第34話 もう一人の悪魔憑き(1)
その背中を見送って、香月もベンチから立ち上がる。
「あたしたちもそろそろ戻ろうか」
「そ、そうだね。……あっ、課題、寮に忘れちゃったみたい。香月、先行ってて!」
リリーは慌てて寮まで走る。
(箒に乗った方が早い!)
帽子から取り出した箒に跨り、ふわりと宙に浮いた瞬間、頭上から押さえつけられるように箒から転げ落ちた。
「ん!? えっ、なに!?」
理解が追い付かず、きょろきょろと周りを見回すと、いつの間にか顕現したルシフェルに見下ろされていた。
「ちょっと! ここ校庭よ!」
「大丈夫だ。それよりも、何か変だとは感じないのか?」
相変わらず感情のこもっていない冷たい表情にリリーは首を傾げた。その様子に呆れたように溜息を吐くルシフェル。リリーはむっとして口を尖らせた。
「何が言いたいのよ」
「お前、最近私以外の声をよく聞くだろう」
しばしの沈黙。記憶の片隅を探る。確かに、ルシフェルのものとは違う声を聞いたことはある。だが、悪魔による幻聴のようなものだと思い、放置した。それに、そのことを思い出そうとすると頭がぼんやりして上手く思い出せない。
「だとしてもあんたに何の関係があるのよ」
ルシフェルは舌打ちをした。
「お前はつくづく頭が悪いな。お前を私以外に――」
そこまで言いかけたところで、ルシフェルが勢いよく振り向いた。リリーもつられて視線を遣るが誰もいない。
ルシフェルの名を呼び掛けて、止めた。その代り、反射的にルシフェルから距離をとる。今までに感じたことがないほど殺気立っている。ビリビリとした空気。鋭く、今にも首を掻っ切られそうなほどに。
突如、茂みの向こうから観念したように出てくる赤い髪の青年。
その見た目にリリーは思わず「レオ!」と呼んだ。
「レオ? 誰それ?」
赤い髪の青年はボサボサの髪を適当に整えて、切れ長の目でじっとりとリリーを見つめた。
(レオ、じゃない。どうしてアンスバッハ人が……?)
青年は目を細めて、考え事をするように首を傾げて、「ああ」と頷いた。
「あの時の男か。リリー、ぼくのこと覚えてない?」
リリーは相手の顔をまじまじと見た。顔に見覚えはないが、声は間違いない。あの幻聴の声の主だ。
青年は悲しそうな表情をして、リリーの目の前に立った。
「ほら、二月十八日に会ったじゃない。ロイテンベルク城で。ヨハン・ダウベルト。ぼくの名前」
その日の記憶を思い出す。ロイテンベルク城といえばアンスバッハにある世界遺産で、レオと会った日。その日、レオ以外に会話らしい会話をしたような人物は生まれて初めて遭った――。
「ナンパの人!?」
思わず素っ頓狂な声が出た。それに対してヨハンはにこっと笑って「そうでーす」とひらひらと手を振った。
「またリリーに会えるのを心待ちにしていたんだよ。ぼくたちは運命共同体なんだから」
そう言ってリリーの手を握ろうとして、ルシフェルがそれを遮った。
「触るな」の一言が空気を凍り付かせる。
ルシフェルが家族以外の前で姿を現したままなのは初めてだった。リリーは状況が飲み込めないまま、困惑した様子でルシフェルを見上げた。
「貴様、ヴィネか」
ヨハンは観念したように、「ヴィネ、出ておいで」と言った。それを合図に、ヨハンの影から靄のようなものが立ち、次第に人の姿を形成し始めた。
獅子のたてがみのような硬い毛質に眼鏡をかけた小柄な少年。『ヴィネ』と呼ばれた少年は柔和な笑みを浮かべた。
「ルシフェル、お久しぶりです」
「何しに来た」
「相変わらず冷たい御方ですね」
「何をしに来たと訊いている」
ルシフェルの機嫌は最悪だった。殺気という殺気がこの辺り一帯に立ち込めている。現にルシフェルの足元の雑草だけ枯れ果ててしまっていた。
ヨハンはひょいっと体を横に傾けて、ルシフェルの後ろに隠れたリリーに笑いかけた。
「突然ごめんね。彼はぼくの悪魔のヴィネ。ぼくも悪魔憑きなんだ」
リリーは目を丸くした。人間とは違う雰囲気にもしかしたらと思ったが、ルシフェル以外の悪魔を、自分以外の悪魔憑きを初めて見た。
「ねぇ、ルシフェル、ぼくとリリーの二人だけで少し話をさせてくれないかな?」
ルシフェルはふんと鼻を鳴らして「だめだ」と、ヨハンを睨みつけた。
ヨハンはというと薄ら笑いを顔に貼りつけたまま、右手をルシフェルに向ける。その中指に嵌めた指輪が淡く光った。