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西山喜久恵は毎朝、散歩をするのが日課になっていた。
いつものように子供と夫を送り出し、朝食を食べて少し休憩した後、彼女はパーカーとスウェットパンツに着替えていつもの時間に家を出た。ほんの少し早足で歩幅を大きくするように心がけながら歩みを進めていく。8年前に町の健康診断でメタボと診断されたのがきっかけだった。最初はカルチャーセンターでフラダンスを習ったりジムで泳いだりしてみたのだが、残念ながらどれも友人が増えただけで長続きはしなかった。そんな時に子供から勧められてはじめたのがウォーキングだった。最初は歩くだけのことの何が楽しいのだろうと思ったものだが、意外にもそれは喜久恵の生活にあっていたようだ。毎日、歩いた距離をSNSに記録することで、同じような仲間たちから反応があり、それを励みにすることが出来た。おかげで20キロものダイエットの成功することが出来た。
最近では見える風景を写真や動画に撮って、それをSNSに載せる楽しみも増えた。良いネタを探しながら歩いていれば1時間くらいはあっという間に過ぎていく。
神社の近くまでやって来ると、犬が吠える声が聞こえてきた。
それは今まで喜久恵が聞いたどんな犬の吠える声よりも鋭く、強く、激しいものだった。わずかに恐怖を感じながらも、喜久恵はいつものコースをはずれて神社のほうへと足を進めた。
そこで喜久恵はその異様な光景を目にした。
石段の下に倒れて気を失っている少女、その身体にかぶさるように立ち吠えている大きな白い犬。その手前に一人の若い男が立っている。
その男は喜久恵に気づくと、振り返って声をかけた。
「警察を呼んでください。犬がその子供を襲っています」
それを聞き、喜久恵はすぐに理解した。
少女はあの犬に突き飛ばされ、石段を転げ落ちたのだろう。そして、さらに襲いかかったところを通りかかった男が少女を助けようとしているのだ。
喜久恵はスウェットのポケットからスマホを取り出し、震える指で急いで警察へ連絡した。
警察官が駆けつけてくるまで5分ほどかかった。その間、犬はずっと少女の上に立ち吠え続けている。それを喜久恵たちはヤキモキしながらも近づけずに見守るしかなかった。
やがて警察官が駆けつけ、ほぼ同時に現れた救急車によって少女は運ばれていった。そして、襲った千太郎はそのまま保健所に連れて行かれた。不思議なことに警察官たちが現れると犬はすぐに威嚇を止め、抵抗することもなく素直に捕まえられた。
* * *
喜久恵は熱っぽくその時のことを語ってくれた。
その多くは亮平から聞かされた話だったが、穂乃果は相槌を打ちながらその話に耳を傾けた。
「千太郎くんは本当にその女の子を襲っていたんですか?」
喜久恵の話が終わると、すぐに穂乃果が尋ねた。
「千太郎くん?」
「その犬の名前です」
「あぁ、そんな名前なの。そうよ、あの犬があの子の上にのっていたのよ。すっごく吠えていたのよ。怖かったわ。あんな小さな女の子を襲うなんてね」
喜久恵は力をこめて言った。
「それは違います」
思わず里帆は口を挟んだ。
「違う?」
喜久恵は不思議そうな顔をして里帆の顔を見た。「何が違うの?」
「あ……いえ、そんなはずないと思います。だって千太郎くんはそんな凶暴な犬じゃありません」
里帆は思わず視線を逸し、うつむきがちに答えた。
「里帆さんは普段の千太郎くんのことを知っているんです」
「そうなの? でもね、残念だけど私はそれを見たのよ」
慰めるような口ぶりで喜久恵は里帆に向かって言った。
「で……でも……」
里帆は言い返したかった。だが、それ以上は言葉が出てこなかった。
「ちなみにそれは何時頃のことですか?」
と再び穂乃果が冷静に尋ねる。
「そうね……」
そう言って喜久恵は壁にかかった時計へと視線を向けた。「ウチの子たちがでかけて、その後で掃除してからだから……9時半頃かしらね」
「ここから神社までは20分くらいですよね?」
「そうね。そのくらいね」
「小学校って8時半から授業でしたよね?」
「そう……だっけ? そうよね」
「女の子って、どうしてそんな時間にあんなところにいたんでしょう?」
「さあ、どうしてかしらね。遅刻したんじゃないの?」
「西山さんとその男の人以外にその場にいた人はいませんでしたか?」
喜久恵はうーんと首を捻ったが、すぐにーー
「さあ、気づかなかったわね」
そう言いながら喜久恵は紅茶をすすった。