1『眠れぬ夜のための本』
何者だ、ドア越しのそこのお前!
こんな夜ふけに旅人の泊まる、部屋の扉をノックするとは……! さては人外か魔物か……!
「ちょっとぉ! 何その言い方、いきなり怪しいヒト扱いっ!? あたしは普通の人間よ、十歳になる宿屋の子どもよっ! チェックインの時、あたしと目と目が合ったでしょ?」
――ああ、あの小さなお嬢さんですか! ふわふわの金色の髪をした、生まれたてのヒヨコみたいな……!
「もぉぉっ! いちいち何かかちんと来る言い方ねっ! このドアを開けてくれるの、くれないのっ?」
ああ、いやいや、これは失礼を……! さあどうぞ、中へお入りなさい……。さて、いったい何のご用事でしょう?
「あのね! あたしね、二時間前にベッドに入ったんだけど、全然まったく! 眠れないのよ!」
眠れない? ……ははあ、もしかして「お昼寝をしすぎた」のではないですか?
「ええ、そうよ! そうなのよ! 昼間あなたと目が合ってから、なんだか急に眠たくなってね! おかしな夢をたくさん見たの!」
そうですか、それは大変でしたね……なるほど、よく見ると、宝石のような萌黄の瞳にほんのり疲れが見えますね。実は私も、今夜は妙に寝つきが悪くて……。
「そうでしょうね、戸のすきまからランプの明かりが見えたもの!」
ああ、なるほど。それで寝れない勢いで、私の泊まっている部屋に……。
ところでお嬢さん、お名前は何とおっしゃるのです?
……「ミモザ」? あの金色のぽわぽわした小さな花とおんなじですか。ご両親が髪の色から名づけたのでしょうか。
「ええ、そうよ! フルネームはミモザ・ミンク・ミルクって言うの!」
へえ、可愛らしいお名前ですね。「名は体を表す」とはよく言ったもの、あなたにぴったりのお名前だ!
……それにしても、お嬢さん? こんなにひょろひょろしていても、私は一応男ですよ? こちらも寝つけずすることもなく、ついお招きしてしまいましたが……夜中にひとりで旅人の部屋を訪ねるなんて、無用心すぎやしませんか?
「うふふ、ねぇねぇお兄さん! 吟遊詩人なんでしょう? 宿帳にそう書いてたもん、あたし後からちゃんと見たのよ! ね、ね、何かお話を歌ってちょうだい!」
……はは! あなた、見事なまでに私の話をまったく聞いてくれてませんね!
うーん、確かに私は流れの吟遊詩人ですが……こんな夜ふけに歌っては、他のお客の迷惑でしょうね……。
ああそうだ、それじゃあ「彼女」をお貸ししましょう。
――どうですか? とても綺麗な本でしょう?
「……ええ、そうね。赤銅色の布張りの、触りごこちの良い本ね……」
ふふ、そうでしょう。旅行カバンに入っている何冊もの本の中でも、私のお気に入りですよ。
私がいろいろな場所を巡って、書きとめたお話がいくつも詰まっているんです。読んでいるうち眠たくなったら、お部屋に帰ってお眠りなさい。
ただし、くれぐれも気をつけて! 私の好みで集めた小話ばかりなので、もしかしたら悪酔いするかもしれません。異世界に行って集めた話もたくさんあるし、中にはあなたの理解しがたいお話も……、
「……ねえ! そんなことより今この本を、なんで『彼女』って呼んでたの?」
ふふ、それも読み進めれば分かります。この手書きの本の中には、「彼女」自身も出てきますから!
「ふぅん……ねえ、あのねえ! ちょっと突っ込んだこと聞いていい? 昼間から思ってたけれど、あなたってなんだかカゲがある人ね! 恋人と死に別れでもしたのかしら?」
……おやおや! これは見た目に反して、ずいぶん大人びたお嬢さんが来たものだ……!
『恋人と死に別れた』?
……さあ、どうでしょう。あなたが感じた私にまつわる「カゲ」というのは、思い違いか、そうでないのか……全てのことは、この本の中にありますよ。
「……この、本の中?」
ええ、この本を読み進めていけば、いずれは真相が分かるでしょう。この一冊は「集めたお話の束」でもあり、「私の長い旅の記録」でもあるのですから。
「――読んで、いいの?」
おやおや、どうして今さらそんなことを? 眠れないのでしょう、ミモザ? 何も気にせず読めば良い、眠くなったらお部屋に帰って眠れば良い、ただそれだけのことですよ……?
……ランプの光、もっと明るくしましょうか? これで良い? ではさっそく、その指で少し黄ばんだページをめくって……。
――さあ、吟遊詩人の集めたいろいろなお話を、おなかいっぱい召し上がれ!