですか?」
「……はい。その……後見人としての利益のために、私を近くに置くのだと聞いてしまって」
「なんですかそれは!」
シャーウッド様は声を荒げる。
「誰がそのような事を!」
「め、メイドが……」
「まったく……使用人の噂話なんて真に受けないでください」
「すみません」
意外だ。シャーウッド様は、普段からあまり感情をあらわにする方ではない。しかし、今は本当に腹を立てているらしかった。私が知る中では、今までで最も怒っている。まさか、ここまで怒るなんて思わなかった。
私が目を丸くしていると、少ししてシャーウッド様の気は少し落ち着いたようだ。ため息を一つ付いたのち、私に向き直った。
そして、少し恥ずかしそうにこう言う。
「貴女がエメリア様によく似ていたからですよ。あまりにも」
「え……?」
エメリア。
私の想像している通りの人物ならば、シャーウッド様は私が思っていたよりも遥かに私を想ってくれている。
何せその名前は――
「私が、母に似ている……?」
「はい。まさしく生き写しです」
「は、母をご存知なんですか!?」
母の生き写し。
たったそれだけの理由で、私を引き取る。まず間違いなく、浅い縁ではないはずだ。
母は、あまり交友関係の広い方ではなかったと聞いている。決して他者を寄せ付けないわけではないが、関係性はあくまで浅く、友と呼べる相手は数えるほどしかいない。
その中の一人が、シャーウッド様。
……いや、シャーウッド様は、貴族の家に産まれたわけではない。
近年の国への貢献、そして亡き夫の働きが認められ、国王陛下から伯爵位を賜ったのだ。本来、平民に与えるには過分な地位ではあるものの、彼女は更なる貢献を続ける事によって陛下の判断が間違いではない事を証明してきた。
つまり、母がまだ私と同じ歳の頃、シャーウッド様は貴族ではない。
もしも、平民でありながら母と友人であるというのなら、その心当たりはたったひとつだ。
血の繋がりはなく、身分違いで、それでもなお友情を築いたたった一人の少女。あるいは本物の妹のように愛し、同じく愛されていると確信していた相手がいた。
「貴女は……マルグリア・エルドア様ですか……?」
「……生家の名前はエルドアで間違いありません」
目が離せない。つい今までは、目を合わせられなかったというのに。どうしても、釘付けられてしまう。あるいは、叫んでしまいそうになりながら。
シャーウッド様が私から目を逸らした。頬を赤らめて。あの、女傑で知られるシャーウッド様が。
愛らしいと思ってしまった。十五も年上の女性を。
思わず、手を取ってしまう。触れずにはいられなかった。
「な、なんですか……?」
「シャーウッド様。貴女、母を愛していましたね?」
「……っ」
ずっと、考えていた。シャーウッド様は私に、遠い誰かを重ねている気がする。
「な、何故そう思うのですか?」
「分かります。分かるのです。貴女を見るだけで、ハッキリと」
子供を見るほほえましさではなく、娘に対する愛おしさでなく、もっと別の感情を。その感情は、決して悪意ではない。だからこそ、私はシャーウッド様を信頼していたのだ。もしも、これが母に対する愛によるものであるならば、私はすべてを納得できる。
こんなものは、簡単に分かる事だ。なにせ、私も……
無意識に、シャーウッド様の手を取った。年齢を感じさせないきめ細やかな肌と、整えられた爪が美しい手だ。どうやらほんの僅かに温かいようだが、その熱を感じる事はできなかった。私もまた、暑くて仕方がないためだ。
「私を見てくださいますか?」
「な、なにを……」
「良いのです。しかし、いつかは私を見てくださると信じております」
うれしかった。シャーウッド様の目は、初めて私を見ていたのだ。今は亡き母でなく、確かの今ここにいる私を。
彼女と共にある事が、何よりもうれしい。願わくば、これからもずっとそうありたいと願っている。
◆
恋を得た。それは身近な人だった。
私よりずいぶん年上の方だが、そんな事は何も気にならない。
愛を得た。あまりにも幸せだった。
ずっと幸せでいられる気がしてならない。胸が高鳴っている。
そんなわけで、私はもう一人ではない。
私は、まもなく十六歳になる。




