第65話 レオと『庭師』(1)
一月十三日午前二時十五分、ペンクスリ王国首都ブライトン。
男はラジオを聞いていた。
隣の部屋に聞こえないように音量を最小限まで絞った上でヘッドホンを装着していた。灯りはテーブルランプひとつだけ。光が外に漏れないようにぴったりとカーテンを閉める。
特定の時間にだけ聞くことができる周波数にダイヤルを合わせる。内容は何の変哲もない小説の朗読番組。
男は神妙な面持ちでその番組を注意深く聞いていた。
女性の声による朗読。滑らかな聞き取りやすい声だが、時々独特の癖が現れる。その癖は普通に聞いていたらまずわかるようなものではない。
男――コードネーム『庭師』はその癖のリズムを紙に書き取っていた。それを繋げると北ペンクスリからの暗号文となる。そして、今度はそれを解読する。
「ホンジツ マルナナサンマル アーチェリーノ シアイ カイシ ミナサマ ドウゾ オウチデ ゴカンラン クダサイ」
二週間前からずっと同じ内容の通信だった。『アーチェリーの試合』は『ディアボロスの嚆矢』作戦、『お家でご観覧』は帰国を示す。最初にこの通信を受けたとき、すぐにでも帰国できるように準備をしていた。しかし、街には警官の見回りが常態になり、迂闊に出歩けなくないまま二週間が経過した。
戦争が始まってから王国側の優勢だったのはせいぜい二か月程度だった。それ以降は北の特魔隊や悪魔憑きの活躍により、王国はみるみるうちに劣勢となってしまったのだ。
政府からの規制とそれに準ずるマスコミによって、国民に流れる情報は都合の良いものばかりになった。
これ以上『庭師』ができることは何もない。五年にも及ぶ仕事は終わった。誰にも褒められず、誰にも顧みられることのない。それが彼の仕事だった。
やり残したことといえば、禁書のことだ。アルシア・カレッジの校長オルムステッドが所有していると『鉤爪』から報告を受け、調査をした。
オルムステッドは体が不自由な代わりに非常に勘が良い。直接聞きだすことは難しかったため、六月二十一日の明け方に部屋を訪れた。使い魔とオルムステッド本人に怪我を負わせたのは本意ではなかったが、死んだわけではない。
それに、首相ハモンド直属の親衛隊である国防立志部隊が禁書を探しに来るのも時間の問題だった。国防立志部隊に禁書を取られるくらいなら意識のない状態にした方が都合が良い。致し方ないことだ。
結局、禁書は見つからなかった。後から、オルムステッドが他人に禁書を他人に預けたという情報を『鉤爪』から得た。それも調査したが、手がかりは何も見つからなかった。もはや王国にはないのかもしれない。
オルムステッドの安否を心配したリリーが使い魔の欠片で感覚共有したのは計算外だったが、ヨハンによって北の手に渡ったのは不幸中の幸いだった。
「とりあえず、やるべきことはしたんだから、一刻も早くブライトンから離れないとな」
髭のない顎に手を当てた。
今夜がその最後の機会だ。警戒して行動すればすぐに首都から脱出できるはずだ。
上着を着て、部屋を出ようとしたとき、不意に扉がノックされた。『庭師』は上着の内ポケットから拳銃を取り出して、慎重に扉の近くまで身を寄せた。
「こんな時間にどなたですか?」
「今日は晴天ですね。あまりの暑さにマフラーを巻いてきました」
男の声だ。この合言葉を知っているということは――。
『庭師』は僅かに扉を開けた。隙間の向こうにはフードを被った『庭師』よりやや背の低い人物。
「コードネーム『庭師』ですね。北から迎えに来ました」
「あなたは?」
男は自分自身の身分がわかるバッジを見せた。
「特別魔法部隊所属レオンハルト・ホフマン上等兵です」
『庭師』はレオを部屋に招き入れた。
「一人で来たのか? ほかに仲間は?」
レオは首を振った。フードから顔を出し、赤い髪がテーブルランプの光に照らされる。
「極秘任務です。ディアボロスの嚆矢については知っていますよね。他の諜報員が帰国するなか、あなただけが中々帰って来ないので」
「僕……、私個人のためにということか?」
ありえない、と『庭師』は呟いた。捨て駒に過ぎない一諜報員のためにわざわざ迎えを寄越すわけがない。
「ホーガン少佐から直々の任務です」
『庭師』は眉を顰めた。心当たりがない。少なくとも諜報部にそのような名前の人物はいない。
「ああ、そういえばこれを見せたらわかるとも言われました」
レオはポケットから一枚の写真を取り出した。建物を前にした二十人前後の子供の集合写真だ。それを数秒見つめて、『庭師』は目を丸くした。そして口角を僅かに上げた。
「そうか、ローレンスが」
「ローレンス?」
「ローレンス・ホーガン。弟だ」
レオは『庭師』を睨みつけた。
「じゃあ、俺は少佐のご兄弟を助けるためにわざわざこんなところまで来たというわけですね」
「急にどうしたんだ?」
周囲に聞こえないように、小さい声で『庭師』に詰め寄った。その語気は怒りに満ちている。
「俺の家族や友人は少佐に人質に取られています。少佐の一言で粛清できる状況です。なのに、どうして俺が少佐の兄を助けなきゃいけないんだ。そんな義理はない。ふざけんな!」
『庭師』はレオの両肩を揺さ振った。
「落ち着け! 今はそんな状況じゃないだろう。俺が北に戻って君の家族の命が助かるなら、とりあえず二人とも脱出するほうが先だ。話はそのあとにいくらでも聞いてやる」
その尤もな意見に、レオは渋々承知した。だが、そうとう怒り心頭なのかもう敬語を使う気はないようだった。レオはブライトンの詳細な地図を広げた。
レオはちょっと怒りっぽいです