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ソロキャンシリーズ

ソロキャンする武装系女子ですが婚約破棄されたので傷心の旅に出たら——?

作者: ルーシャオ

徒然なるままに書いてたら四万字になりました。

 私はイグレーヌ。バルドア王国モーリン子爵家の次女であり——位はかなり低いが王位継承権を持っている。


 まあちょっと待って、我が家は厄介なのよ。


 まず、我がバルドア王国の法律では『王位継承権者の子が双子ないし多胎児である場合、最後に生まれた子にのみ王位継承権を付与する』となっている。これは一時期王家で双子が三組生まれて、一気に王位継承権者が増えたことと、争いを少しでも減らすために取られた措置で、今もなお現役の法律であるがゆえに、モーリン子爵家には私の母であるモーリン子爵夫人アンブロシーヌと私という二人の王位継承権者がいることになる。ちなみにだが、私の母は現国王の九番目の妹だ。だから末席ではあるものの王位継承権がある、というわけだ。とはいえ、母は病気療養のため静養先の別荘に籠りきりで、年齢的にも王位は望めないことから実質的にモーリン子爵家の王位継承権者は私だけだ。


 そのせいで、私はとにかく双子の姉に気遣って生きてきた。


 幼いころ、私がおもちゃで遊んでいると姉がやってきてこう言うのだ。


「イグレーヌばっかりいいおもちゃがもらえるのね。王位継承権を持っているからでしょう?」


 これにいちいち反応するのが父モーリン子爵である。


「ああ、違うよアヴリーヌ! イグレーヌ、おもちゃをもらっていいね? アヴリーヌにも遊ばせてやらないと不公平だろう?」


 そうなると、決まって私は姉アヴリーヌへおもちゃを渡さなければならなかった。口答えをする雰囲気ではない、王位継承権をもらえなかったかわいそうな双子の姉のために、となるのだ。


「……はい、お父様。お姉様にあげるわ」


 私はそのたび嫌な気持ちになったが、王位継承権をもらえなかった姉のために嫌な顔一つするわけにはいかない。


 それに、次代の王位を継ぐ可能性のある若い王位継承権者のみお城に呼ばれることもあり、それに対しても姉は文句を言ってきた。


「イグレーヌはお城へ行けるのに、私は行けないのね。ああ、羨ましいわ。お城でどんな楽しいことをしているのかしら」


 何だそれは、と私は不快に思ったが、説明したって姉は話を聞かない。お城では公式の場に出なければならないときのために最低限のフォーマルマナーを教わるだけ、同世代の子どもたちはきちんとしているから無駄口ひとつ叩かない。それに、子爵家の令嬢と話したってしょうがないとばかりの態度で、話しかけたって冷たくあしらわれるだけだから会話もしない。まったく楽しくないところに、王位継承権を持っているからというだけの理由で押し込まれ、どうせ活用するころには忘れているだろうマナーを教えられるだけだ。


 そんな調子で、私は何かをもらってもことごとく姉に取られる。双子の姉アヴリーヌのほうがきらびやかで、高価で、質がよくて、珍しいものを持っていなくてはならない、と母の目の届かないモーリン子爵家屋敷では暗黙の了解ができていた。


 だからと言って——婚約者まで渡さなくてはならなくなるとは。






「イグレーヌ、お前との婚約は破棄する。モーリン子爵に頼んで、アヴリーヌと婚約することにしたよ」


 わざわざ朝からモーリン子爵家屋敷にやってきて、私の婚約者であるラングレ侯爵家次男ランパードはそう宣言した。


 今日は友人たちを招いてのガーデンパーティの日だ。お城のように、とはいかなくて、我が家もそれなりに財産があるため数十人くらいの規模のパーティなら余裕でこなせる。やってくる貴族令嬢たちのために取り寄せた一番摘みの紅茶(ファーストフラッシュ)に、王都でも人気のパティシエに依頼して長テーブルいっぱいに並べられた色とりどりの甘いお菓子、男性陣には生ハムやローストビーフ、焼きたてのパンはどれもふわふわ——そんな浮かれた雰囲気の中なのに、ガーデンパーティの開始前に私の気分を台無しにしたランパードは、屋敷のエントランスで衆人環視の場だというのに私を指差して、とんでもないことを言い放つ。


「お前よりアヴリーヌのほうがお淑やかで、可愛らしくて……何よりお前にずっといじめられてきたそうじゃないか」

「は? どういうこと?」

「そうやってとぼけるということは、事実なんだな。王位継承権を持っていることを笠に着て、家ではやりたい放題。そう聞いたぞ」


 まるで招待客たちにも周知させるかのように、ランパードは私の正体を暴いているのだ、とばかりの正義感たっぷりの言葉だ。


 ——ランパード、ここまで馬鹿だったんだ。


 私は激しく落胆した。ランパードは侯爵家次男坊という恵まれた生まれ育ちで、顔だって美人のお母上譲りの——それにしては中の上くらいだが——そこそこの美男子だというのに、残念ながら甘やかされた結果、きわめて思い込みが激しく何でも自分の思い通りにしたがる厄介な性格をしていた。政略結婚だから私も目を瞑っていたが、まさかランパードから婚約を破棄してくるとは思いもよらなかった。それをしたかったのは私だ。私のほうがずっと我慢していた。絶対。


 ざわつく若い招待客たちも、驚く使用人たちも、状況が呑み込めていないらしく誰も割り入ってこない。つまり、私はこの馬鹿げた茶番劇に自分で対処しなくてはならないのだが、正直なところ嫌いな男との婚約の破棄を子どものように手放しで喜ぶわけにはいかない。


 何せ、貴族同士の結婚はおおむね政略結婚だ。結婚する当人たちの意思ではなく、家そのものや家長たる当主の意思によって決定されるものだ。そこには数多の損得勘定があり、決してわがままで覆していいものではなく、婚約に関する契約書だってきちんと数十枚以上の規定事項を記した文量を誇るのだから、どれだけ重大な話かなどそれこそ子どもでも分かる。


 とはいえ、ランパードは私の父であるモーリン子爵に頼むとまで言った。婚約する両家の当主たちが同意するなら、確かに婚約破棄も可能だ。何事もなく同意するなら、だが。


「はあ。ランパード、一応聞くけど……ラングレ侯爵もご承知のことなの?」


 ここでランパードは目を泳がせ、痛いところを突かれたことをあからさまに隠せていなかった。


「ま、まあな。父上はお忙しいから詳しくは話せていないが、話せばきっと分かってくれるだろうさ」


 何という杜撰な婚約破棄の計画だろうか。せめて自分の父親の承諾くらい得てから、婚約破棄を宣言するべきである。


 だが——私もランパードほど馬鹿ではない。この話の裏に、元凶がいることは直感的に察知していた。


 その元凶と思しき人物が、エントランスの階段を降りてきた。


「ランパード、こんなところにいたのね。あら、イグレーヌも」


 舌っ足らずな声は、たおやかそうに聞こえる。金髪の巻き毛は私よりもふわっふわにカールさせて、絹のツーピースドレスはお姫様のようだ。


 私の双子の姉、アヴリーヌがハイヒールをゆっくり鳴らしながらやってくる。相変わらずお姫様のような格好でお姫様のように振る舞うことが好きで、屋外活動したりリネンやツイードの服を好む私とはまったく異なる。双子なのにね。


 ランパードは助けが来たと喜びをあらわに、私を押し除けてアヴリーヌの前へ身を乗り出した。


「やあ、アヴリーヌ。待たせたね。君との婚約について説明していたんだ」

「そうなのね。イグレーヌ、いいわよね?」


 ——ああ、やっぱり。


 私は無表情になり、すぐに諦めた。


 私の婚約者ランパードを、姉アヴリーヌが欲しがっている。それならば、父のモーリン子爵は断らないだろう。ラングレ侯爵を説得し、双子の姉妹だからどちらでも問題ないとでも言うのかもしれない。


 姉アヴリーヌが私のものを欲しがるのは、今に始まったことではない。昔からずっとだ。手に入らなければいじらしいことを口にし、父に()()()()する。そして私は、王位継承権以外はどんなに大事なものであっても、姉のために欲しがられたものはつつがなく譲り渡すと決まっていた。


 こうなれば、私が抵抗する意味はない。お馬鹿なランパードや姉アヴリーヌ相手に真っ当な道理を説くなんて無駄なことはしない。


 私は、諦めの境地に達しているので特に怒りも悲しみもなく、欲しがりやの姉へ譲る。


「どうぞ、お好きになさって。私には分不相応な男性でしたから」


 くるっと踵を返し、私はエントランスから外へ出る。ここから屋敷内を通ってまっすぐ自分の部屋に帰るのもしゃくだから、ガーデンパーティ会場でお菓子をつまみ食いして、遠回りして戻ろうと決めた。


 ちょうど庭園の門をくぐったところで、私は腕を掴まれ、引き止められた。


「ちょっと、イグレーヌ! あなた、本気で婚約破棄なんか受け入れるの!?」


 私よりもずっと悔しそうに、婚約破棄に憤慨してくれている同年代の友達、マリアンだった。赤みがかった金髪は夕日を浴びているかのように美しく、いつもバーガンディのシックなドレスを隙なく着こなす彼女は私の従姉妹でもあり、ちょっとだけ正義感が強いが誰かを思いやることのできる貴族には希少な人格者だ。


 マリアンは興奮のあまり、私の返答次第ではランパードと姉アヴリーヌへ突撃しかねないほどだ。それはそれで困る、私はどうどうとマリアンを落ち着かせる。


「しょうがないじゃない。お姉様は言い出したら聞かないもの。それに、私のことすっかり悪く言ってるみたいだし、もういいわ。もういい、私、お母様のところに行く。しばらく帰らないわ」


 あんなにはっきりと皆の前で謂れもない私の悪口を言った以上、私がそうでなかったとしたらランパードは大恥をかく。ひいては姉アヴリーヌも泣き出し、事態は混沌を極めることになるだろう。であれば、私はさっさと身を引いて、ほとぼりが冷めるまで雲隠れするほうがいい。あの場にいた人間は大体分かっているだろう、ランパードによる私への悪口が真実であってもでまかせであっても『外野は様子見したほうがいい』案件だと。


 マリアンはそういう打算を抜きにして、私の気持ちを確かめに追いかけてきてくれたのだから、これから私がどうするかくらいは伝えるべきだ——まあ、これが初めてというわけでもないし、マリアンは妙に納得して私の腕を離した。


「あー……()()、一人旅?」


 私はこくんと頷く。母の住む療養地はここ王都からずっと北西にあり、行ってくつろいで時期を見て帰ればちょうどいい塩梅だ。帰ってくるころにはランパードも姉アヴリーヌも私のことなんか眼中になくなっているだろう。


 ただ、マリアンが口にしたように、私は『一人旅』をする。


「うん。大丈夫、ちゃんと騎士領を通っていくから安全よ。お父様だってお姉様にかかりきりで私のことなんか放ったらかしだもの」

「もう、思い切りよすぎない? とりあえず、あなたの風評については私に任せて。できるかぎりのことはしておくから」

「ありがとう、マリアン。表向きは私は傷心で引きこもったってことにしておいて」

「それはそうよ」


 マリアンは神妙に、両腕を組んでぼそっとこう言った。


「王位継承権持ちの貴族令嬢が武器とキャンプ道具一式持って野営しながら旅するなんて、誰も信じてくれないでしょ……」


 そのとおりではあるが、そう面と向かって言われると何だか照れる。


 私はモーリン子爵家次女イグレーヌ。バルドア王国王位継承権を持つ貴族令嬢で——一人旅(ソロキャン)大好き女子なのだ。




☆☆☆☆☆☆☆☆



 翌日未明、私は家出のようにこっそり屋敷を発って、王都の北門から街道を徒歩で北上し、とある宿場町にやってきた。


 活気に満ちた朝市には多くの旅行者が集まっていた。これからの旅に必要なものを買い、または護衛となる傭兵や道案内ができる地元民を紹介してもらうために仲介者を探している。中には春の貢納のため王都へ上る荷馬車を引いた人々もいて、朝早くからあっちこっちがごった返していた。


 そんなところで私みたいな貴族令嬢が目立たないか、って?


 大丈夫。私は一目で貴族と分かる金髪の巻き毛をしっかり三つ編みにして後頭部に編み込み、鹿追い帽子(ディアストーカー)の耳を下ろして隠している。麻のストールを首に巻きつけて顔を隠し、使い古したローブで足元まですっぽり覆い、キュロットと脚半に履き慣れたサンダル姿だ。背中にはレードルとフライパンがぶら下がった帆布製リュックを背負っている。誰も私を少女だったり良家の子女だったりと見ることはないと自信を持って言える。


 露天が立ち並ぶ騒がしい大通りの先、一際大きな店に私は向かう。立派な看板には『ブッシュリー・ダドンクール』、つまりは肉屋だと一目で分かるハムの絵も描かれていた。


 肉屋といえば、一言で言うなら『地域の有力者』だ。人々の主食である肉を扱い、加工し、流通網を維持できるほどの財を持つ。直接生産に携わる農民や牧畜民ではなく、最終的に食卓に並ぶ食材を作る者、食を握る者が強いのだ。肉屋の店主は貴族ではなくても、畏敬の念を払われるに値する名士であることも珍しくはない。


 私は美味しそうなハムやソーセージ、サラミがぶら下がる木製カウンターの中へ声をかける。


「こんにちは、ダドンクールさん」


 すると、中で骨付き塊肉相手に牛刀を振るっていた店主ダドンクールが、ぱあっと明るい顔をしてやってきた。筋肉隆々の筆髭を生やした、健康そうな中年男性だ。


「おお、モーリン子爵家の! 元気かね? また一人旅かい?」


 親しげに応じてくれたダドンクールは、私のことをよく知っている。私が一人旅をするときは、必ずここに来て商品を買っていくからだ。それに、ダドンクールの取り扱う牛肉の骨髄(オス・ア・モエル)のような珍味は絶品でモーリン子爵家屋敷にも仕入れている。


 私は買い物がてら、旅情報を聞いてみることにした。


「うん、ちょっとお母様のところまで。最近はどう? 周辺の天候と治安について教えてくれる?」

「ああ、いいとも。今は旅をするには絶好の日和だ。雨も降らないし、人の出入りが多いから騎士団が巡回を増やして安全を確保している。これが六月中ごろまで続くから、しばらくゆっくりするといいだろう」

「ありがとう! いつもの食料をもらえる?」

「毎度! 加工肉(シャルキュトリー)セット、香辛料、そうだおまけにシチュー用の玉ねぎも入れよう。こんなものかな」


 ダドンクールは楽しそうにカウンター上へごろごろ商品を取り出す。ソーセージだらけの紙袋、麻紐で縛られたサラミ、岩塩と乾燥ミックスハーブ、生のタイムやローズマリー、そして玉ねぎを十個。


 私はリュックから取り出した麻袋にそれらを詰め込み、金貨を一枚支払った。本当はそれほどかからないことは知っているが、わざわざ売り物ではない高品質のハーブや玉ねぎを出してくれたお礼も兼ねてである。屋敷と変わらない品質のものが食べられるし、買いに行く手間が省けた。


「くれぐれもお父様には内緒でお願いね」

「ははは、分かっているよ。気をつけて!」


 ちょっと重くなったリュックを背負い、私は次の目的地へと足を運ぶ。一人旅の前に、必ず寄っていかなければならないところがあるのだ。


 宿場町の北端、商人や農民たちの馬車が並ぶ広場の隣には、古い砦がある。ここはすでに王都の範囲内ではなく、北に隣接する騎士領なのだ。街道を巡回して安全を維持する、万一攻め込まれた際には防衛線を張るなどの役割を持つ騎士領の古い砦だが、建国以来こんなところにまで外敵が攻め入ったことはなく、もっぱら敵といえば街道沿いに湧く盗賊くらいなもので、ここの騎士は盗賊の天敵とも言われている。


 砦の入り口に立つ騎士に案内を頼み、私は古馴染みとの面会にこぎつけた。私がここへ来た目的は、彼に預けたものを返してもらうためだ。


 きびきびと砦の入り口までやってきた、全身を兜と鎧で包んだ壮年の偉丈夫は、私の前で朗らかに慇懃な一礼をした。


「ようこそ、イグレーヌ様。久しぶりですな」


 この人こそ私の古馴染み、ブルックナー卿だ。この騎士領の統治者、砦の騎士団の長である。そして、ブルックナー卿は私の理解者でもあった。


「ええ、お元気そうで何よりです、騎士ブルックナー。置いてある剣とボウガンをお借りしても?」

「分かりました、今持ってきましょう。ちゃんと手入れはしていますからご心配なく」


 ブルックナーはすぐに来た道を戻り、帰ってきたときにはその手に一本の鞘に入った片刃剣と軽量型ボウガン、それにみっちり専用の短い矢を詰め込んだ矢筒があった。片刃剣の柄の先端には、可愛らしい赤いリボンが結ばれ、それには簡素ながらも私のイニシャル——IとMが刺繍されている。ボウガンも持ち手に同じリボンがあった。間違いなく、()()()()だ。


 私は片刃剣を鞘ごと腰の剣帯に差し込み、リュックの左側にボウガンと矢筒を取り付ける。片刃剣は斜めの鍔の根元までしっかり磨かれ、研がれている。


「ふう、落ち着くわ」


 何を隠そう、私はブルックナーへ自分の剣とボウガンを預けているのだ。まさか屋敷に武器を置くわけにもいかず、というよりも私が剣術や弓術を修めていることは父や姉アヴリーヌに言っていない。家族の中では、私へと手ほどきをしてくれた母しか知らないことだ。


 もちろん、一人旅をするためだけに習ったわけではない。王位継承権者として、自衛の手段をきちんと習得していなければならず、そもそも最初に私へ一人旅をやるよう促してきたのは母だ。騎士ブルックナーたちを師として満足いくまで習ったのち、王都から母の療養地までを何度も往復して——ときにトラブルに遭い、無法者を成敗しつつやってきた。


 将来私が王位を継ぐことはないだろうし、おそらく私の子孫が王位継承権を維持することもない。だとしても、今私は母と同じ王位継承権者で、その義務を全うしなくてはならない。私が貴族令嬢らしくある理由は、ただそれだけだ。王位に近く、貴族の身分にありながらみっともない真似をするわけにはいかないからであって、その品位を保つために私は剣術と弓術を習った。子爵家令嬢である前に王位継承権者である私は、ドレスよりも化粧よりも優先されるべき事柄、つまりは自分で自分の身を守る力を持たなければならないのだ。


 私の手にあるタコの数々、うっすら残るあざや何度も擦りむいた膝は努力の証だが、これを知っても双子の姉アヴリーヌは王位継承権が欲しかったと言うだろうか——まあ、それを問うのは意地悪だ。黙っておこう。


 準備ができた私は、ブルックナーへ別れの挨拶を、と顔を上げたところ、ちょうどこんな頼みをされた。


「イグレーヌ様、ひとつお願いがあるのですが」

「何ですか?」

「旅に騎士見習いを二人、同行させてもらえませんか? 入団時期が遅れてまだ野営訓練を受けさせられておらず、早めに経験させておきたいのです。従者と思ってくださってけっこうですので」


 それは、と口に出たが、私はすぐに頭を働かせた。私の護衛にというブルックナーの気遣いか? いや、本当に野営訓練代わりにと思っているのだろう。ブルックナーは私の腕をよく知っているはずだし、騎士の野営訓練もこなしてきたのだから教えてやってほしい、と本気で思っているに違いない。これが騎士見習い一人だけなら男女二人旅として醜聞の種になるから断るところだが、男女三人ならギリギリ大丈夫だろう。


 とても子爵家令嬢に頼むことじゃないなぁ、と思いつつも、私は引き受けることにした。


「うーん、まあ、いいわ。ブルックナー先生の頼みですもの」

「ありがたい。すぐに支度させます」


 そう言って、ブルックナーは近くにいた騎士に伝令を命じる。伝令の騎士は急いで砦の奥へと消えていったが、私がブルックナーと世間話をしているうちに二人の騎士見習いを連れて帰ってきた。


 野営用の大荷物を背負っている二人の騎士見習いは、私とブルックナーの視線に気付いて、慌てて背筋を伸ばして敬礼の姿勢を取る。


「はあ、はあ……ウルス・ウヴィエッタと申します! お会いできて光栄です、イグレーヌ様」

「ハイディ・トフトです。よろしくお願いします!」


 ウルスとハイディ——機敏そうで私よりちょっとだけ背の高いくらいの小柄な黒髪の青年ウルスと、泰然とした長身で足の長い茶髪の青年ハイディは、革と鉄板だけの胸当てやブーツ、軽装の騎士団の青い制服を着て、支給品の両刃剣を剣帯にぶら下げている。ウルスはリュックの横に手の込んだ狩猟用弓を下げ、ハイディのリュックからは釣竿が伸びていた。


 二人へ向けて、ブルックナーは張りのある声で訓令を出す。


「いいか、二人とも。イグレーヌ様を教官と思って、命令には従うように。お手を煩わせるなよ」

「はい!」

「はっ!」


 ブルックナーへ元気一杯の返事を返し、ウルスとハイディは私へ向き直った。


 ——二人とも、なぜそんなにもキラキラ輝く目をして私を見るのか。


 それはまあいいのだが、それよりも言っておかなければならないことがある。私は二人へ、できるだけ威圧感や偉そうな雰囲気を感じさせないよう、微笑んでこう言った。


「気張っておられるところ悪いのですけれど、荷物が多すぎますから減らしてくださいな」


 荷物運びの馬を連れていくわけでもないのだから、とまでは言わなかったことを褒めてほしい。


 ウルスとハイディは顔を見合わせ、それからわたわたとしながら荷物を減らす作業に取り掛かった。




 予定では一人旅(ソロキャン)のはずが三人旅になってしまったが、まあいいやとしかこのときの私は思わなかった。


 後々考えると、もう少しちゃんとブルックナーの意図を考えておくべきだったと思わなくもないが——うーん、まあいいや。




☆☆☆☆☆☆☆☆




 ラングレ侯爵家次男ランパードとモーリン子爵家次女イグレーヌの衝撃の婚約破棄と姉アヴリーヌへの乗り換えが発表されたガーデンパーティの翌日、イグレーヌの従姉妹兼友人マリアンは自らの婚約者であるエルケル伯爵家嫡男フェレンツのもとへアポなしで突撃し、イグレーヌが蔑ろにされたことに憤慨しながら怒りを訴える。


「聞いてよフェレンツ! イグレーヌのところの話、聞いた!?」


 ばーんとエルケル伯爵家自慢の大書斎の扉を開けて登場したマリアンへ、安楽椅子に座りコーヒーを飲みながら本を読んでいた青年フェレンツは至極冷静に、ゆっくりとその理知的な顔を上げて、眼鏡のつるを指で上げながらこう答える。


「ラングレ侯爵の子息が、婚約者の姉に乗り換えたって話だろう? 聞いたよ、女性の面子を潰して、男として貴族としてあるまじき行いだ」


 突撃癖のあるマリアンの扱いに関しては、フェレンツは慣れ切っている。それ以前に、マリアンの常識とフェレンツの常識はそれほど乖離しておらず、貴族の婚約者同士にしては珍しく大変気の合う仲だ。ゆえに、マリアンが怒ることであればフェレンツも怒りを覚えるようなことであり、官僚を目指す勤勉かつ生真面目なフェレンツは婚約破棄などという醜聞(貴族の恥)を許容はしない。


 同意を得たマリアンは、腕を組んで胸を張り、さらに怒りをぶちまける。


「本っ当、そうなの! イグレーヌはもう呆れちゃって、ほとぼりが冷めるまでお母様の療養先に避難よ! ありえないわ、イグレーヌが何をしたって言うのよ!」


 赤みがかった豊かな金髪を振りながら、ドレスのスカートの裾を避けてマリアンは地団駄を踏む。


 それに対し、フェレンツは青金に近い色合いの金髪をかき上げて、手元のハンカチで眼鏡を拭きながら応じる。


「落ち着いて、マリアン。ここは一つ、友人のため一肌脱ごうじゃないか」


 そう言って、フェレンツはマリアンへ耳打ちする。


 フェレンツの作戦を聞いたマリアンは、まあ、とわざとらしく驚いた。


「舞踏会で仕返しを? 大勢の前で、あなたの婚約者はイグレーヌではなくアヴリーヌだったのですね、って言えるわけね! ひどいことを考えるわ!」


 平静な顔のフェレンツはこともなげに追撃の要を伺う。


「ひどいのは婚約破棄をした馬鹿男(ランパード)だ。他にできることがあれば手伝おう、マリアンはどうする?」


 フェレンツ、物静かそうに見えて、その本性はなかなかに凶悪である。すっかりご機嫌に、乗り気になったマリアンは、高らかに一つ手を叩く。


「よし、さっそくお父様に舞踏会を開いてもらいましょう。一応主催の名義はド・ベレト公女マリアンで、フルネームだと分かりやすいかしら?」


 フェレンツはすかさず婚約者の本名を(そら)んじる。


「マリアン・ヴィオレッティーナ・ジュヌヴィエーヴ・マクシミリアン・エメロン・ド・ベレト=バルドア、元王位継承権第二位の王女様が開くパーティだ。どれほど盛大になるやら」

「もちろん、私がどれだけイグレーヌを大切な親友と思っているかを皆に知らしめる一大イベントよ! 国の祝日にしてもいいくらいだわ!」

「そこはまあ、君の実父である国王陛下に相談しておいてくれ」


 きゃっきゃと年相応にはしゃぐマリアンは、すぐさま行動に移す。


 遠縁の名門ド・ベレト公を継ぐために王家から離脱し、王位継承権をも放棄した現国王の長女マリアンは——実のところ、従姉妹のイグレーヌが大好きだった。ただ、マリアンの身分が高位すぎて特定の友人との懇意を知られると政治的に利用されてしまうため、表向きにはバレないようにしているだけである。




☆☆☆☆☆☆☆☆




 私とウルス、ハイディはブルックナーに一時の別れを告げ、古い砦を出発して北上していく。どうせ帰りにはまた会うことになる、それが半月先か一ヶ月先かは分からないだけだ。


 今歩いている、石とセメントで整備された快適な街道——しばらくは丘陵地だが、そのうち森の中に入っていく——をまっすぐ北に行けばアリエスヴェール侯爵領に、だんだん土道に変わる街道をさらに北に行けば隣国トゥリル王国へと辿り着く。


 そこまでは行かず、騎士領の北端あたりで西に進路を変え、私の母アンブロシーヌの静養地であるロスタス山脈麓にある村へ向かうわけだが、ここからの所要日数は天候に恵まれればざっと一週間だ。


 本当は馬車で行けば二日ほどだし楽ではある、でも私はわざと時間のかかる徒歩で行く。なぜなら、父と姉のいる屋敷からできるだけ長く離れる口実になるからだ。一人旅(ソロキャン)が好きという事実よりも、そちらのほうが理由としては大きい。双子の姉アヴリーヌはほとんど屋敷の外に出ないし、ましてや王都の外など論外という深窓の令嬢っぷりだから、母のお見舞いの旅だけは羨ましがられない。母は父と違って何かと口やかましく厳しいことを言うから、別に会いたいとも思っていないのだろう。


 私を先頭に、ウルス、ハイディが縦列に並んで歩く。大型の馬車がすれ違えるほど街道の幅は広いが、まだまだ私たちの他にも人が多く行き交っている。互いに気遣い、邪魔にならないようにするのが旅人のマナーだ。


 そこからしばらくは、会話はなかった。ウルスとハイディは緊張しているのか、私の後ろを黙々と歩きつづけている。さほど早足というわけでもなく、一定のペースを維持していると思うが、私より背の高い二人にとっては遅いだろうか。そんなことを考えながら、快晴の青空の下、春の爽やかな風が汗ばむ首筋を撫でて気持ちよくなってきたころ、ウルスが背後から声をかけてきた。


「あのー、イグレーヌ様、本当にテントはいらなかったんですか? ご指示どおり置いてきましたけど」


 ご機嫌伺いのような、出方を探るような質問に、私は振り返らずに答える。


「だって嵩張るじゃない。寝袋はケチらずにいいやつを買ったほうがいいわよ、私はコールダックのダウンと子羊革でできたマミー型」


 すると、はあ、とウルスから生返事が返ってきた。周囲は遠くで随分前にすれ違った馬車の馬のいななきが聞こえるほかは静かなもので、まだ昼前だというのに街道は人通りもまばらになってきていた。


 無理もない、旅ではテントなど張る無駄な時間も労力もない。それに、盗賊にとってはテントで寝こけている獲物など襲い放題、それを考えれば自らテントにこもって視界と動作を縛る必要はない。もっとも、寝袋も完全に潜って寝るわけではなく、もっぱらマットレス代わりで寒いときは足を突っ込むくらいだ。一日中歩きどおしで疲れているというのに、冷たい土の上で寝るのはとてもつらい。次の日のことを考えるとなるべく体力回復に努めたいのだ。


 まだ納得していないウルスは、もっと質問してもいいと思ったのかどうか、さらに続ける。


「もし雨が降ったらどうするんですか?」

「季節的に降らないけど、万一の場合は防水布(タープ)があるから。寝場所探しは重要よ、それで次の日が楽に過ごせるかどうかが決まるから」


 しみじみ、私は失敗したころのことを思い出す。私だって最初から一人旅(ソロキャン)をしてきたわけではない、ブルックナーや熟練の騎士たちと何度も野営訓練をして、商人の馬車やロスタス方面へ向かう旅人に同行しながら経験を積んできた。それでも、やはり失敗するときは失敗する。大体は慢心して歩きすぎたり、荷物を増やしすぎたり、逆に食料が足りなくなったり、一人きりで途方に暮れたことも一度や二度ではない。野犬や狼に襲われたときは死を覚悟したが——まあ、うん、運がよければ何とかなるものだ。運がよければ。よく考えたら死にかけていた、私。反省しなくては。


「ちなみにですが、食料は……肉は現地調達ですか?」

「まあ、欲しいときはね。加工肉はあるし、別に食べなくても死なないけど、たまに新鮮なお肉が恋しくなるものね」

「同感です! 罠なら任せてください、親父と猟に行ったとき狩人に教わりました!」

「本当? 期待しているわ、ウルス!」


 振り返って見たウルスの顔は、自信に満ちていた。どうやら、リュックに縛りつけた狩猟用弓は伊達ではないようだ。


 そこへ、ウルスの後ろにいるハイディが会話に加わる。


「魚なら何とかなるんですが、川はありますかね」

「釣るの?」

「ええ、趣味で」

「ハイディは釣りの名人なんですよ。捌くのも上手いですよ!」

「へえ、すごいわ! 途中で湖があるから、お願いできる?」

「もちろん。やってみましょう」


 ハイディは落ち着いた声ながらも、やる気は十分のようだ。


 ただ旅をするだけなら、無理に狩りや釣りをして食糧を調達する必要はない。計画的に保存食を用意しつつ目的地へ向かえばいいだけで、何らかのアクシデントでもなければそれでいい。


 しかし、やっぱり人間は何かをしたい。余計だと思っていても、楽しみながら旅をしたいと思うものである。旅の途中に美味しいものや珍しいものと出会ったり、綺麗な風景に見惚れたり、見知らぬ人々と出会って聞いたこともない話を耳にしたり、贅沢かもしれないがそういうことを期待している自分がいる。危険と隣り合わせで面倒な歩きの旅だが、私は好きだ。もっとも——貴族令嬢としては褒められた行為ではないだろうと分かってもいて、寂しい気もするけど。


 調子の出てきたウルスが、さらに肩越しに私への質問を繰り出す。


「ところでなんですが、イグレーヌ様」

「何?」

「イグレーヌ様は、ブルックナー卿の剣術の一番弟子だと聞いたんですが、本当ですか?」


 私は自分の顔が強張るのを感じ取った。前を向いているときでよかった。


 私は顔が見られないようしっかり街道の先にある青々としたリンデンの木々へ視線を集中させて、何とか取り繕った。


「もう、そんなのお世辞よ、お世辞」

「でも、ブルックナー卿は昔は王国一の騎士として名を馳せた方ですよ!」

「だとしても、私は子爵家令嬢なんだから、自分で剣を取るのは最後の最後よ。守りは見習い騎士様に任せるわ」


 よし、上手く誤魔化せたはずだ。私はそう思ったのだが、ウルスとハイディは大真面目にこう答える。


「いや、俺はあんまり剣術は才能がなくて……弓なら引けるんですが」

「私も、馬術ができるからと騎士になるよう勧められたクチです」


 二人の声は、さっきまでの自信たっぷりな態度とは裏腹に、とても消極的で小さい。二人とも剣術に自信がないのか、騎士にしてはあるまじきことだが——二人はまだ見習いだし、あまりつついてやるのもよろしくない。


 何となく会話が途切れ、そのまま、また三人で黙々と歩く。気まずい。


 どうしよう、やっぱり私は剣を使えます、と今言い出すのはだめだろうか。貴族令嬢より剣術が下手だと分かれば、二人の自尊心を傷つけたりしないだろうか。


 私はうんうん悩みながら、結局この日は二日目に着くはずの街道沿いの小さな街まで歩いてしまった。到着したころにはとっぷり日が暮れて、街の入り口には篝火が焚かれていた。


 本当はもっとゆっくり行くつもりだったが、しょうがない。順調に行程を消化していると思って、私は二人を連れて得意先の宿で一泊したのだった。




☆☆☆☆☆☆☆☆




 気まずい空気が解消されたのは、次の日の午後のことだった。


 騎士領の北端で、アリエスヴェール侯爵領に伸びる街道から逸れて、西へと向かう。ここからは馬車の通るような大きな道ではなく、地元民が使う細い小道を通っていく。この小道がロスタス山脈までの最短の道のりであり、馬車道よりも盗賊に遭う確率が低く安全だった。何せ、金目のものを持つ商人や貴族は小道を通らず、しかも熟達した地元の狩人たちがそこいらにいるものだから、弓矢の的にされまいと盗賊も寄りつかない。


 ただし、小道はしっかりと深い森を突っ切っており、石がごろごろ足元に転がるわ大木の根っこが道を横断しているわ、となかなか野生味に溢れている。しかも、ロスタス山脈の麓まで宿泊施設のある街や村はない。食糧の不足や怪我病気など非常事態が起きても対処に困るところだが、野営訓練代わりなのだから問題ない……はずだ。


 小休憩を挟みながらの行軍は特にアクシデントが起きることもなく、ウルスもハイディも文句一つこぼさなかった。特にウルスは森林に慣れているようで、路面の悪い道では私が何か言わなくても歩幅を狭くして歩いていたし、ハイディも街育ちではないのかここまで息を乱していないほど体力に余裕がある。案外、見習いとは言っても実家は騎士階級以上でそれなりに鍛えられているのかも、と思える。


 バルドア王国にはたくさんの騎士がいる。王家や貴族に忠誠を誓う職業騎士のほか、ブルックナーのように政治的戦略的に重要な土地を騎士領として封じられて統治者の側面を持つ騎士もいるし、単なる軍人階級としての騎士の家系も多い。中には貴族を上回る財力を持つ騎士団があったり、バルドア王国軍を率いることを許された司令官クラスの騎士もいて、騎士の身分を持つ者はバルドア王国の上流から中流階級あたりに幅広く分布する、他国にはない独自の階級層を形成していた。同時に彼らは王侯貴族と平民という上流か下流かしかない経済的身分階級の中間に柱のように立つ、中産階級としてバルドア王国を政治的にも経済的にも支える屋台骨となっていた。


 これ、実はすごいことなのだ。他国はほぼ、国のお金の九割九分以上を占める一握りの王侯貴族と、ほんの一分を分け合うその他大勢の平民という経済構造をしているわけだが、バルドア王国に限っては王侯貴族が六割、騎士階級が三割、平民が一割くらいとなる。


 それはどういう意味かって? まず、バルドア王国では王様は絶対的な存在ではない。同等以上のお金持ちなら他にもいるし、忠誠を誓うものの自分の意見は主張する貴族たちや騎士たちの意向を伺ってお金のやりくりをしたり、政治を回していかなくてはならない。だから有力な商人や平民たちを味方につけて貴族や騎士たちと対抗したり、その折衝の中で互いに妥協点を探り合い、互いのことを情報交換して交流が生まれる。この交流が重要なのだ。だって、見下す相手と和気藹々と話し合いはできないし、一方的な関係なら互いを深く知ることもない。そうではなく、同じ国に住む者として連帯意識を持って、ときにお金やものを融通しあったり、婚姻関係を結んだりして絆を深め、あらゆる身分階級が関係を強固にしていくことは——他国の侵略を跳ね除ける防壁として大変有用なのだ。王様を含むすべての国民の中に守るべき自分たちの国という意識を作り、外敵の付け入る隙を与えないことで、バルドア王国は頑強に存在していける。それもこれも、王侯貴族と平民の間にいる騎士階級が身分階級間のクッション兼潤滑剤としての役割を見事に果たしているおかげだった。


 まあ、これは全部、ブルックナーからの受け売りで、私はヘーっと感心するばかりだった。つまり、『騎士は重要』。そういうことだ。


 だから、ウルスとハイディがどういう家の出身なのか知りたいところだが、剣術が得意ではないと言ったあたり、あまり探るような真似をするのは失礼かもしれないと思って私は聞けないままいる。商売が得意な騎士の家は騎士の本業が疎かになっていると批判されるのを嫌がるし、子弟に剣術も教えられないなんてと言われて悲しい家の事情があるかもしれない。気まずい空気の中で無理に聞くことでもないし、と後回しにしていた。


 時折鳥や動物の声が聞こえてくるほかは静かな森の小道で、突然ウルスが私の肩を叩いて止まった。


「静かに。あそこ、鹿がいます」


 思わず私も足を止め、ウルスが指差す先へ視線を向ける。豆粒に見えるほど遠くに、ときどきある木立の下草を食べている鹿の後ろ姿があった。


 私がどうする、と聞くまでもなく、ウルスは狩る気満々で狩猟用弓を手にして、ハイディを手招きしていた。 


「あっちに川ありますね。ちょっと寄り道しましょう。ハイディ、手伝ってくれ」

「分かった」


 小声で短く打ち合わせて、ウルスとハイディはリュックを下ろし、静かに行動を開始した。私は狩猟はあまりやったことがないので、参加はせずここで座って荷物番として見守っていようと思う。


 一流の狩人は、獲物を水辺へ追い込んでから仕留めるという。なぜなら獲物の息の根を止めたあと、美味しく肉をいただくためには素早く血抜きと冷却を行わなくてはならないからだ。


 ウルスは忠実にその手順を守り、ハイディを風下に向かわせて鹿を追わせ、先にある川へと誘い込んでいた。先回りしていたウルスが矢を番え、待ち構えているところに——という考えだろう。しかし地の利のない慣れない土地、狩人も毎回獲物を仕留められるわけではないし、失敗してもそれはそれで、などと私は呑気に慰めの言葉は必要かと考え込んでいた。


 ところが、である。道端の木の根を椅子に座り込んでいる私の耳へ、鹿の甲高い鳴き声が聞こえた。その一鳴きのあとは何も聞こえなくなり、しばらくするとハイディが戻ってきた。精悍なその顔には、ほんの少し笑みが浮かんでいる。


「やりましたよ。ウルスが仕留めました」

「えっ、本当に?」


 このとき、私は割と本気で驚いた。


 ハイディとともにリュックを持って川へ辿り着くと、すでにウルスが仕留めた鹿の内臓を取り出して、川の中へと鹿の体を置いているところだった。石を運んできて川底に鹿を固定している真っ最中で、ブーツを脱ぎ、シャツの袖とズボンの裾を思いっきりめくっている。


 水からざぶざぶと上がってきたウルスは、狩猟用弓と矢筒を拾って、イタズラが成功した子供のように満面の笑顔で私たちを迎えた。


「獲れたのは若い牝鹿(めじか)でしたよ。いやあ、やってみるもんですね」

「へえ、牝鹿(めじか)がいるなんて運がいいわ」

牡鹿(おじか)はこの時期臭いですからね。川も冷たくて気持ちいいですよ!」


 そう言いつつ、ウルスは「へぷし!」とくしゃみをして笑いを取った。


 これにより、どうやらウルス・ウヴィエッタは狩人としての腕ではなかなかのものだ、と証明されはしたのだが——ウルスは確か騎士見習いだったはず、という私の疑問はとりあえず胸の奥底にしまっておいた。弓術に精通した騎士がいたっていいじゃない、うん。


 ——そんなことより、功を立てた騎士を労わなくてはならない。


 私は二人へ、ある決断を伝えた。


「ウルス、ハイディ。今日はここで野営をしましょう。美味しいステーキを作るから、まずは火を熾すための枝を集めて」

「了解です!」

「お任せください」


 二人はキビキビと動き、森の中へ枝探しに走り出す。


 残った私はやることがある。そう——。


「よし、玉ねぎペーストを作るわ! ……目が痛くなりませんように!」


 どすんと地面に置いたリュックから、大きな玉ねぎを二つ。それと小さい木のまな板と愛用のペティナイフが揃えば、ああちょっと待った、安定して座れるところじゃないと。


 覚悟を決めて、私は玉ねぎとの格闘に入った。





 私がずびっずびに涙と鼻水を垂らしながら完成させた玉ねぎペーストと料理用ワイン、急速冷却した鹿の肉、それに砕いたスパイスを加えて、防水加工を施した大きめの皮袋に放り込んでしっかりと揉む。夕暮れの風が冷えてきて、生肉を外に放っておいても問題ないくらいの寒さになってきた。


 ウルスとハイディは一晩燃やす分の量の枯れ枝でいいのに、倒れて大分経った細い木を丸ごと持ってきた。苦手な剣を使って乱暴に木の皮や枝を削ぎ、速やかに川沿いの石を拾ってきて円形に並べ、焚き火の準備を整えた。やっぱり二人とも手慣れている、野営訓練なんてしなくてもいいんじゃないかと思えてしまうほどだ。


 ブルックナーが私の護衛——あくまで女の一人旅は危ないからと親心で——にと二人を付けたのではないか、とさすがに私も勘繰りはじめたが、それよりもそろそろ肉を焼きはじめないと日が暮れてしまう。森の日暮れは早い、私は自分のリュックから鉄製フライパンを引っこ抜く。しかし一人用で小さいため、これで鹿一頭を焼くとなると時間がかかりすぎる——私はウルスとハイディにも協力を仰ぐ。


「二人とも、焼く道具は持っている?」

「一応、フライパンなら」

「私は鍋を」

「使わせてもらっていい? 一気に焼いておかないと、もったいないから」

「そういうことなら全然オッケーです! 鹿の解体を……って、もうやったんですか?」

「うん。食べられる部分は全部削ぎ落として、いらないのはそこにまとめてあるわ。あ、そうだ。脳や舌は食べる?」

「い、いえ、遠慮します……ハイディ、食うか?」

「いらない。いらないです」


 そんな調子で、割と自然に私と二人との間にあった気まずい空気はなくなり、焚き火が熾きるとより口は軽やかに、気分は楽しくなってきた。大人数でのキャンプは、不思議とうきうきする。火を囲んでみんなでおしゃべりをして、そういうのは私——イグレーヌ・モーリンという貴族令嬢のしみったれた境遇をすべて忘れさせてくれた。


「ステーキに、皮袋……?」

「中で漬けているの。前にシェフから習った鹿肉の美味しい食べ方があって」

「へえ……鹿肉って焼くと固いんですよね。干し肉のほうが俺は好きです。ハイディは?」

「私は鹿肉自体が初めてだ」

「あれ、そうだったのか。鹿追いは上手かったのに」

「要領的には羊や馬を追うのと同じだからな」


 熱したフライパンに大きめのバターのかけらを加えながら、私は話を聞き逃さない。


 狩猟と弓が得意なウルス、馬術が得意で羊や馬を追ったことのあるハイディ。どちらも騎士見習いにしては、異色の経歴だ。少なくとも、王都など都市部に住んではおらず、騎士になる伝手のある比較的裕福な家の出身ということは分かるが、ウヴィエッタもトフトも聞いたことのない家名だ。もっとも、私だってすべての王侯貴族と騎士たちの家名を把握しているわけではなく、バルドア王国国境沿いの地域はそれぞれ隣接する国との関係のほうが王都よりも強いことはままある。


 それはさておき、私は皮袋から漬けておいた鹿肉を取り出した。すでに切ってあるので、あとは焼くだけで美味しくいただける。


 石を組んだ焚き火にかけられた二つのフライパンと鍋には、すでにバターが溶けて沸騰し、食欲をそそる香りを放っている。そこへ、私はスプーンとフォークをトング代わりにして肉を放り込んでいく。じゅわっと熱々のバターによって鹿の生肉は色付き、焦げ色がつく。


 忙しなく肉をひっくり返し、フライパンを一つ空けて肉汁の中に皮袋に残った玉ねぎペーストや漬け汁を混ぜ、塩胡椒で軽く味つければソースの出来上がりだ。


 ウルスとハイディはというと——期待に満ちた目は肉に目を奪われ、くださいとばかりに自分の木製皿を差し出している。


 焼き上がれば即皿へと肉を取り出し、私はそのご期待に応えて料理を完成させる。


「というわけで作りました、シャリアピンステーキ! 召し上がれ!」


 木製の皿に、ミディアムレアの肉、肉、肉、バターと玉ねぎ混じりの濃厚ソース! と山盛りのステーキが湯気を立ち上らせてどんと鎮座している。


 待ちきれなかった育ち盛りの青少年二人は、すでに自前のフォークを肉へと突き刺し、大きく開けた口で頬張る。何度も咀嚼して、そしてぷるぷる震えながらの歓喜の声が上がる。


「う、うまー!」

「美味い……!」

「たくさん食べてね、まだあるから」


 ウルスとハイディは聞いているのかいないのか、それ以降は言葉少なにお行儀悪く肉を噛みちぎり、溢れる肉汁で口の周りを汚しながら堪能していた。美味しいようでよかった、私はひたすら肉を焼きながら自分の皿の肉を片手間で食べる。我ながら美味しくできたものだ、うん。


 しばらく三人の間に言葉はなかった。焚き火を囲んで、星空の下で美味しく焼けた肉をひたすら味わい、やがて肉が全部焼けて、満腹になったウルスが地面に転がり、出会ったころよりは表情が緩んだハイディが残りの肉を火から下ろした鍋に集めてくれた。


 美味しい肉、それは気まずい空気も吹き飛ばしてくれるご馳走である。


 ところが、ハイディが気になることを口にする。


「この国に来たときは憂鬱としていましたが、こんなに美味しいものがあるとは」


 言い方が気になり、私はすぐに復唱して尋ねる。


「この国、って?」


 私がじっと見つめているが、ハイディは顔色を変えない。


 やがて、ハイディは冷めたフライパン二つと麻の端切れを持って、立ち上がる。


「フライパン、汚れを取っておきます。手入れが必要でしょうから」


 ハイディは穏やかながらも、私の疑問に答えるつもりはないようだった。さらに突っ込んで尋ねようと、私が腰を浮かせかけたそのとき、ウルスの呻き声が聞こえてきた。


「み、水をください」


 お腹と口を押さえたウルスがうつ伏せになって地面に寝転んでいる。私は慌ててブリキのコップに水を注ぎ、ウルスの手に押し付けた。


 何だか誤魔化された気がする。尋ねてはいけないことだろうか、しかし——そう思いながら、私はそれ以上聞くことができなかった。翌日からもハイディは何事もなかったかのように振る舞っていたため、疑問を飲み込む。


 とはいえだ、シャリアピンステーキのおかげで二人との距離は大分縮まり、世間話やブルックナーの世話になっていたころの話に花を咲かせつつ、私たちはちょっとだけ早足で先へ進む。


 おそらくは、三人それぞれが隠しごとを胸に秘めている。人間、知られたくないことはあるし、それはいいのだが、この旅の中でそれを明かすときは来るのだろうか。明かさなくても仲良くしているじゃないか、そう思いはする。


 でも——まあ、私がブルックナーの剣術の弟子ということはそれほど知られていない、と信じたい。


 だって、貴族令嬢が騎士を負かすほどの剣士だなんて知られたら、それこそもう婚約の話は来ない。そもそも次の婚約の話はあるのだろうか、マリアンが上手く婚約破棄の噂を何とかしてくれていればいいけど。


 時折出かかるため息とじれったさをグッと我慢して、私は同行人のいる旅を楽しむ。うん、楽しんでいたのだ、確かに。




☆☆☆☆☆☆☆☆



 それはイグレーヌが王都を発って四日後のことだった。


 現国王と愛娘ド・ベレト公女マリアンの名のもとに、大規模な宮廷舞踏会(ロイヤル・バル)が開かれたのだ。巷ではマリアンが父である国王にねだって開かせたとか、マリアンの結婚が決まってお披露目するための場なのだとか、まことしやかに噂は流れたが、具体的な開催理由(のきっかけ)については明らかにされなかった。国王とマリアンの思惑を誰もが見通せないまま、招かれては出席しないわけにもいかず、大勢の王侯貴族、そして位の高い騎士たちがバルドア王国でもっとも格式の高い大広間・彫像の間に集う。


 歴代国王とその一の家臣たちの見上げるほど大きな彫像が円形のホールの壁に並び、絢爛豪華なドーム式の天井には古来から伝わる星座図が金と藍石の精緻なモザイク画となってきらめいている。玉座——この日に限っては主催者である国王とマリアンが金の椅子に座り、その背後にはバルドア王国の国宝とも言える五つの宝剣が飾られていた。


 入り口から玉座まで敷かれた赤いカーペットの上を、舞踏会に招待された人々が進んでいく。国王とマリアンへの挨拶にと行列を作り、貴族は燕尾服とナイトドレスを、騎士は所属する騎士団の礼服とそれぞれの故郷の正装に身を包んでいる。確かに身分の差は未だにあるものの、ここにいる人々が分け隔てなく談笑するさまはバルドア王国が誇るべき貴族と騎士の融和の姿であり、理想の体現であった。


 もっとも、まだまだそれが完璧ではないことを、マリアンはよく知っている。


 礼服と黒貂の毛皮のコート姿の国王——四十を超えてから小太りが隠せなくなってきた上にただでさえ薄かった金髪が失われつつある——と、赤みがかった金髪にバーガンディのシックなドレスをまとったマリアンは招待客へ愛想笑いを振り撒く。


「お招きいただき感謝いたしますわ、マリアン様」


 何十番目かの招待客の淑女が、夫ではない若い男性を連れて挨拶を述べる。


 マリアンにとって遠い遠い縁戚の彼女は夫の身分の低さを気にして、アクセサリー代わりの愛人(つばめ)を選んだようだ。確か、歌劇の新人俳優だったか、マリアンはその顔に見覚えがあった。着慣れないであろう燕尾服をきちんと着こなすあたり、彼女は彼にとって上客のようだ。


 それについて何か言うつもりはない。皆似たようなもので、必ずしも伴侶を連れてきているわけではない。マリアンは笑顔と定型句でさらりと受け流す。


「ええ、楽しんでちょうだいね」

「もちろん。それでは失礼を」


 もう一度淑女とその連れは礼をして、楚々とホールの人混みへと紛れ込んでいった。そんなことを数回繰り返すと、ようやくマリアンのお目当ての招待客に挨拶の順番が回ってきた。


 ラングレ侯爵家子息ランパード、ならびに婚約者のモーリン子爵家令嬢アヴリーヌ。仕立てのよい燕尾服に乗っている顔はそこそこ上品なのにこれと言って特筆すべき印象に残らない青年と、うつむいた金髪の巻き毛のご令嬢。窮屈そうなドレスが気に入らないのか、少し目が腫れている。


 とはいえ、マリアンは手加減しない。


「あら、アヴリーヌ・モーリン。お顔を上げなさいな」


 名前を呼ばれたアヴリーヌは、びくっと肩を震わせた。ランパードが促す。


「アヴリーヌ、ほら」

「だって」


 だって——何だと言うのだろう。ドレスが気に入らない、わがままが通じなかった、舞踏会になんて来たくなかった、などと泣き言を漏らすことが許される場ではない。国王の前であり、舞踏会の主催者の前でそのようなぐずりをするみっともない貴族令嬢など存在してはいけないのだ。そのくらいはアヴリーヌもわきまえているのかどうなのか、言葉にはしないが顔を上げることもない。


 マリアンは知っていた。イグレーヌから子どもっぽい姉アヴリーヌについての愚痴をよく聞いていた身として、どうつつけばいいか把握している。


「もっと堂々となさったら? あなたの妹君はどこに出しても恥ずかしくない貴族令嬢ですのに」


 妹と聞いて、アヴリーヌは顔を紅潮させた。一丁前に、妹と比べられて劣っていると見られて、恥ずかしいと思ったらしい。


 すかさずランパードが口を挟む。


「あれのことはお忘れください、マリアン様。ここにいるのは僕の婚約者アヴリーヌです」

「あら、失礼。あなたの婚約者はイグレーヌだったはずなのに、と思ってしまいましたの」


 それを聞いた周囲の人々が、くすくすと笑う。とっくにランパードがイグレーヌを捨てて姉アヴリーヌに乗り換えたことは広まってしまっている、少なくともこの場にいる人々は一度ならず耳にして、馬鹿にしていることだろう。


 縮こまるアヴリーヌへ、マリアンはにっこり笑って指摘する。


「アヴリーヌ、あなたはデビュタントをこなして以来、一度も舞踏会に出たことのない深窓のご令嬢ですものね。ご自身宛ての招待状が届いても、妹君に行かせていたともっぱらの噂ですわよ?」

「それは、私は体調が優れないことがあるものですから、妹が代わりに出席してくれていたのです」

「であれば、普通は丁重に断るものです。あなたが指名されているのなら、あなたが出席することが礼儀というもの。そうではなくて? でなくては、いつまでも相手は出てきもしないあなたへ招待状を出さなくてはならないでしょう?」

「失礼を、いたしました。次からはそういたしますわ」

「次? そうね、次があればの話ですわね」


 それは言外に、「礼儀も知らないあなたを招待する舞踏会がこれ以降あると思っているのかしら?」と言っているようなものだ。意図を察したランパードや黙って聞いていた国王が動く前に、頃合いを見計らったかのようにマリアンの横へ一人の騎士がやってきた。


「殿下、お呼びでしょうか?」


 マリアンは自分の一の騎士——グローリアンに心の中で「よくやった」と褒める。事前に打ち合わせしていたとはいえ、ここまでことが上手く嵌まるとマリアンもしてやったりの笑みを隠しきれない。


 騎士グローリアン、まるで物語の中から出てきたような麗しの美青年は、一気に招待客たちの視線を集め、黄色い声がそこかしこから上がっていた。


「騎士グローリアンだわ。いつ見ても凛々しいお方」

「ああ、何て美しいのかしら、完璧な(ル・シュヴァリエ)騎士(・イデアル)

「唯一マリアン様へ剣を捧げることを許された騎士だもの、まさしく理想の騎士だわ」


 真新しい儀礼用の騎士服に細めの長身を包み、銅色の金の髪を輝かせ、それでいて彼の明晰さも雄強さも微塵も失われることはない。グローリアンに足りないものは主君マリアン以外への興味くらいで、最強火マリアン推しという秘密を除けば確かに『完璧な(ル・シュヴァリエ)騎士(・イデアル)』だろう。


 そのグローリアンは、最前列でマリアンへ挨拶をしていた二人組、ランパードとアヴリーヌへ目線を向ける。


 グローリアンと目が合った瞬間、アヴリーヌはただでさえ紅潮していた顔をさらに赤らめた。


 それをまったく気に入らない様子で、ランパードはアヴリーヌに声をかけて気を引く。


「アヴリーヌ、行こうか」

「え……?」


 すっかり目が蕩けていたアヴリーヌを見れば、誰だって分かる。男漁りに精を出す淑女たちだって、グローリアンに微笑まれるだけで骨抜きにされるのだ。ましてや初心な深窓の令嬢が目線を合わせて微笑まれれば、否が応にも心臓を射抜かれる。


 アヴリーヌはランパードに強引に手を引かれて、そのままマリアンの前から去っていった。


 無論、これで終わりではない。マリアンはグローリアンへ耳打ちする。


「手筈どおりにしなさい、グロー」

「ええ、かしこまりました」


 マリアンの忠実な騎士グローリアンは、主君の命令であれば必ず遂行する。たとえそれがバルドア王国を揺るがすことになろうとも、マリアンがすべて正しい。マリアンの言うことが絶対である。


 そんな困った騎士だが、その実態を知っているのはマリアンのほかにはイグレーヌだけである。この場にいる全員が、騎士グローリアンの本性を知らない。だからこそ、マリアンは堂々と罠を仕掛けられたのだ。


 招待客の挨拶が終わり、赤いカーペットがしまわれて、彫像の間はすっかりダンスホールと化した夜更けのことだ。


 宮廷管弦楽団が緩やかな音楽を演奏する。ダンス初心者向けの楽しげな曲だ。テンポがよく、思わず踊りたくなるようなその音楽とともに、グローリアンは壁際にいたアヴリーヌへ丁寧に誘いの手を差し出す。


「失礼。一曲いかがですか、姫」


 アヴリーヌの隣には当然ランパードがいるのだが、大勢の前で踊りたくないと駄々をこねた婚約者のために壁際にいたにもかかわらず、その婚約者は蕩けた目をして降って湧いた絶世の美形になびいた。


「喜んで」

「えっ」


 ランパードが驚いている間に、アヴリーヌはグローリアンの手を取ってダンスの輪の中に入っていく。


 アヴリーヌは困ったような声で、エスコートしてくれる騎士へと甘えていた。


「私、あまり踊りが得意ではありませんの」

「大丈夫、この曲はそう難しくありません。ゆっくりと足を動かして、リードしますよ」

「まあ、お優しいお方」


 舞踏会で男女が恋に落ちることはそう珍しいことではない。世慣れた男性がおっかなびっくり社交界へ入ってきた少女を優しく導くことは慣習的に多いし、多くの場合男性側は節度をわきまえている。


 ところが、今回に限っては婚約者(ランパード)の目の前だ。恋に落ちた乙女の顔をした婚約者(アヴリーヌ)を見て、激情に駆られることは当然とも言える。


 ランパードは曲の途中でもかまわず突っ切り、鼻息荒くグローリアンからアヴリーヌを引き離そうとした。


「アヴリーヌ! そいつから離れろ!」


 ランパードに無理矢理両肩を掴まれて引っ張られ、アヴリーヌはやっとグローリアンと繋いでいた手を離した。アヴリーヌは至極不機嫌に、婚約者を睨み、責める。


「何をするの? ランパード、踊っているだけだったのに」

「違う! 君の婚約者は僕だ、そいつじゃなくて」

「まあ、嫉妬?」


 図星を突かれたランパードの表情が引きつる。しかし、グローリアンは紳士的に対応し、アヴリーヌはグローリアンの肩を持った。


「落ち着いて、お二人とも。ここは舞踏会、そして国王の御前です。どうかお静かに」

「そうよ。何を怒っているの、ランパード。舞踏会なのだから踊るのは当たり前でしょう?」


 踊っていた老若男女が足を止め、三人を遠巻きに見る。管弦楽団の演奏も止まり、誰かがランパードを止めに入ろうとする——その前に、ランパードの苛立ちは爆発した。


「たかが騎士の分際で、他人の婚約者に色目を使うな! 舞踏会に出てくる騎士の分不相応な卑しさには吐き気がする!」


 その言葉は、グローリアンへの必要以上の侮辱であり、翻っては貴族として分不相応な非寛容さを示した。


 しんと静まり返る大広間の中央で、グローリアンの顔から笑みが消える。


 それを見たアヴリーヌは、親に叱られることを恐れる子どものように怯える。


 自身の言葉の意味と価値を捉えきれていないランパードだけが、無謀にも猛り、怒っている。


 騎士(グローリアン)は今までの物腰柔らかな態度を捨て、貴族(ランパード)へと詰め寄る。


「撤回しろ、ランパード・ラングレ。貴殿は騎士を貶める発言をした」

「な、何を今更! お前がアヴリーヌを誘ったから悪いんだろうに」

「それとこれとは話が違う。貴族が騎士を卑しいと言ったからには、我々は貴族へ忠誠を誓うことができかねる」


 この場にいる燕尾服やドレスを着た人間と、礼服やそれ以外を着た人間の間に、見えない溝が広がりつつある。


 それはバルドア王国にとって致命的な傷だ。その傷を何とかしようと歴代国王たちは苦心してきた。貴族と騎士、そして平民。身分階級の断絶により何度となく誤解やすれ違いを生み、話し合いではなく暴力の嵐を引き起こしてきた。身分の上下で常識も知識も財産も違うことがおかしいのだと大昔に声を上げたのは貴族ではない、騎士だった。それに平民が続き、バルドア王国の貴族たちは彼らの力を恐れて融和を図る方向へ舵を切ってきた。できるだけ懐柔しよう、いやいっそ何世代もかけて身分階級を誰も気にしなくなるほど混ざり合ってしまえば、この問題はなくなる。これまでそう思った貴族が多かったのは、騎士の武力と平民の飢餓が貴族の権威と財産を上回る脅威となっていたからだ。


 しかし、もちろんそう思わない貴族もいる。騎士や平民を蔑み、奴らは自分たちよりも身分が下だと主張する強硬派も貴族の中には密かに息づいている。


 その強硬派であると指差されることは、現代のバルドア王国においては多くの場合恥であり、無用な警戒を生むだけのデメリットしかない。なのに、ランパードはその愚を犯してしまった。彼の貴族としての誇りの中にある無意識下の差別感情が顔を出し、衝動的に家の外で言ってはいけないことを言ってしまったのだ。


 さすがに箱入り娘のアヴリーヌもそのまずさに気付いた。二人の傍らで、おろおろしながら——ランパードを気遣ってこう言った。


「ランパード、謝って」


 それをランパードは、婚約者アヴリーヌがグローリアンに味方したと勘違いした。


 一瞬で絶望し、激昂したランパードがグローリアンの胸ぐらを掴みかかる。


「お前が、アヴリーヌを誑かして!」


 無論、グローリアンはその程度に反応することもなく、冷ややかな目線を投げかけながら仁王立ちして身じろぎ一つしない。


 打って変わって、周囲の貴族の男性たちが騎士や給仕たちを押しのけて、ランパードを黙らせようと必死で抑えにかかった。


「止めろ!」

「ランパード、手を離せ!」

「うるさい、成り上がりの騎士ごときに馬鹿にされて黙っていられるか!」


 人間、止められると余計に口が滑りやすくなるものだ。


 まだまだ侮辱の言葉を吐き出そうとしたランパードの口をネクタイとチーフで塞ぎ、若い貴族たちが彫像の間から凄まじい勢いで担いでいく。舞踏会で失言をして放り出された、という何とも不名誉なことだが——ランパードのちっぽけな名誉云々よりも、はるかに重大な出来事が同時進行していた。


 彫像の間、ダンスの集まりから距離を取り、壁際の椅子に座っていたご老人たち——誰もが顔や手足に傷を負い、無数の勲章がかかった古い騎士団の礼服を着ている——はため息を吐いていた。


「潮時ですな」

「ええ。我々の苦労は水の泡だ」


 彼らの言葉は、ときに国王の命令よりも重い。


 かつてバルドア王国王宮騎士団長を務めたダヴール卿、辺境に騎士領を持ち鉄壁の守りを長年勤めた騎士家の家長たちが、国王の前にやってきて頭を下げた。


「陛下、我々はお暇をいたしまする。貴族の方々の前には、卑しき身分の騎士は不要でしょう」


 身分階級の融和策の一環で、本来貴族だけが参加する舞踏会に騎士たちが参加するようになって久しい。だが、それは見せ物や見下されるために参加しているのではないし、騎士の誇りを傷つけられてまで居座るべきところでもない。


 踵を返したダヴール卿が命じたわけではないが、しかしさあっと潮が引くように礼服を着た騎士たち、そのパートナーたちが彫像の間から引き上げていく。


「な、何を! 待て、ダヴール卿! 皆、待たぬか!」


 これに大慌てなのは、国王だ。思わず玉座から立ち上がって家臣たちに引き止めるよう命じにかかる。


 この状況に青ざめる貴族たち、ランパードとグローリアンが去ったあと呆然と立ち尽くすアヴリーヌ、何が起こったかわかっていない年若い乙女たちや使用人たち。


 何より、まだ玉座に座ったままのマリアンは、笑いが堪えられず扇子で顔を隠していた。


 ——ここまで上手くいくとは、お馬鹿な貴族ランパード様様だ。おっと、主演男優のグローリアンをあとで褒めておかなくては。


 すでに国を揺るがす大事だが、マリアンの企みはまだ始まったばかりだった。




☆☆☆☆☆☆☆☆




 王都を出立して六日経ち、三人旅はとても順調だった。


 昼は何のトラブルもなく駄弁りながら歩き続けて、夜は温かいご飯をたっぷり食べて、星空を見ながらおしゃべりしつつ寝る。この数日間でウルスは火熾しが得意になったし、ハイディは何かを言おうとして引っ込める癖が多くなった。どうやら、私に隠し事はあるものの言っていいのかどうか迷っている、というふうだったので、私は無理させないよう話題を変えるなどの対処に慣れてきていた。私だって隠し事はあるのだから、ウルスとハイディにもあるだろう。うん、でも貴族令嬢が騎士を負かすほどの剣術を修めているなんてバレるわけにはいかない。さらに言えば、母アンブロシーヌがそれを後押しし、ブルックナーをはじめバルドア王国有数の実力派騎士たちを何人も師匠にしていたなどと知られれば、恐れられすぎて本当に結婚相手がいなくなってしまう。乙女のピンチだ。


 幸いにして、この旅ではその剣術を発揮する機会に恵まれていないことが救いだ。ずっとこのまま黙っていられますように。


 森の木立も大分間隔が広がっていき、青空や遠くの風景が見える機会が増えてきた。道は道中の獣道が乾いた土道になり、半分以上土に埋もれた石畳の道となってきた。もうすぐ母の静養地に辿り着く、その証拠だ。


「もぉ〜りもりもりときどきむら〜、リスが松ぼっくりを持ってった〜」


 私たちの先頭を行くウルスが上機嫌で歌っている。


「また変な歌を作っているわね」

「ご機嫌だな、ウルス」


 足を止めず、くるっと振り向いたウルスは確かに嬉しそうだ。


「いやいや、だってあと一日くらいで着くんでしょ? やっと森の中からおさらばだよ、しばらくゆっくりしたい」

「そうね。ロスタス山脈がちらっと見えているから、もうすぐよ。言い忘れていたけれど、もちろん滞在中はうちの別荘に泊まっていいから」

「ありがとうございます。できることがあれば何でも言ってください、お手伝いしますので」


 ハイディは丁寧にそう言った。特にやることはないと思うが、母はしょっちゅう無茶振りをしてくるから、その相手をしてもらうのは気が引ける。母の静養地の別荘にいる使用人は全員ロスタス山脈麓の村落の住民で、やれ仕事を手伝えだとか、雪かきをしろだとか、来客へのお茶出しをやれとか言いつける母は、娘を貴族令嬢とは思っていない節があった。


 あの母を赤の他人に見せるのはどうなのか、と私が悩んでいたところ、ウルスが顔を上げて、道の先に目を向けていた。


「ん? 何か、人が集まってますよ」


 私とハイディは同時に道の先を見る。まとまった人影があり、そこには足の太い農耕馬ではなく背の高く細い馬もいた。


 こんな平和な土地で何事だろう。私はウルスとハイディへ目配せをして、早足で人だかりへと近づく。


 ほんの数分も経たず、私たちは人だかりの構成を判別できるところまでやってきた。馬を連れた若い郵便配達人が一人、まだ防寒着を着ている裕福そうな農民の男性が三人、狩人と思しき弓を背中に背負った老人が一人、腰の曲がった老婆が一人、計六人と一頭の集まりだった。彼らは顔を突き合わせて、心配そうな表情をしている。


 私は進み出て、農民の男性に声をかける。


「どうしたんですか? 何かありましたか?」


 すると、私たちを森から出てきた何も知らない旅人と察したのか、キャスケット帽を被った農民の男性が愛想よく答えてくれた。


「ああ、先週王都で王家主催の舞踏会が急遽開催されたそうでね。そこでまあ、ラングレ侯爵の子息が騎士を馬鹿にしたせいで、大半の騎士が王都から自領へ帰ってしまったんだと」


 そうそう、と狩人の老人が神妙に頷く。


「だから、戦争が近いとまことしやかに囁かれていて、こんなところにまで噂が流れてきたというわけだ」

「いやだわ、昔みたいにこんな辺鄙なところまで巻き込まれるのかしら」

「しょうがないよ。何かあれば山に逃げるしかないね、できるだけ早く続報が来てくれればいいけど」


 うつむく腰の曲がった老婆を、郵便配達人が慰める。皆揃って浮かない顔をしていた。ウルスもハイディも、戦争と聞いて顔を引き締めている。


 ただ、私は——あれ? と思って、何とか頭を働かせる。


 舞踏会、ラングレ侯爵の子息、騎士を馬鹿に、騎士が自領に帰った。これだけのキーワードで私が思うに——貴族のお坊ちゃんという立場から抜け出せなかったランパードが何かやらかしたに違いない、という結論に至った。ついでに、マリアンがそこに絡んでいる可能性も否めない。


 私は一応、外から情報を持ってきたであろう郵便配達人に確かめてみる。


「あの、ひょっとして、ラングレ侯爵の子息ってランパードって名前では?」

「いや、そこまでは知らないけど……とにかく、舞踏会の発案者であるド・ベレト公女はお怒りだ」


 ——マリアンだ。マリアンがやっぱり絡んでいる。


 やらかすことにかけては私よりずっと定評があるマリアン、何をしたらそんなことになるのか。イグレーヌの代わりに天罰を与えたのよ、なんてしれっと言いそうである。


 そのことに関しては、王都から離れた土地の農民でさえ知っていた。


「あの公女様は気が短くて変人だろう? 王位継承権争いでやらかすことを危惧した国王陛下が、名門ド・ベレト公爵家を渡す代わりに王位継承権放棄を迫ったとか」

「騎士たちも最近は国王陛下に反発することが多いから、どうなるんだろうなぁ」


 はあ、と大人は皆揃ってため息を吐いている。


 私といえば、「顔が引きつっていますよ」とウルスにこっそり教えてもらうまで、自分の気持ちに整理がつかなかった。


 何か、この騒動、私のせいなような気がする。嫌な予感を振り払って、私は走り出した。


 母なら何か知っているに違いない。静養地のロスタス山脈麓の別荘まで、もう少しだ。







 私の母アンブロシーヌはまぎれもなく現国王の妹という直系の王族であり、バルドア王国王族らしい絹糸のような長い金髪は四十が過ぎた今も色褪せない。母は威厳たっぷりの元王女という面影を残した女性だが、私や姉アヴリーヌは金髪ながらも父譲りの天使のようなくるくる巻き毛で、凛々しさは受け継がれなかったようだった。


 その母は、山麓の静かな村の片隅にあるモーリン子爵家の別荘で『静養』している。ここは昔、モーリン子爵家領の飛び地だった縁で別荘があるのだが、田舎が嫌いな父と姉は一度も来たことはない。私だけが母のお見舞いに来て、長期間滞在して、王都で嫌なことがあったら逃げてくるところだった。


 そう——母がこの別荘に来てから、年々営々と大改築されてもはや厩舎さえ備えた大邸宅となっていることは、父も姉も知らないだろう。白漆喰の壁に焼き目をしっかりつけた大木の梁が交わされ、飾り窓はモザイク技法でカラフルに彩られている。二つある中庭はもはや中庭というにはふさわしくないほど広く、私はそこで騎士や大人たちから一人旅(ソロキャン)に必要な技術を教わった。もちろん、剣術もだ。


 当然、間取りも広い。三階建てで騎士団がやってきても全員寝泊まりできるくらい部屋数があり、一部屋一部屋がとても広い。これは王宮で暮らしていた母が狭い部屋を嫌ったためで、おかげで幼いころの私が走り回ってもどこかにぶつかったりしたことはない。調度品も村周辺で揃えたものが大半だが、どこか大口資金調達のパイプラインがあるんじゃないかと思えるような銀製品や職人手作りの家具も平気で並んでいる。


 僻地にいながらにして快適な大邸宅を作り上げた母は、お気に入りの庭でお茶を飲みながら私の話を聞いてくれた。


「……ってことなんだけど」


 ランパードからの婚約破棄に始まり、姉アヴリーヌへの乗り換え婚約、マリアンが何とかしてくれると言ったので放ってきて、さっき聞いた王都舞踏会でのやらかしと騎士たちの自領帰還までを母へ伝えると、悠々と母はレースをふんだんに使ったベージュドレスの袖をめくって、私用のティーカップへ砂糖をもりもり三杯も入れてしまった。


「もう、子どもじゃないんだから、そんなにお砂糖いらないわ」

「そう? 自分で婚約者に三行半(みくだりはん)も突きつけられないお子様だと思ったけれど」


 それを言われると私はぐうの音も出ない。しょぼんとオーク材でできた頑丈なガーデンチェアで縮こまる。砂糖たっぷりのお茶は久々の甘味で美味しかった。


 さて、と母はしれっと話題を戻す。


「先の件がマリアンとそれに乗った老騎士たちの策略であるのは確かね。政治を知らない若造の言葉をわざわざあげつらうんだから、計画的なことでしょうね」

「やっぱり。マリアンがそこまでするとは思わなかったけど」


 あの騒動は回り回って私のせいか、とどうにも気が重い。ランパードが一番悪いのはもっともな話だが、一応婚約者として手綱を握れなかった私にもちょっとくらいは責任がある。あと、姉アヴリーヌに「あげない」と言えなかった私の子どもっぽいヘタレのせいでもあるのだ。


 ランパードを見かねたマリアンがとっちめてくれた、まではよかった。しかし現状、バルドア王国の柱である騎士たちと貴族の間に亀裂が入りつつある。


 それをしっかり理解している母は、私へと説明してくれた。


「この国は貴族と騎士、平民をもっと流動的にしようとしている。なぜかと言えば、そのほうが国が強くなるから。硬直化して血縁主義に走った貴族、武力を背景に賄賂を得て肥え太る騎士、搾取の限界に達して縋るもののない平民、その行く末が滅亡なんて歴史上枚挙に(いとま)がないわ。そんな国々の二の舞にならないよう先代国王——我が父上が種々企まれていたというのに、未だに理解していない呑気な貴族が生き残っていたのね。それも出来の悪いほうの我が娘の婚約者だなんて恥ずかしい」


 ——お姉様、言われてましてよ。出来の悪いほうって。


 母としては見舞いにも来ないお淑やかな娘より、貴族らしくなくてもいつもやってくる娘のほうが可愛いのだろう。ランパードの経歴から私の婚約者でもあったことは母の頭からは消え去ってしまったようだ。


 そこへ、私の後ろに立っていたウルスが手を挙げ、驚いたように瞬きしつつこう言った。


「あのー、イグレーヌ様のお母上は静養中では……?」

「静養中よ。夫曰く、「癇癪持ちの妻を静かな環境で治療する」という名目でね」


 私に代わり、母が嫌味たっぷりに答えた。すでに私の父モーリン子爵と母の間に愛情はなく、貴族の義務として後継者である子どもを産んだあとは結婚など書類上のことでしかないのだ。


「私も貴族生活が馬鹿馬鹿しくなって王都からここへ居を移した、というわけ。家族のうち会いに来てくれるのはイグレーヌただ一人だけれど」


 何となく、ウルスは聞いてはいけない話題に入りつつあることを察したのか、口をつぐんだ。ハイディが肘で小突いている。


 母の嫌味が次々爆発する前に、タイミングよく一人の騎士がやってきた。大柄ながらも理知的な顔立ちをして、貴族と言っても通りそうな気品を備えた黒髪の壮年の紳士だ。甲冑と騎士団服と使い込まれた剣がなければ、本当に貴族と間違われるだろう。


 騎士ブレイブリク、長年母に仕えている騎士だ。ブレイブリクは母の横へやってきて、うやうやしく一礼する。


「失礼、アンブロシーヌ様。早馬がまいりました」

「要約して」

「はっ」


 ブレイブリクは手にした書状を開き、さっと読み終える。


 その間、私の後ろが騒がしかった。


「もしかして、銀槍の騎士ブレイブリク……!?」

「こんなところにいらっしゃったのか、道理で噂を聞かないはずだ」


 ウルスとハイディは憧れの騎士を見つけたらしく、密かにはしゃいでいた。


 ブレイブリクは元は母の近衛騎士であり、王女でなくなってからもその忠誠は変わらず、こうしてこの地にこっそり滞在して母を警護している。近衛騎士になる前は勇猛果敢な騎士として長槍を手に戦場で名を上げ、その武勲から銀槍の騎士と称えられている——までは私も知っていた。


「やばい、かっこいいんだけど」

「落ち着けウルス」

「お前だって嬉しそうじゃん」


 二人は私の後ろで、まるで劇場で花形俳優を見た乙女のような反応をしていた。そういうものなのだろうか、憧れの騎士とは。


 母の命令どおり、ブレイブリクが長い書状を簡潔に要約する。


「王位継承権者各位へ、現在王都では問題が発生し、有力騎士家の多くが自領へと戻りつつある。各自、決して玉座に背かぬよう対処せよ。以上となります」

「つまり、国王陛下(兄上)では対処しきれないから、これを利用して王位継承権争いをせずに騎士たちを王都へ戻るよう説得しろ、ということね。無理に決まっているわ、すでに直系の王子たちが手柄が欲しくて動いているでしょうし、私たちも巻き込まれる可能性がある。他にも手紙が来ているわね?」

「もちろん。アンブロシーヌ様へ挙兵を促すものが一つ、母娘揃って自勢力へ入るよう誘いが三つ」

「アリエスヴェール侯爵は?」

「まだ届いておりませんが、今日明日にも来るでしょう。それ次第ですかな」

「そうね、私かイグレーヌを担ぐ後ろ盾に本当になってくれるかどうか、それを見極めてからよ」


 何やら、私は展開されている物騒な政略に置いていかれそうになっていた。目の前で流れるようにスムーズに進んでいく話に、私は待ったをかけた。


「ちょっと待って!」


 ぴたっと母が止まり、私へ微笑みかける。その目は笑っていない。


「何? イグレーヌ」

「お母様、私は王位なんていらないんだけど」

「そんなこと言わないで、もらえるものは病気以外もらっておいたほうがいいわ。あなたの将来を考えて、私は長年ここで各地の騎士たちと連絡を取っていたのよ? 誰も彼もの目を欺いてね」

「それは知っているけど」

「無能は排除すべきでしょう? 国王陛下(兄上)も、あなたの元婚約者も、私の夫も」


 母は時々怖い。腹黒い貴族たちが跳梁跋扈する王宮育ちだけあって、こんな政略はお手のものだ。自分を縛りつけようとする男性たちからあれこれ理由をつけて離れ、ここでゆっくりじっくりと反撃の機会を窺い、牙を研いでいたのだから恐ろしい。


 もちろん私だって、何となくそれは分かっていた。幼いころからこの別荘に何度も来ているし、知らない騎士たちに囲まれることもしばしばだった。母は包み隠さず私へ話してくれたし、まだ話が十分理解できない私は母のためだと思って父や姉には何も話さなかった。そもそも父と姉は母に興味を示さなかったし、私に対しても雑な対応しかしなかったから、当然と言えば当然だ。


 そんな私を母は可愛がって、騎士の真似事をしはじめれば騎士を師匠に剣術を教え、森で探検したいと言えば狩人を連れてきてサバイバル技術を教えてくれた。だから、私は母のことが大好きだ。


 たとえ、ここで話していることが、政権転覆の大立ち回りとこの国の今後を左右する話だったとしても、私はお茶を飲んでいるしかない。だって私はただの子爵家令嬢、剣術ができて一人旅(ソロキャン)ができても、陰謀や政略のことはさっぱりなのだから、黙って推移を見守るだけだ。


 すっかり何もかも諦めた私はお茶を置いて、この村特産のチーズを載せたクラッカーを頬張ることにした。


 一方で、母は私の背中の向こう、ウルスとハイディへ問いかける。


「あなたたちは? 私に言いたいことがあって、ブルックナーが遣わしたのでしょう?」


 そんなこと、私は寝耳に水だ。振り返ってみれば、ウルスはイタズラがバレた子どものような顔をしていた。


「あらま、お見通しでしたか」

「こうなることは分かっていただろう」


 ウルスをたしなめるハイディは、厳かにその場で地面に片膝を突き、敬意を示す。ウルスもそれに続いた。


 そして、二人は至極真面目に告げる。


「ウルス・ウヴィエッタ、テッサリシア共和国より言伝を持ってまいりました」

「ハイディ・トフト、ハルンバール連合筆頭当主の使いでまいりました」


 いきなりの宣言に度肝を抜かれたのは、この場では私一人のようだった。


 二人は異口同音に、私の母へとんでもないことを伝える。


「「ぜひとも、アンブロシーヌ様にこの国を治めていただきたい、とのことです」」


 ——ブルックナー、こういうことは先に言ってよ。


 のどかな僻地の別荘は、バルドア王国に新女王の誕生を望む国内外の騎士たちが集う地になりつつあった。



☆☆☆☆☆☆☆☆




 母は書状の返事を書くと言って、私たちを残して書斎へと上がっていった。


 山裾の放牧地が見える庭には爽やかな風が吹く。とりあえず、お茶は冷めた。


 呆然としている私へ、ウルスとハイディがフォローにやってくる。


「ほら、その……落ち込まないでくださいよ、イグレーヌ様」

「黙っていたことは謝りますから」

「そうじゃなくてー……お母様に」


 そう、母は書斎に上がる前、こう言い残した。


「私が女王になったらあなたは王女、だけど戦う王女として生きるの。ひと段落ついたら士官学校に入学よ、って」


 ブレイブリクがうんうんと納得して頷いていた。


「そこまで剣術を修めておきながら、城に籠って着飾ることはあまりにももったいない人生かと」

「でも、私が士官になれるの?」

「問題ありません。私とブルックナーの伝手でどうにでもなります」


 ブレイブリクはキリッとした顔で保証してくれたが、そこに私の意思は介在していないと気付いているだろうか。


 ——いや、私だって分かっている。


 もし母が女王になるのだとすれば、私はその後継者と目されるだろう。騎士たちが後ろ盾になってくれるとしても、政治に縁のないお飾りの王女様では舐められてしまう。だから、私に経験を積ませ、かつ箔をつけるために士官学校への道を勧めてくれているのだ。母が愛娘の私のためにならないことをしたりはしない。それゆえに、断れない。


「そんなことになったら、一人旅(ソロキャン)できないじゃない」

「まあ、そうですよねー」

「必ずお付きの警護や騎士がいるでしょうね」

「私、別に権力とかそういうのいらないんだけど、何でみんなそんなの欲しいのかしら……不思議だわ」


 はあー……と長い長いため息を吐いて、私はテーブルに突っ伏す。


 私はモーリン子爵家の次女として、ランパードの妻になって、貴族の淑女であることを望まれると思っていた。それに反発する気持ちがなかったとは言えないが、大筋ではもう逃げられないと諦めていたのだ。


 それが何の風向きが変わったのか、姉アヴリーヌがランパードを欲しがって、運命の歯車はぐるりと回りはじめた。たった一週間ほどのことなのに、随分と私を取り巻く環境は変わってしまったようだった。


 今ごろ姉はランパードと縁を切っているのか、はたまた好きな人と思って一緒にいるのか。それさえも分からないが、少なくともランパードは姉を疫病神扱いしているだろうなぁ、と簡単に推測できる。お前を選んだときから運が悪くなった、などと難癖をつけているだろう。


 そんな私の辛気くささを吹き飛ばすように、ブレイブリクは大声で笑う。


「ははは、相変わらずお転婆ですな、姫」

「ブレイブリク……もう、お母様ったら昔より強引になっていない?」


 誰よりも母のことを理解している騎士は、私の実の父よりも父親らしく、心から母を敬愛してくれていた。


「それもそのはずです。長年、アンブロシーヌ様はその才気を見抜かれて警戒され、あろうことか王女たる身分にありながら子爵家へ嫁ぐことを強制されたほどです。虎視眈々と、先王や現国王への意趣返しを水面下で地道に進めてきておられたのですよ」


 どこかブレイブリクの顔に翳りが見えた。母のその過去は、きっと母に何度も何度も悔しい思いをさせて、押し込められる苦痛に耐え忍んできたのだろうことは分かる。そんな母を、ブレイブリクはずっと支えてきたのだ。近衛騎士としての栄誉も、高給も、勲章も何もかも捨てて、ただ一人、忠誠を誓った人のために。


「それで女王になったらお母様が嬉しいってことは分かるけど……私は別に、そういうことは好きじゃないのに」

「ご安心を。アンブロシーヌ様はイグレーヌ様のご意思を何よりも尊重してくださいます。あなたがあまりにも鍛錬に一生懸命だったから、結局一人旅を許してくださったではないですか」

「うん、あなたとブルックナーのおかげで一人旅できるくらいに強くなったから」

「どうですか? このまま、戦う王女として最高位の将軍を目指してみては? それならば我々は全力でバックアップしますとも。大丈夫です、この国の騎士たちはアンブロシーヌ様、ならびにイグレーヌ様が生涯の忠誠を誓うにふさわしい相手と見ております」

「ブレイブリク、それって私の嫁の貰い手がなくなるって思わない?」

「何の、すでにそこの二人はあなたの横を狙っていると思いますよ」

「へ?」


 素っ頓狂な声が出てしまった。私はそこの二人、つまりウルスとハイディをまじまじと見つめ、「どういうこと?」と目で問いかける。


 すると、二人はちょっと恥ずかしそうに、思わずにやけてしまっていた。


「あ、えっと」

「……否定はしません」


 ——OH、逆玉の輿狙いかしら。


 そんな私のモヤっとした感情をウルスがいち早く察して、弁解する。


「いや、そうでなくて! イグレーヌ様には今までにない美味しい鹿肉ステーキをご馳走になった大きな恩がありますから、何だってご命令を聞きますよ! 騎士として扱ってくださるなら、この上ない幸せです!」


 一生懸命な弁解は、多分本心だろうと思う。それにハイディが続く。


「私たちはバルドア王国との連携を強化するために、できることは何でもするつもりです。故郷のため、自分のため、何より騎士として身を立てるために、です。しかし、それを抜きにして……先日いただいたあのステーキは、とても美味しかったです。それに、あなたがただの貴族令嬢ではなく、しっかりとした一人前の女性であることはこの旅でよく知りましたから」


 二人の目は、すっかり私に気を許して懐いているようだった——シャリアピンステーキの効果は抜群だった、ということだろうか。二人の胃袋を掴んでしまったわ、私。


 異国から密命を帯びてやってきて、機会を窺っていたであろう二人の騎士見習いは、悪い人ではないと私もこの旅で知った。


 うーん、と私は気恥ずかしさを誤魔化して、ブレイブリクに話題を振る。


「とりあえず、二人はブレイブリクに剣術を習ってね。ブレイブリク、この二人は剣術が苦手みたいだから、みっちり基礎を叩き込んであげて!」

「承知いたしました。ふっ、イグレーヌ様もお人が悪い」


 憧れの騎士に剣術を習える、二人はぱあっと目を輝かせた。


 しかしこのとき、まだウルスとハイディは知らない。銀槍の騎士ブレイブリクの剣術指導は、多分並の騎士ではついていけないほど厳しく激しい。訓練の一日が終わるころに立っていられるかどうかも怪しいくらいだ。


「ウルス、ハイディ。今日から私が貴様らを鍛える。心してついてこい、これからもイグレーヌ様のお傍にいたいのならな」


 やる気満々のブレイブリクに、ウルスとハイディは機敏に敬礼をして応じる。希望に満ちた目だ、おそらく明日は死んだ魚のような濁った目になっている。


 ブレイブリクはくるっと私へ向き直り、おもむろに剣を抜く。


「と、その前に。イグレーヌ様、一手、手合わせを。きちんと鍛錬を続けているかどうか、確認しましょう」

「えー……分かった」


 師匠にそう言われては、私も断れない。しぶしぶと赤いリボン付きの片刃剣を持ってきて、鞘から抜く。


 片刃剣の切先が鞘から抜け出るか出ないかのその刹那、ブレイブリクは使い古した細身の剣を——私へとノーモーションで刺突する。


 ゆるり、と世界が遅くなっていっているような感覚に浸りながら、私は片刃剣の根元、もっとも幅広くなっている頑丈な部分で剣先を受ける。そのまま後ろへ受け流し、細身の剣を伝ってブレイブリクへ最速で踏み出す。


 火花を散らしながら滑ってくる私の片刃剣の刃を、ブレイブリクは剣の鍔をわずかに回して止めた。それから手首をぐるりと回して、私の片刃剣を上へ弾き上げようとしたため、私は体の重心を低く構え、地面スレスレに膝を落として回避する。


 まだ、私の目から見える世界はゆるやかだ。そのまま体を右回転させ、地面を踏み締めて遠心力を加えた片刃剣を振り上げる。


 ところが、ブレイブリクは一歩早く、後ろに退いていた。掠ることさえなく、私は地面を右手と右膝につけ、左手で払った剣をしっかりと握り、踏み締めた左足は芝生に思いっきり深い足跡を残していた。


 静寂、そして、世界は元どおりに動き出す。私は昔から、集中すると世界が極端に遅くなるような感覚になるのだ。ブレイブリクやブルックナーはそれを才能と言ってくれたが、いまいち実感が湧かない。


 調息してから立ち上がった私へ、ブレイブリクは細身の剣を鞘に戻し、余裕で拍手を送ってくれた。


「お見事。イグレーヌ様は本当に筋がよい」

「お世辞はいらないわ。刺繍より得意なのは事実だけど」

「いいえ。これならば、もし一人旅中に盗賊と鉢合わせても安心です」

「まあ、うん、そうね……今まで三回くらいあったけど、そう」

「とどめは刺しましたか?」

「物騒なこと言わないでよ! 腕と足の骨を折ってやっただけよ!」


 ブレイブリクは私を何だと思っているのか。プンスカする私へ、はははと余裕綽々の笑みを浮かべたブレイブリクが頭を撫でた。



☆☆



 ほんの一瞬の出来事、イグレーヌとブレイブリクの剣の手合わせを間近で見てしまったウルスとハイディは、ポカンと口を開けていた。


 ブルックナーから話は聞いていたのだ。イグレーヌ・モーリンは剣を持たせれば騎士よりも強い、才能がある、と。


 しかし、目の前の一瞬の攻防を、二人は目で追いきれなかった。それほど早く、鋭く、もはや達人と言ってもいいレベルの交錯だったのだ。


 呆気に取られたまま、ウルスは同じ状況のハイディへ、確認する。


「なあ、ハイディ。イグレーヌ様ってもしかして、貴族で可愛くて強くて料理が上手い……おまけに優しい」

「そう、なるな。すごいお方だ」


 二人は目を見合わせ、認識を共有した。ブレイブリクとじゃれているイグレーヌのもとへ、片膝を突いて滑り込んできて宣言する。


「イグレーヌ様! 一生ついていきます!」

「お供させてください!」

「いきなり何!?」


 こうして、ウルス・ウヴィエッタとハイディ・トフトは、長く険しいイグレーヌの婿候補レースに名乗りを上げたのだった。





☆☆☆☆☆☆☆☆




 それから二年後、バルドア王国にアンブロシーヌ新女王が誕生した。


 アンブロシーヌの兄である先王は、新女王を望む有力騎士たちの強い要請に根負けして、退位を発表した。ここに王位はアンブロシーヌのものとなり、王位継承順位を大きく繰り上げての即位と相なった。


 先王よりも実務派の騎士たちを重んじる政治に舵を切った女王は、自身の即位に貢献したド・ベレト公女マリアンを宰相に任命し、マリアンは同盟国や近隣諸国の騎士階級と連携して大バルドア連合王国構想を立ち上げ、バルドア王国は一気に強大な領域国家を形成していく。


 そして、後世においてはこう呼ばれるのだ。すべての騎士に剣を捧げられし国、と。







 秋風が吹く中、閲兵式が王城前で開催される。


 壇上の女王や重臣たち、古参の騎士たちが見守る中、叙任されたばかりの騎士たちが隊列を組んで行進する。騎士団ごとに色の違う制服を着て、国ごとに異なる旗を掲げ、千人以上の騎士の壮麗な姿を見るために国中から何万もの人々が押し寄せて、歓喜の声を上げていた。


 王城の城壁の上に、金髪の巻き毛を何度もリボンで結び直す士官服の王女がいた。その横には、赤みがかった金髪の女宰相が従っている。


「マリアン、変じゃない?」


 女宰相マリアンは、滅多にしないおしゃれと称してリボンをぐずぐず選び、髪を結んだと思ったら何度もチェックを要求するイグレーヌにすっかり呆れていた。


「それを聞くの、もう三回目よ。大丈夫だから、イグレーヌ王女殿下」

「そういう畏まった呼び方しないでよ……慣れないんだから」

「嫌でも慣れなきゃ。ほら、あなたに忠誠を誓う騎士たちの前よ。シャキッとしなさい」


 うぅ、と小さく呻きながら、イグレーヌは城壁の下に集った各地各国の騎士たちの隊列に目を向ける。


 結局、イグレーヌは母が女王になった直後に士官学校へ入れられた。名前もイグレーヌ・モーリンではなく、イグレーヌ・アンブロシーヌ・エレングレト・デュ・サン=フリクト・バルドアに改名され、王位継承権第一位となり、王女殿下の敬称で呼ばれることになった。


 実父モーリン子爵はすでに国外追放され、王位継承権のない姉アヴリーヌは女王の命令で隣国の実業家に嫁入りしている。どちらも厄介払いに変わりはなく、貴族ですらなくなっていた。会えば必ず罵られて泣かれるだろうと分かっているので、イグレーヌはあの日屋敷を出て以来二人の肉親には接していなかった。ランパードに至っては、誰もその後のことを知らない。ラングレ侯爵は次男を最初からいなかったもののように振る舞い、女王もそれを受け入れている。


 秋風が収まったころ、マリアンはイグレーヌへ耳打ちする。


「でもイグレーヌ、いい男探しならやっぱり貴族じゃなくて騎士でしょう? ほら、あそこにブルックナー卿似の騎士マルテリンゲンがいるわ」

「いや、別にタイプってわけじゃないから」

「じゃあうちのグローリアン? 愛人にする?」

「いらない。それより、探しているの」

「誰を?」

「そろそろ出てくるはずだけど」


 イグレーヌは騎士の隊列へと目を凝らす。見覚えのあるブルックナーの騎士領の青い制服はすぐに見つかった。その最後尾、新人騎士たちの居場所を探すと——。


「あ、いた。ウルスとハイディ」

「どこどこ?」


 小柄な黒髪の青年と、長身の茶髪の青年は並んでいた。初めて会ったときよりもずっとたくましくなり、今や一人前の騎士に叙任されている。


 イグレーヌは二人を指差し、マリアンへ頼みごとをする。


「マリアン、あの二人を私の側付きにしてほしいんだけど」

「いいわよ。近衛騎士に推薦しておくわ」

「あと、よそから縁談が来たら」

「分かっているわ、女王陛下からも言われているの。イグレーヌに選ばせなさい、って」


 元々友人とはいえすっかりツーカーの間柄であるイグレーヌとマリアンは、あっという間に話し合いを終えた。


 ウルスとハイディはその後、ブルックナーの騎士領に正式に籍を移し、バルドア王国の騎士として身を立てることを選んだ。故郷との繋がりを考慮して、将来的にはテッサリシア共和国やハルンバール連合との窓口になるだろうが、そのためには並の騎士よりも出世しなくてはならない。


 イグレーヌは二人を、すでに自分の騎士と決めている。一生ついていく、お供させて欲しい、その言葉は嘘ではなく、ブレイブリクやブルックナーもそのための厳しい訓練を二人に課し、ギリギリながらもクリアしてきているのだ。


 だったら、イグレーヌは二人がやってくるのを待つ。ちょっぴり口添えはするが、その程度のこと些細なものだ。


 あと、二人はどうすればイグレーヌの婿となれるか真剣に悩んでいるようで、イグレーヌはそれを微笑ましく見守っている。まあ、子爵夫人が女王になってしまうような流転の世の中だ。何か、騎士でも王女の配偶者になれる道が拓けているかもしれない。


 それを楽しみに、イグレーヌは二人へ親愛の視線を向ける。


 そんなイグレーヌへ、マリアンは釘を刺しておいた。


「ちなみにだけど」

「うん?」

「どこの誰といい関係になっても破綻しても私が上手く取り繕うから、ちゃんと相手の名前を正直に教えてよね、王女様」

「余計なお世話よ!」




 バルドア王国の騎士たちは、語り継ぐ。


 剣姫イグレーヌは、騎士の求婚にどう応えたか。その結末はどうだったのか、騎士たちは大成したのか。


 バルドア王家は今なお、詳細を語っていない。


(了)

よければブックマークや☆で応援してもらえると嬉しいです。

[注]シャリアピンステーキは日本生まれの料理です。


追記:おまけ思いついたので書いておきます。


・マリアンとグローリアン、宮廷舞踏会後

「マリアン様! ちゃんとやりましたよ褒めてくださいよ!」

「はいはいお座り」

「わん!」

「いい子いい子。で、有力騎士たちに渡りはつけたのよね?」

「もちろん! ご褒美をください! できれば愛人にしてください!」

「却下。私にはフェレンツがいるもの」

「なぜ間男すら拒否されるのですか!? 私のどこがいけないと!? 顔よし器量よし腕よしと完璧騎士ですよ!」

「騎士のくせに主君に不義を勧めるんじゃない!」

「くぅん」


こんな感じでコメディになるので本編に書きませんでした。グローリアンは残念イケメン。

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― 新着の感想 ―
[一言] ソロキャンと聞くとユルっとしてお手軽な感じがしたから、あんまり期待をしてなかったけど案外きちんと野営してたのに好感。 もっと森の香りマシマシYouTubeの『Bertram – Craft …
[良い点] 短篇?。最早中編だね。読み応えが有りました。最初ここまでかと思えるところより後があるので、戸惑いましたが力量に感服しました。下手な長篇より起伏があって面白かったです。
[一言] これは立派な「ソロキャン詐欺」ですッ。罰として☆☆☆☆☆です。
感想一覧
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