第28話 オルムステッド校長
ルビ打つの面倒くさい
暇になったリリーは研究棟を適当に散策する。教師たちが思い思いに使う研究室は個性に溢れている。ある教師の扉の横に置かれた怪しい植物の鉢植えは育成されているのか放置されているだけなのかわからない。その向かいの教師は本やゴミ、ガラクタが扉から溢れかえっており、「ゴミ屋敷先生」と陰で呼ばれている。
階段を降りかけたその時、ズキンと頭が痛んだ。
「リリー、もうすぐ迎えにいくからね」
リリーはあたりを振り返った。リリーの周りには誰もいないはずだ。今の声は頭に直接響いたものなのか、それとも実際に耳から入ってきたものなのかわからなかった。ただ、ルシフェルの声ではない。ルシフェルとは異なり、若く、砕けた口調の声。
「だ、誰?」
「君と同じ人間さ。ぼくなら君の孤独や不安をわかってあげられる。だってぼくたちは――」
「リリー!」
突然、ルシフェルの声が割り込んできた。頭痛が治まるのと同時に、視界が狭まる。ふらふらとして、平衡感覚が一瞬でなくなる。階段から足が離れた。
誰かに優しく抱き留められたような気がした。まるで、天使のような――。
気を失い、目が覚めた時には、若い女性がリリーを覗き込んでいた。
「ゴドフリー、スピアーズが目を覚ましたようです」
(ゴドフリー? って校長先生……?)
ゴドフリー・オルムステッドはアルシア・カレッジの校長だ。研究棟の1階には校長室がある。
この覗き込んでいる女性は、オルムステッドの使い魔のキャサリンだ。
「お体は無事ですか? 校長室の前で倒れていらしたので、そのまま運ばせていただきました」
車椅子に乗った六十代ほどの男性――オルムステッドがベッドの傍に寄ってきた。
「よろしければ、お飲みなさい。リラックス効果のあるブレンドティーです」
ベッドから起き上がると、キャサリンからソーサーに乗ったカップを渡された。お礼を言い、一口飲むと広がる爽やかな香りとほんのりとした甘み。リリーは、一息吐いた。
倒れる前のことを思い出す。突然現れた謎の声の主、珍しく叫んだルシフェルの声。いったい何が起こったのか皆目見当もつかない。
ただ、あの声の主の言葉に引っかかる。声の主はリリーのことを知っているようだった。一体いつどこで出会ったのだろうか。
(それとも、ルシフェルの手下とか……?)
「貴女は、胸に秘め事を抱えているようですね」
どきり、と心臓が小さく飛び跳ねた。人に言えない秘密なんてたくさんある。悪魔憑きであること、本当は魔法を使えないこと、アンスバッハに不法入国したこと、誰にも言えない。
「秘密を明かす必要はありません。わたくしは目が見えませんから、貴女がどんな顔なのかもわかりません。そのかわり、音だけはよく聞こえるのです。音とは形に非ず。表情を見ることができなくても、わかります。厳しい制約下の中でも、人間は生きることができます。一人が難しいなら、人の助けを借りればいい。貴女が自分を愛し、周りを信じればこそ、必ず応えてくれる人がいます。自分自身に蓋をしないで、可能性を常に考えなさい。未来は幾通りもある。成功も失敗もありません。すべてが経験なのです。だから、今の貴女も失敗ではなく、なにか意味があるのですよ」
何も言っていないのに、見透かされたような気がした。自己評価が低く、家族に愛されず、その原因を作ったのは自分だ。家族を壊した自分が愛されてなるものか。ましてや、そんな自分を愛することなんてできやしない。
「わたしには……わたしには自分を愛する資格なんてありません」
オルムステッドはリリーの手を優しく包み込んだ。温かくてしわくちゃの手。その手には、いくつもの傷跡が刻まれていた。
「自分を愛するのに資格なんているのでしょうか? 自分自身を認めるのに怯える必要はありません。誰かの視線が貴女の価値を決めるものさしになってはいけません。貴女の力は決して不幸をもたらすためだけにあるのではないですよ。少しの勇気と信念さえあれば、貴女は自分を見失わない」
リリーは俯いた。どんな言葉をかけられても、どんな励ましを貰っても、自分を変えることなどできない。自分の罪を自分が赦すことなどできない。既に悪魔の力に依存している自分が何かを変えることも、そんな自分を愛することも赦されるはずがない。
オルムステッドは握る手に少し力を込めた。
「今の貴女にわたくしの声は届かないかもしれません。ですが、わたくしは大切な学徒である貴女を見放したりしません。必ず貴女の味方です」
オルムステッドはキャサリンを呼ぶと、茶色の小瓶を持ってこさせた。中にはとろみのある液体が入っている。
「これは月の雫と東雲の朝露、そしてシルフの涙を精製して作られた眠り薬です。寝る前にこれをひとさじ飲むと悪夢にうなされることがなくなります。一日ふたさじまで。これは強い薬のため、それ以上服用すると眠りから覚めなくなってしまいます。お気をつけなさい」
手のひらにころんと転がった小瓶を握りしめた。オルムステッドの目を遠慮がちに見つめる。視線が合うことはない。
「わたしがこれをいただいてもいいんでしょうか?」
オルムステッドは口元を微かに緩ませた。
「言ったでしょう。わたくしは貴女の味方です。貴女の友人も。彼らを大切になさい」
礼を述べて校長室を出る。長くなった影を踏んで寮に帰った。
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