第6話 あの日の悪夢
週2回はスシローで茶碗蒸しを食べないと気が済みません
しんしんと雪が降る日の午後。太陽は厚い雲に隠され、足跡はたちまち雪に覆われてしまう。
小さな女の子は黒山羊と共に家路に向かっていた。黒山羊は太く、わん曲した立派な角を自慢するかの如く首を縦に振った。
「おばあさんはね、わたしを神の恩寵って呼ぶの。わたしの緑色の髪と目が綺麗で、神様から愛されているって意味よ」
「それは素晴らしい。神はお前のことを見ておられる」
楽器が響き合う美しい音色のような声を持つ黒山羊はくく、とシニカルに笑った。
「ルシフェルはどういう風に名前を呼ばれるの?」
「私はかつて『光りをもたらす者』、そして『明けの明星』と呼ばれていた。私は気高く、美しく、知恵に満ちていた。そう、私は神に最も近かった」
「今は違うの? ……あっ! あれがわたしの家! パパ! ママ!」
リリーは家に向かって走り出した。玄関には今か今かと愛娘の帰りを待ち続けている両親が立っていた。心配そうな顔つきだった両親は、駆け寄ってくるリリーを見つけた途端安心しきった表情へと変わった。
「ああっ、リリー! よかった! どこも怪我してない? 無事ね?」
そう言うと、母はリリーを抱きしめて頰にキスを浴びせた。父もリリーにキスをする。
「今度はきっと大丈夫だよ。パパもママもちゃんと見ていてあげよう。勿論おばあさんもだ。完成したら、ご馳走を食べよう。さあ、お家にお入り」
熱い抱擁を交わしたリリーと両親は石造りの家の中に入っていた。黒山羊もリリーに招き入れられる。そして、先ほどまで乗ってきた黒山羊を呼び寄せ、満面の笑みを浮かべた。
「わたし、魔女になったのよ」
その言葉を聞いた両親の顔が一瞬で固まった。
父が嘘吐きを見るような目で、「魔女? 魔女と言ったかい?」とリリーに尋ねた。
「そうよ、魔女。この山羊がわたしを魔女にしてくれたの」
母が「なんてこと……」と両手で顔を覆った。そして、家の奥に入ると、すぐに祖母を連れて戻って来た。
祖母はリリーの顔をしわくちゃの手で包み、目を大きく見開いた。
「神の恩寵よ、一体森で何があったんだい」
「森で箒の材料を集めていたの。そうしたら、綺麗な人がわたしに『お前は立派な魔女になれる』って言ったのよ。だから名前を書いたの。それだけだよ」
その途端に母が膝から崩れ落ちた。
「よりにもよって魔女だなんて……! どうして、ねぇ……どうして悪魔となんか契約したの!? 悪魔と契約したら駄目だって教えたじゃない!」
母の様子にリリーが事の重大さを察し始めた。
「だって、パパやママやおばあさんを喜ばせたくて……」
母は遂に泣き出した。父がその肩を支える。
「私が、私がもっとちゃんと教えておけば……。ああ、どうすればいいの……!?」
「祓い師を呼ぶしかない。旧い知り合いに祓い師がいる。手紙を寄越せばすぐ来るはずだ」
そう言って祖母が自室に向かおうとしたとき、「それは駄目だ!」と父が制した。母はまるで訳がわからないといった様子で父を見上げる。
「祓い師なんか呼んでみろ! すぐに近所中に広まって、ここに住めなくなるぞ。それどころか一生笑い者だ」
「あなた! 今はリリーのことが先決でしょ!」
「そうさ、ジミー。祓い師を呼ぶべきだ」
「うるさい! 俺はこの家の家長なんだぞ!? 祓い師は却下だ。他に何か方法を考えよう」
顔を真っ赤にして怒る父をリリーは初めて見た。父はいつも優しく、逞しく、周りから尊敬される人物で、愛に溢れていた。少なくともこんな風に怒る人ではない。
リリーの呼吸はいつのまにか荒くなっていた。これ以上ないほど大きく見開かれた目から、涙が勝手に零れ落ちていく。
リリーはこんなものが見たかったんじゃない。リリーが見たかったのは、箒作りに成功して喜ぶみんなの姿だ。
縋る思いで黒山羊に目を向けた。傍に静かに立つ黒山羊が何を考えているのかわからない。リリーはその毛を掴んで揺さぶった。
「ねぇ、ルシフェル、何か言って……!」
黒山羊は――悪魔は喉の奥からくつくつと声を出して笑い始めた。終いには頭を大きく上げて、高笑いになっていた。
全員が困惑と恐怖が滲み出る顔つきで黒山羊を見つめる。激しく言い争いをしていた口は閉じるなり、ぽかんと開けるなり様々だ。
高笑いをしながら黒山羊は針のような毛を伸びると同時に背も高くなる。黒山羊は人の姿を纏い、プラチナブロンドに昼前の青空のような双眸を持つ――リリーが出会ったときと同じ美しい姿になった。しかし、白い布ではなく、黒山羊の毛皮を身に纏っていた。髪を掻き上げると、にんまりと顔を歪める。
「私がどのように見える?」
そう一言。その一言で、母は金切り声に近い叫び声を上げた。
「なんて……なんて醜い……!」
そして、気持ち悪そうに口を抑える。
「ふん、この美しい姿がわからぬとは。実に不愉快だ」
リリーはルシフェルから目を離すことができなかった。ルシフェルはリリーに目を合わせることもなく、淡々と話す。
「悪魔の姿は非常に都合よくできている。契約者の好む姿で現れたならば、悪魔に対する警戒心は緩む。一方で、それ以外の人間には、醜く恐ろしい怪物の姿が見える」
その意図とは、契約者とそれ以外の人間を引き離すことにあった。孤立し、人間の脅威と迫害の対象になった哀れな契約者の魂を悪魔は好んで喰らう。
「こんな卑怯なこと……」
リリーはつっかえる喉から声を絞り出した。過呼吸気味で声を出すのも苦しい。足にしがみつくリリーを睨みつけて、ルシフェルは愉快そうに口の端を持ち上げた。
「私は悪魔だよ、リリー。私と契約したのはお前の意思だ」
ルシフェルはリリーの服を破くと、心臓の位置を指でなぞった。
「私は嘘を吐かない。失望は願望に、願望は希望に。嘲笑は羨望に、羨望は称賛に。お前が死ぬまで私はお前のもの。私が何でも与えてあげよう。リリー・スピアーズ、私の可愛い魔女。さあ、その身を委ねるがよい」
意識が一瞬で遠のいた。
最後に目の端に移ったのは、祖母の怒りと悲しみに満ちた顔だった。
暗転
目の前に横たわるのは鮮やかな緑色の髪を持つ裸の幼子。身体をしばらく痙攣させる。そしておもむろに立ち上がった。ゆらり、と一度大きく揺れて、振り返る。生気のない目。
「おまえが全てを壊した。おまえのせいだ。この卑怯者。罪びとよ、赦されてはならない」
息をするのが苦しい。膝が地に付く。自分の裸体が目に入った。成長した身体に、玉のような肌。心臓の位置には爪痕が残っていた。
「……リ……、リ……だ……ぶ……」
ばちん、と固く閉じられていた瞼が開く。「ひっ、ひっ、ひっ」と激しい呼吸音が意識を醒まさせた。生暖かい涙が目尻から枕に伝い落ちた。
「リリー、大丈夫?」
ルームメイトが心配そうに、リリーの頬に手を遣る。親指で涙を拭った。
「また随分とうなされてたね。もう大丈夫だよ、ここは悪い夢じゃない」
ぼうっとする頭で、自分は悪夢を見ていたのだと気付く。よく見る悪夢のひとつ。忘れたい過去の話だ。
「香月、ありがとう」
礼を述べると、のっそりとベッドから起き上がる。そしてやけに散らかった部屋を見回した。山のように溢れかえっている衣類や家族へのお土産、カメラに使い魔のおやつ。
リリーは無表情で「香月」と友の名を呼んだ。
香月はぺろっと可愛らしく舌を出して、申し訳なさそうに手を合わせた。
「ごめん、手伝って!」
リリーはうんざりした顔で香月の顔を見る。今日帰省するはずなのに、まだ準備もできていないようだ。いつものことではあるが、正直自分でどうにかしてほしいと思いつつ、リリーは香月の手からトランクをもぎ取った。勝手に荷物を詰めていく。
「待って待って! まだどれにするか決めてないの! 入れるの早いよぉ」
リリーは、その手を止めようとする香月に向かってにっこりと微笑んだ。しかし目は笑っていない。
「じゃあ、わたしが選んであげる。それでいいでしょ?」
香月の手を優しく、丁寧に元の位置に戻してあげたあと、リリーは淡々と荷物を詰め続けた。