27『たかがそれだけ』
前話『魅入られた美声』とリンクしています。
風邪よ、カゼに決まってるわ! のどの痛いのもそのせいよ!
今にも泣き出しそうな顔して、ほんとに情けないわねぇ! ほらほら、おかゆを食べなさい! あったかいものを食べて、あったかくしてぐっすり眠れば、きっと声も元通りよ!
「……すみません……ただの行きずりの私に、こんなに親切に……」
いやねぇ、そんな大げさな! ……ていうか正直、この小屋にひとりで何年もいて、あたしちょっぴり淋しかったの。久しぶりに「物好きな誰かさん」とお話が出来て嬉しいの、ただそれだけよ、遠慮しないで!
「……ひとり……どうして、お一人なのですか……?」
やぁねえ、本気で言ってるの? 見りゃ分かるでしょう、この姿! 首から下は人間でも、顔立ちがこんな豹みたいな見た目じゃねえ……。むしろあなたが特別なのよ、物好きさんのお人好しさん?
「いや……私は、ただ……」
分かるわよ、あなたも人外なんでしょう? それでもやっぱりお人好しだわ……あたしは「同じ人外」からもバケモノ扱い、友達のひとりもいないのよ。
「い、いえ……私は、あなたがあんまり優しいから……!」
やぁねえ、そんなに褒めないでよ! あたしがただそうしたいだけ……この看病も、このおかゆも、あたしの自己満足なのよ。だからそんなに気にしないの、カゼひきの吟遊詩人さん!
……でも、正直言って不安でしょう? あのたちの悪い魔女と、声の勝負をした後だもの……呪いがかけられて声が出なくなっているかと、怖くてたまらないんでしょう?
そぅねえ、あたしの身の上でも話せば、すこしは気がまぎれるかしら? 楽しい話じゃないけれど、声が元に戻ったら、お仕事のお話の種にはなるわ。
……あたしはね、「人間の母」と「獣人の父」とのハーフなの。
父は昔、異世界からこの世界に迷い込んで、帰れなくなってしまったの。化け物と間違われて、人間たちに攻撃されて傷ついて……もう死を覚悟したところを、森に住んでいた若い時の母に助けてもらったの。
父はそれこそ獣のような見た目だけれど、とっても良いひとだったから……母はすぐに恋に落ちてしまったの。父も見た目に惑わされずに、自分を助けてくれた母のことが好きになって……そうしてふたりは結ばれたの。
で、十七年前にあたしが生まれて「フィエラ」って名をつけられた。顔は父に似て、首から下は母似なの……。ほら、あたしの首すじに、小さな赤い花型のアザがあるでしょう? これも母親ゆずりなのよ。
ひとりっ子のあたしは、両親にとっても愛してもらったわ。……でも森の獣から悪い病気を伝染されちゃって、父も母も亡くなって……。生き残ったあたしはひとり、この森でずっと生きてたの。
……ううん、ほんとはずっとじゃないの。あいだの七年、商人に売られて見世物小屋にいたことも……、
そこでは動物扱いだったわ。「お前は猛獣なんだから」って、野ネズミの生肉ばかり食べさせられた。そんな風に扱われて、あたしはもう、どうにもこの森が恋しくて……。
けれど一番のきっかけは、いかもの好きの貴族のじじいに気に入られたことだった。あたしは見世物小屋からそいつに買われて、「夜のオモチャ」にされるところだったのよ。
あたしはその時、イチかバチかの嘘をついた。「あたしの体は猛獣を好む病原菌と共生している。菌はヒトにも感染するから、あたしを抱けばお前も病魔に襲われるぞ」って……!
この時分、何より怖いのは感染症……。言ったとたんにみんなあたしを遠巻きにして、手を触れようともしないのよ。だからあたしは陽の光の下、堂々とこの森へ帰ってきたの。
それから先はずっと独りでここにいるの。「触らぬ悪魔にたたりなし」ってところかしら……! でもね、やっぱり、本当はけっこう淋しいの。だからカゼひきの物好きさん、あなたが訪ねてきてくれて……、
……え? ど、どうしたの、急に咳き込んで苦しんで……! 大丈夫!?
「あ、熱い、背中が急に灼けついて……っ!? ああ、あぅう……っ!!」
大丈夫、今見てあげるわ! 服を脱いで背中を見せて……!
* * *
灼けつく背中をフィエラに見せると、ひゅっと息を呑む音がした。獣面の少女はハスキーな声をひきつらせ、後ろを向いた私に告げる。
「……おかしな文字が浮き出ているわ、赤いミミズ腫れみたいに……『お前は二度と歌えない。善人ひとりがお前のために、その命を捨てぬ限り』……!!」
「……う……う……『歌えない』……?」
視界から色が消えていく。のどに詰まった軽石が、がさがさ擦れて暴れている。目が燃えるほど熱くなる、塩水がぼろぼろあふれ出す。
歌えない。もう歌えない。私の歌のために命をくれるなんて善人、この世の中にいる訳が……、
「――泣くな!! 何よ、情けない!! 何てことないわ、あたしの命をあげるわよ!!」
思考が止まる。一瞬涙もせき止まり、耳が壊れてしまったのかと、信じられずに背中ごしにふり返る。
……獣の顔をした少女は、とてもとても優しい目をして、微笑みながら言い切った。
「こんなあたしと、話してくれた、お人好しさんにお礼をしなきゃ、ね」
そんなことは。
そんな、ことは――、
(――良いんです。
歌なんて歌えなくったって……)
血を吐くように微笑いながら言おうとして、言葉がどうしても出てこない。軽石ががさがさのどに詰まって、しゃべりたいのにしゃべれない。
女装の盗賊との出会い、「歌う小鳥の歌でしょう?」と褒めてくれた幼い少女、月夜の舞台で浴びた喝采――。あの記憶が、あの出逢いが、自分の歌と混ざり合って頭いっぱいにあふれ出す。
そんな私を、フィエラは見つめる。穏やかな目が潤んでいる、その目に映る私の姿が、ゆらゆらもろく揺れている。
「……生まれてからの十七年、まともに話してくれたのは、死んでしまった父と母だけ……そんな、そんなあたしにとって、あなたは、生まれて、初めての……」
おしまいの言葉がすっと消えてゆく。私と同じ琥珀色の目から、ひとすじ涙が流れ落ちて……それがあまりに美しくて、景色に再び色彩がついた。
ああ、このひとを失いたくない。今の私は、歌を失っても、このひとの笑顔を見ていたい……!!
体じゅうで思った瞬間、のどいっぱいの軽石がきゅっとひと回り小さくなった。
「――いいんです……! 歌なんて、もう歌なんて……!!」
かすれた声で今の本心を口にして、したとたんがああとフィエラが吠える、怒りにも似た大きな叫び――叫びにひるんだその一瞬、灼けつく背中にさっと細い手が触れる。
「魔女よ、魔女よ! あたしの命を奪るがいい! あたしは善人か知らないが、この人の声を、歌を返せ――!!」
とたんにこの背から光があふれる、光は真白く爆発し、まぶしさに思わずきつく目を閉じる。
……光がやんで、恐るおそる目を開ける。
背中の熱も、のどのがさがさもいつの間にか消えていた。
「……大丈夫……ミミズ腫れのおかしな文字は、きれいさっぱり消えたわよ……」
そう言いながらフィエラの体が、ずるっと床に倒れ込む。
「――フィエラ!!」
大声で叫べたことに驚いて、私はのどに手をやった。うっすら目を開いたフィエラが、弱々しくも、嬉しそうに微笑って、ああ、その笑顔は、あまりにも……、
「……良かった……声……戻ったみたいね……」
「フィエラ……フィエラ……」
体が熱の塊になる。後悔が火になって体じゅうをあぶっている。「ごめんなさい」と「ありがとう」が百ぺんずつも言いたくて、何回言っても足りなくて、名前を呼ぶことしかできない。
そんな私にフィエラはかすかに微笑いかけ、細い手でやっと私のほおへ触れる。
「あたし……生まれ変わってくる……赤いアザを目印にして、きっと生まれ変わってくるから……そうしたら、あなたの歌を聴かせてね……」
……今世の、お礼に……約束よ……、
かすれた一言ひとことが、耳から胸へ、胸から心へ灼きついていく。うなずくことも出来なくて、名を呼ぶだけの私のほおを、フィエラの白い手がすべり落ちた。
白い手は、いくら待っても動かない。
私と同じ琥珀の瞳は、微笑んだかたちのままで閉じている。
「……フィエラ?」
答えはない。
いつまで待っても、いつまで経っても、あの優しいハスキーな声は聞こえない。静かに、しずかに、体から熱が消えてゆく。
「――……フィエラ……!」
その言の葉が魔法のように、私の胸を甘く熱くかきむしる。
恋しい。愛しい。
この獣面の少女のことが、今は愛しくてたまらない。
ただの行きずりの私を優しく看病してくれた。
温かいおかゆに暖かい毛布、綺麗なベッドに寝かせてくれた。
そうして私の歌なんかのためだけに、その命まで捧げてくれた。
「――なあ、何で……? なんでだよ、なあ……」
私は笑った。
自分のあまりの情けなさに、涙を流して笑い出した。
なぜ言えなかった? なぜ吠え声なんかにひるんだ? 「歌なんかもうどうでも良いから、私と一緒に旅してください」と、本心を口に出来なかった?
フィエラの顔がよく見えない。視界が水だらけに歪んで、揺れて、目が痛い。ぐずぐずに崩れた視界のすみに、おかゆを入れた器が映る。
「――――……」
私は声もなく手を伸ばす。フィエラの亡骸を抱き上げて、自分が寝ていたベッドへ寝かせる。捧げる手つきで彼女の前で、びとびとのおかゆを口へと運ぶ。
……最後のごはんだ。
フィエラが私に作ってくれた、最初で最後の美味しいごはんだ。
私は食べた。時間が経って水を含んで「柔らかすぎるご飯」のようにふくれ上がったぬるいおかゆを、最後のさいごの一口まで。
もちゃもちゃのおかゆがのどに詰まる、吐き出しそうになるのをこらえて、えずきながら泣きながら、口を動かす、動かし続ける。
時間の経つほど水気を増してしょっぱくなって、冷たくなっていくおかゆを、フィエラの前で食べつくした。……
* * *
翌日の朝、私はフィエラの亡骸を彼女の家の前に埋めた。
深い森の中、土を盛り上げただけのお墓だ。これならかえって安心だ。あまりの素朴さにあきれかえって、墓荒らしたちも来ないだろう。
私は足もとに咲いた冬の花を摘みとって、お墓にそっとそれを供えた。
「……フィエラ。今度また出逢う時までは、この声はずっと大事にしておくよ」
ああ、たかが歌だ。たかが声だ。
このあまりにも優しい少女の命に、見合うはずもないけれど……。彼女が望むものならば、生まれ変わった彼女に歌うその日まで、死ぬ気で大切にしておこう。
私はフィエラに背を向けて、森の中を歩き始めた。
たかが歌だと、思えてしまう。でもその「たかが」は、何よりもフィエラのために大事なものだ。
心は涙の味がする、ちりちりしょっぱく、目は痛い……けれど今、冷めたおかゆを収めたおなかは、なぜだかほんのり温かい。
私はマントを決意のようにひるがえす。三度後ろを振り返り、後はまっすぐ歩き出した。
……ひらり、ひらり、別れの挨拶みたいにして、雪の欠片が舞い出した。




