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犬小屋の前で寝そべりながら、千太郎は亡き主人であるハナ婆ちゃんのことを思い出していた。
彼女とはずいぶん長い付き合いになった。
自分がどこで誰の子供として生まれたかについて、千太郎はほとんど記憶していない。憶えているのはこの家に来てからのことばかりだ。彼女が自分に『千太郎』という名前をつけてくれてから18年、2週間前に突然、彼女は倒れて病院に運ばれていった。そして、3日前に帰ってきた時、彼女は既に息をしていなかった。
決して驚くようなことはなかった。それは彼女自身、以前から予言していたからだ。
――私の命は11月まで
結局、彼女の言う通りになった。考えてみれば彼女の言ったことが間違っていたことは一度もなかった。
それでも改めてそれが現実のものとなると、寂しさを感じないわけにはいかない。
もう彼女の笑顔を見ることが出来ないということを、千太郎は理解していた。
18年間、ずっと彼女と二人でこの家で暮らしてきた。
首についた鎖は根本の柱に巻き付かれた部分がサビで弱々しく見える。
きっと全力で引っ張れば引きちぎることが出来るかもしれない。だが、そんなことをする理由は今の千太郎にはなかった。若い頃のように自由に走り回りたいという思いもかなり前からなくなっている。
今は走るどころか、いつもの散歩コースを歩けるかどうかもわからない。
もうすぐ自分も婆ちゃんのもとへ旅立つことが出来る。
千太郎はそれも理解していた。
* * *
昨夜、お通夜の後、多くの人々が去った後で家の中から聞こえてきたのは少し不機嫌さをまとった声だった。
「ウチはマンションだからペットを飼うのは無理なんだ」
あの声はハナ婆ちゃんの息子のものだ。離れて暮らしているらしく、帰ってくることも年に一度あるかないかだ。
「じゃあ、どうするの? 当分は私が餌をあげに来ることは出来るけど、そんなに長くは出来ないわよ。ここだって処分しなきゃいけないでしょ」
これはハナ婆ちゃんの娘の声。同じ町内には暮らしていて、時々顔を見せることもある。婆ちゃんが入院していた頃には、夕方になると餌をくれるために来ていた。
「もう若くないんだから、大丈夫じゃないか? 何歳になるんだ?」
「17歳って言ってたような気がする。でも、わからないわよ。私の知り合いで20歳まで生きた犬だっていたわよ」
「誰か貰ってくれる人はいないのか?」
「子犬ならともかく、あんな年取ったら誰も貰ってくれないわよ」
それが何について話されていることか、千太郎にもすぐにわかった。
生前、ハナ婆ちゃんはよく言っていた。
「あなたのことだけが心配だわ。私が先に死んだら、あなたはどうなるのかしら。同じ日に逝くわけにはいかないものね」
婆ちゃんが言っていたのはこういうことなのだろう。
彼らのことを恨むつもりなんてない。彼らには彼らの生活がある。それもハナ婆ちゃんが言っていたことだ。これまで何度か子供たちから一緒に暮らさないかと誘われたこともある。それでもハナ婆ちゃんは千太郎と一緒にいたいと言って一人でこの家に暮らしていたのだ。
でも、大丈夫。
どんな時でも時間はちゃんと流れていく。
何の心配もいらないのに。
動物的な直感というものだろうか、自分がそう長くは生きられないことを千太郎は知っている。
だが、そんなことを伝える手段があるはずもない。自分の気持ちをわかってくれる唯一の存在だったハナ婆ちゃんはもういなくなってしまったのだから。
きっと時間が解決してくれるに違いない。
まだお経を読む声は続いている。
千太郎は大きくアクビをして寝返りをうった。
その視界に家の前を通っていく赤いランドセルを背負った一人の少女の姿が映った。
それはいつもこの家の前を通っていく少女だった。
ハナ婆ちゃんともよくそこで話すことがあった。
その直後に一人の男が通っていくのが見えた。
それは初めて見る男だった。
何か嫌な予感がする。
さらに女子中学生が急ぎ足で家の前を通っていった時、千太郎は立ち上がった。