第3話 赤い髪の青年(1)
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ピアノの音が聴こえる。小刻みでテンポが良い。
ずっと昔に聴いたことがある。有名なワルツだ。身体が深く沈み込むのを感じた。
ゆっくりと睫毛を上げた。真っ白な高い天井と照明。首を左に傾けると、リリーのとんがり帽子とマント。壁際に木製の古いレコード再生装置と暖炉が見えた。奥の方にはドアがある。そして自分がふかふかのベッドの上にいるのがわかった。
(どこ……?)
風に飛ばされて、地面に激突したことはなんとなく記憶にあるが、それからは全く覚えていない。あれからどれくらい時間が経って、ここがどこなのか、誰がここまで連れてきたのかわからない。
(ルシフェル、ルシフェル……)
聞いていないのか、わざとなのか、おそらく後者だが、ルシフェルは呼びかけには応えない。もう、と思わずため息混じりの声が出たとき、部屋のドアが開く音がした。誰かがこちらに近づいてくる。リリーは咄嗟に寝ているフリをして、目を薄く開けた。
(危ない人だったらすぐに出て行かなきゃ)
狭い視界で顔がよく見えない。手が伸びて――今しがた気が付いたが額にタオルが乗っていたらしい――冷たいタオルに取り換えられる。
タオルの陰から相手の顔を覗いてやろうと、目をさきほどより大きく開けた瞬間、はちみつ色の瞳と目が合った。
「あっ」と思わず声が漏れて、目を泳がせて、今度はきつく目を閉じて寝たフリをする。
「●●●●?」
男の人の声だ。しかし、何と言っているのかはわからない。言葉はわからないが、この言葉を使う人たちを知っている。
リリーは寝たフリを諦めて、ぱっちりと目を開けた。はちみつ色の目と鮮血のような真っ赤な髪を持つ男の子。
(やっぱり、彼はそうだ。と、いうことは、ここは……)
リリーはそれを確認するべく、できるだけゆっくりはっきりと少年に向かって話しかけた。
「アンスバッハ語はわからないの。あなた、ペンクスリ語はわかる?」
少年は眉を顰めた。ペンクスリ語がわからなかったのだろうかと心配したが、「ああ。君がわからない言葉で話してすまなかった」と流暢なペンクスリ語を話し始めた。
「身体はもう大丈夫か? 食事を持って来た。口に合うといいが」
そう言って、ベッド脇の小さなテーブルの上にあるサンドイッチとスープのトレーを指さした。生返事をするリリーに、少年は肩を軽く竦めた。
「君がペンクスリ語で話してくれと言ったんだ」
リリーはハッと我に返る。
「ええ、そうだわ。ごめんなさい。その、あまりにもペンクスリ語が上手だったから……」
「珍しいことじゃないと思うが」
妙に棘のある言い方にリリーは違和感を覚えた。
「ごめんなさい。アンスバッハ人に会うことは滅多にないのよ」
ベッドから身体を起こそうとして、目眩と身体中の痛みでよろけた。危うくベッドから落ちそうになったところを少年に抱きとめられる。
「あ、……ごめんなさい」
「君は謝ってばかりなんだな」
金色の瞳と目が合った。昔、出会ったばかりのセリーナにも言われた言葉だ。
「……口癖なの」
「そうか」
少年はリリーを優しくベッドに戻すと、静かに見下ろした。まるで、睨んでいるようにも見える。
「まあいい。それよりも食べ終わる頃にまた来る」
そう言ってあっさりとドアから出ていってしまった。
お礼を言う暇もなく、呆然としたリリーはサンドイッチに手を付けた。
(どこなのかしら、ここ。まさかアンスバッハ……?)
ベーコンとレタスのサンドイッチを頬張りながら、少年の顔を思い浮かべる。
鮮血以外の言葉が当てはまらないと言っても過言ではないほど真っ赤な髪。まるでリリーとは対照的な彼のあの特徴的な髪色はアンスバッハ人特有のものだ。
アンスバッハ人の住むアンスバッハ国は北ペンクスリとペンクスリ王国の間に位置する。山に囲まれた地形で、人口は約三百万人。赤い髪を持つ民族、アンスバッハ人の故郷。北ペンクスリとペンクスリ王国の軋轢に耐えてきた不運な民族たちだ。
リリーの推測が当たっていれば、突風で飛ばされて不時着したのはアンスバッハということになる。そして、彼はアンスバッハ人でその家。
そう考えた途端、リリーは大変なことを思い出した。いくら助けてもらったとはいえ、男性の家に上がるのはまずいだろう。常識がそう言っている。
(あの人がまた来たら、お礼を言ってすぐ帰ろう)
そう思ってスープを飲み干した途端、ドアが開き、少年が入ってきた。
「食べ終わったか?」
「えっ、ええ。あの、あなたが助けてくれたのよね。本当に感謝してる。ありがとう。あんまりお邪魔すると悪いから、わたし帰るわね!」
この部屋からの脱出を試みるリリーを遮るように、少年はドアを閉めた。リリーの顔がサッと青くなる。こうなったら最後の手段の魔法を――。
「待ってくれ。その前に聞きたいことがある」
「な、なんでしょう……?」
冷汗が背中を伝う。そろりととんがり帽子に手を伸ばした。
(何をする気なの!? 近づいてきたら、すぐに杖を出して気絶させる。そして窓から箒で飛び出す。よし、そのプランがいいわ!)
どうかそうならないでくれと思うリリーをよそに少年は遠慮なく近づいてきた。即興で考えた計画通り、リリーは杖を出して少年に向けた。
「杖よ杖、わたしの杖。わたしに害をなすものを妨げろ。フェリーパオ!」
杖の先から出てきた光は魔法陣を通して素早く少年を捉えようとして――。
「ディフェンミナ!」
魔法が跳ね返された。いや、正確には防御魔法を展開させられた。相手も魔法使いだったのだ。そして、リリーよりももっと上級の。
気絶させることができず、リリーは慌てて帽子の中をまさぐって箒を探した。しかし、一向に箒が出てこない。
「えっ、どうして……?」
そしてその間に距離を詰めてきた少年は真っ二つに折れた棒きれ――箒を目の前に差し出した。
「君が探しているものはこれか?」
それは自分の名前が刻まれた箒だった。しかし折れてしまって使える状態ではない。
リリーは諦念してベッドに静かに腰かけた。
「ええ、そうよ。それ、わたしの箒」
少年はサイドテーブルの横にそれを立てかけると、腕組をして溜息を吐いた。
「逃げようとしても無駄だ。こんな箒じゃ。君がどこから来たのかは知らないが、ここはアンスバッハだ。箒でここまで来たのなら、帰れないだろう? だいたい、君はビザでここまで来たのか? そうじゃなかったら不法入国で警察に突き出してもいい。年が明けるまでは家に帰れないだろうが、それも仕方ない。つまり、話を聞くのが嫌なら、そういうことだ」
『不法入国』という言葉に背筋が凍った。その通りだ。今現在のリリーは犯罪者になる。
「ごめんなさい! 話聞きます!」
あっさりとベッドに座りなおした。少年も目の前の椅子に腰かける。
「本当に不法入国だったんだな……。手荒な真似をしてすまない。箒はあとでなんとかするから安心してほしい。俺の名前は、レオンハルト・ホフマン。君も気付いている通りアンスバッハ人だ」