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中松里帆がその事件を聞いたのは、4時間目の授業が始まる直前だった。
毎週月曜の4時間目は、中学3年生である里帆たちは高校受験の準備のために自習とされていた。皆、静かにそれぞれの課題に向き合っている。
里帆はクラスメイトの伊藤茉莉花から1時間目の数学の授業のノートを借りて写している最中だった。
ガラリと扉が開き、一人の生徒が姿を現した。それは里帆の隣の席の田口亮平だった。彼は陸上部の選手で、全国大会でも良い成績を出したこともあり、高校は既に推薦で進学することが決まっていた。遅刻してきたにも関わらず平然とした顔で教室に入ってきた亮平は、席につくとすぐに里帆の肩を突いて声をかけた。
「なあ、お前の家の隣に犬を飼っていた婆さんがいただろ」
「ハナ婆ちゃんのこと?」
里帆はノートを書く手を止めて顔をあげた。
「変わった婆さんだったよな」
「そお?」
「道ですれ違う時にジッと見てくるんだよ。そして、水難の相が出てるから気をつけろとかよく言われたよ」
「あぁ、私もよく声かけられたよ。子供の頃はよく可愛がってもらった。若い頃、変わった仕事をしてたらしいよ」
「変わった仕事? どんな?」
「えっと……占いとか……薬の調合なんかもしてたって。私も詳しくは知らないけど」
「妖しい仕事だなぁ」
「でも、いい人だったわよ」
「だった? 過去形?」
亮平は里帆の言葉に素早く反応した。
「ハナ婆ちゃんなら3日前に亡くなったんだよ」
「そっかぁ。それでか」
亮平は一人で勝手に納得したかのように頷いた。
「何が?」
「あの婆さん、よく犬を連れていただろ? 白いデッカイ秋田犬」
「千太郎君のこと?」
「名前なんか知らないけど、あのブサイクな犬、今朝、子供を襲ったんだぞ」
それを聞き、里帆は一瞬言葉に詰まった。
「……亮平くん、何か見たの?」
「俺が見たわけじゃないけど、お袋が喋ってた」
「お母さんが見たの?」
亮平は顔の前で手を振って否定した。
「見たのはお袋と仲のいいオバさん。お袋とは以前、カルチャーセンターで知り合ったらしいんだ。家も近所ってこともあってさ、何かっていうとすぐにやって来てしばらく喋っていくんだ。今日も俺が家を出ようとしたらちょうどやって来て喋っていったんだ」
「なんて言ってたの?」
「だから、その犬が女の子を襲ってたんだと」
里帆はいたたまれない気持ちになった。
「そんなの……違うよ」
「まったくビックリだよな。やっぱあの婆さんがいなくなって凶暴になったのかな」
「だから、違うって言ってるでしょ。千太郎君はすっごく大人しい犬だよ。子供を襲うなんて……あるわけない」
「お前はそう思いたいのかもしれないけどさ。事実は変えられないぜ。その子を助けようとしていたのはすぐそこの交番の警察官だったらしいし」
「警察官?」
「さすがに見間違いってことでもなさそうだ」
「千太郎くんはどうなるの?」
「さあな。子供襲っちゃったらな……処分されるんじゃねえの?」
その『処分』という言葉が重く胸にのしかかる。
「……そんな」
里帆は小さく呟くように言った。「千太郎くんがそんなことするはずないのに」
「そういえば、この前の事件の犯人って捕まったのかな?」
「事件?」
「駅で子供が階段から突き落とされてケガをしたってニュースで言ってたよな?」
「あぁ……あったかもね」
ほとんど亮平の言葉は耳に入ってはいなかった。それは里帆にはまるで興味のないものだった。里帆はただずっと千太郎のことが気になっていた。そして、何かしてあげられることはないだろうかと頭を捻る。だが、今の自分に出来ることなど何も思いつかない。
ゾクリと背筋が寒くなるのを感じた。