第64話 リリーの箒(2)
それはアンスバッハ語だった。アンスバッハ語とペンクスリ語は元は同じ言語から派生したものだ。また、リリーは少しでもヨハンに近付きたくて、アンスバッハ語の勉強をしたことがある。ヨハンには嫌がられたが、おかげで簡単な言葉ならわかるようになった。
「レオンハルト……ホフマン」
箒の柄に彫ってある言葉を読んだ。人の名前だった。
リリーは顔を上げて、目の前の人物を見つめた。
「レオンハルト・ホフマン?」
燃えるような赤色の髪、はちみつ色の目。箒と同じ名前の人間。
「あなたは、いったい……」
たくさんの疑問が頭の中を支配する。
この箒の本当の持ち主は誰なのか。リリーのものであるならば、なぜレオの名前が彫ってあるのか。レオのものであるならば、なぜリリーが所有しているのか。記憶を失ってから箒は一度も取り出したことがない。ということは、記憶を失う以前のものなのか。それならばリリーはレオと以前会ったことがあるのか。
「その箒は俺のものだった。一年前、君にあげた」
レオはリリーと目を合わせようとしない。
「その箒、借りていいか?」
「あ……、うん。ねえ、わたしはあなたと……」
レオは何か言いた気だったが、結局口を噤んだ。そしてポケットから何かを取り出す。銅でできた懐中時計のようなものだ。同じく銅でできたチェーンをまとめてリリーの手の中に収めた。
「今は俺の口から何も言えない。だけど、帰ってきたら必ず言うから。だから、箒を借りる代わりにこれを預かっておいてくれ。俺の大事なものなんだ」
リリーは蓋を開けた。文字盤は紺色だが、数字も針もない。
「これは?」
「これは星読みのための羅針盤。明日はちょうど明け方に金星が見える。これで方向を確認するといい」
「わかった。必ず、教えて。だから、絶対無事でいてね」
リリーは箒を撫でた。
「箒よ箒。わたしの箒。レオを安全にブライトンまで送り届けて――」
ほんのりと温かみのある光が箒に灯った。
レオはリリーに礼を言うと、箒に跨って、あっという間に見えなくなってしまった。
星読みのための羅針盤をぎゅっと握り締めた。
(レオはわたしのことをずっと前から知っていたんだ。そしてそれを隠していた。どうしてそんなことするの……?)
記憶を失って半年が経った。自分のことなのに、自分のことがわからないことがどれだけ辛かったか。自分が自分であるということを証明できないことがどれだけ怖かったか。
(じゃあ、もしかしたら博士もヨハンもわたしのことを前から知っていたかもしれないの? 博士はわたしのことを道端で倒れていたから保護したなんて言っていたけど、どうして悪魔憑きや魔法使いだったなんてことがわかるの?)
そう思った途端に、何もかもが信じられなくなってきた。怖い。自分が今まで信じていた人間たちは、本当に信用できる人間なのだろうか?
(大事な作戦の前なのにこんなこと考えるのはやめよう。大丈夫よ。博士もヨハンも良い人だわ)
右手の指輪に触れた。リリーにとってのお守り。唯一、自分が悪魔の力を使えることを示すもの。これがあるから、リリーは戦える。
リリーは時計を確認した。作戦開始まではまだ時間がある。
気になることをぐっと頭の中に閉じ込めて、仮眠を取ることに決めた。